最終回

 目が覚める。眩しい。透き通った夏の光が小さな窓から差し込んで、部屋の中を泳ぎ回るカラフルな魚たちのヒレを輝かせている。小さな魚たちは不思議な動きをする。急に何かに気付いたように、ぴくりと向きを変えるのだ。そのきっかけが何なのか、私にはまだ分からない。もう、一緒に過ごして数週間も経つのに。

 私の手にかけられた手錠の一端は、明かり取りのための窓の格子に繋がっている。引っ張ると格子はきしむが、壊すことはできそうにない。

 一色先生が飛び下りた日の翌日からずっと、井口の部屋に監禁されている。魚たちと一緒に。

 スマホを取り上げられているので、正確な日付は分からない。外と連絡を取ることもできない。職場には、井口が勝手に休暇届を出したようだ。

 逃げ出す気はなかった。あいつの気が済むまで、ここにいてやろうと思っている。

 とは言え、あまりにも退屈なので心が折れかけている。

 大きくため息をついたとき、入り口のドアが開いた。目の下に深い隈を作った井口が、体を重そうに引きずりながら私のそばに寄る。そして、私を抱きしめた。ぐったりと肩に頭を預ける。

「ヒロノは死なせん。もう医者なんてせんで良い。傷付かんように、うちが守ったる」

 私はじっと、彼女の汗ばんだ皮膚を感じている。この子の体は、むっとするような甘い香りがする。

「何度も見るんや、あんたが死ぬ夢。再会したときからずっと。ただの夢ちゃう。現実になんてさせへん」

 自分にすがる女の涙声を聞いていると、それまでは当たり前だった色々なことがよく分からなくなってくる。自分の人生も、生活も、全てが昔見た映画のように現実感を失って、他人のもののように思えてくる。

 だから、口を滑らせた。

「井口。私、ホンマのこと言うわ。この国は、ホンマはもう滅びてるはずやった。隣国から新型のミサイルを撃ち込まれて、私も井口もみんなみんな死ぬ運命やったんや。その現実を葬るために、元の世界の裏にあった夢……幻想の世界と、現実を無理矢理合体させた。感染症のパンデミックも、隣国の戦争も、全部なかったことになった。そうすることで、人々が願う平和で穏やかな世界を実現できると思ってた。でも、やっぱり綻びは消せん。人が生きることは、破滅と常に隣り合わせや。井口が見てるのは多分、元々の現実の名残やと思う。ホンマにあったことや。私は死にかけたときに幻想の世界に一瞬だけ落ちて、ウミノチョウの鱗粉を現実に持ち帰ったから」

 井口がぐすんと鼻をすする。

「なあ、ヒロノ。どうやったら、誰も死なせんとおれるんやろ」

「分からん。私は正直、現実をひっくり返したら自分は研修医じゃなくなると思ってた。病気なんて存在せん世界になると、本気で思ってたんや」

「なぁ、もしかしたら、うちらは死んだ方が幸せやったんちゃうか? こんな風に生きるぐらいなら。なんで、こんなに苦しまなあかんの?」

 私は片腕で、井口の肩をそっと抱いた。

「生きるのは、苦しいな」

 でも、

「井口がこの世界に生きてる限り、私は自分で死ぬことはないで。約束する」

 そんな形のない言葉で彼女を救えるのかなんて分からない。けれど、言わずにはいられなかったのだ。私には、言葉を尽くすしかなかった。


 かちり、と手錠が外れる音がした。


【おわり】

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シラハマ奇譚 雨希 @6pp1e

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