研修医、いえないこと
今時の病院の屋上には、白いシーツなんて干していない。
大昔の映画だったか、それともミュージックビデオだったか。青空の下、連なった白いシーツの間ではしゃぐ二人の少女の映像を見たことがある。消えたり現れたりする互いの影を追いながら笑い合う彼女たちは、まるで海中を泳ぐ魚たちのようだった。
水のタンクと空調の室外機しかない殺風景な屋上で、自分の身長よりも高いフェンスに寄りかかって、私は煙草を吸っている。甘酸っぱい煙が、喉をすっと通り過ぎてゆく。反転する前の世界と違って、この世界の煙草は駄菓子だ。ニコチンもタールも入っていない。様々なフレーバーがある上にカロリーが全くないので、病院内で患者さんがよく吸っている。私が今味わっているのは、受け持っている糖尿病の患者さんからもらったものだ。
大きく息を吐き出すと、たまたま頭上を通りかかったイルカが煙に興味を持ったのか、じゃれついてきた。私の周りをくるくると回っている。野生のイルカは噛みつくことがあって危険なので、さっさと立ち去ることにした。
室内へと戻るドアを開けると、そこには井口先生が立っていた。白衣のポケットに両手を突っ込んで、ムッとしたように唇を歪めている。
「ヒロノ、あんた、何やらかしてくれてるんや」
「ん、何のことですか」
すっとぼけたわけではない。本当に、何も心当たりがなかった。先生は壁をこぶしで叩くと、
「あのな! あんたがイルカを餌付けしてるせいで、病院の周辺でイルカに噛まれる被害が多発してるんや!」
「冤罪です」
肩の高さで両手をひらひらさせてみせる私を、井口先生が指で差す。いや、正確には私の後ろを指したようだった。振り返る。さっきのイルカが楽しそうにぷかぷか浮いていた。慌ててイルカをしっしと追い払い、ドアを閉める。
「そう言えば先生、ご相談したいことがありまして」
井口先生はふんと鼻を鳴らし、「何?」と続きを促してくれる。
「今日の飲み会、お店は『はる海』で良いですか?」
先生は目を剥いた。
「あんたはなー! ホンマな、もうちょっと真面目に働け。203号室の患者さんについての質問かと思って身構えてたのに」
「あの子、何かあったんですか?」
相手の緊張を感じ取り、私はハッと姿勢を正した。言いにくそうに、彼女は口を開いたり閉じたりする。
「……病室から、ウミツキワタリの欠片が漏れ出してるって疑惑がある」
「他の患者さんが感染したんですか?」
「患者ちゃう。職員や。内科部長の――」
203号室は、水の中にある。
この病院の一階と二階は、大きくて碧い人工の池にすっぽりと浸かっている。それぞれの病室は外から供給される酸素に満たされており、水によって隔てられている。空気感染する病気が広がるのを防ぐためだ。
「ウミツキワタリ」もやっかいな感染症の一つで、満月の夜に海辺を歩いている人に取りつき、その魂を溶かしてしまう。
病院から支給された窮屈なウエットスーツを着て、酸素ボンベを背負う。覚悟を決めて、背中から池に飛び込んだ。
勝手に入り込んだ野性の魚たちが、視界を遮る。赤や黄色の、色とりどりの彼らをかき分けながら、立方体の箱へと向かう。病室。くもりガラスでできた壁の一部だけが透明になっていて、そこから中の様子を見ることができる。
少女は、ベッドの上に腰掛けて文庫本を呼んでいた。私がベルを鳴らすと、ぎょっとしたように顔を上げる。すぐに柔らかい笑顔を浮かべ、テーブルの上に置いてあった自由帳にさらさらと文字を書き、私に向けた。「体調は変わりないです」と書かれていた。
私も持ってきた電子メモに、「今日の血液検査はすごく良くなってました。そろそろ退院できそう」と書いて少女に見せた。彼女は嬉しそうに笑い、「夏休みが潰れちゃったなぁ」と書いた。
ウミツキワタリ感染症は、つい数年前まで不治の病だった。永遠に不可能だと思われていた特効薬を見つけ出したのは、シラハマにあるK大学の研究室だった。なんでも、シラハマの固有種である貝殻の成分が効くらしい。そこの教授は、去年のノオベル賞を受賞した。
この少女にもその薬がよく効いて、血液中のウミツキ抗原の数値はもうほとんどゼロに近くなっている。人に移す可能性も限りなく低い。そもそも、ここは外界から隔離された病室だ。
なのに。
どうして、内科部長の他、数人の職員が感染したのか。
今、この病気で入院しているのはこの少女だけである。
そして、この少女が入院してから、まだ満月の夜は一度も来ていない。
「ねえ、聞きたいんですが。この病室に誰か入ったことってありますか?」
少女はきょとんとした。ふるふると首を横に振る。
「何かあったんですか?」
井口先生から、今起こっている事件について彼女に話すことは許可されている。けれど、私は
「最近、他の病室で不法侵入した人がいたんです。恋人にどうしても触れたいから、って」
と書いた。口の動きから、少女が「えー?」と言ったように見えた。お腹を抱えてケラケラと笑っている。
ずいぶんと明るくなったなぁ、と思う。入院したばかりの頃は、職員の誰とも口を聞かず、ずっと三角座りで顔を伏せていた。それがこうやって話してくれるようになったのは、病状が改善傾向であるからかもしれない。そんな子に、ウミツキワタリが病室から漏れているかもしれないなんて言えるわけがなかった。
「夏休みの宿題終わりましたか?」
「まだ」
「分からないところがあったら、教えてあげますよ」
「じゃあ、読書感想文書いて!」
「私も作文は苦手です……」
「なんだぁ、がっかり!」
しばらく筆談をしてから、私は池から上がった。重いウエットスーツをなんとか脱ぎ、大きく息をつく。地面に膝をついて肩で息をしていると、何かがぽんと頭に当たった。井口先生が、オロナミンCの瓶で私を小突いたのだ。
「魂が溶けてる程度、どうやと思った?」
先生は無表情だった。
「……相変わらず、自分の年齢を分かってないです。とっくに社会人なのに、夏休みが潰れたとか、読書感想文がどうとか言ってました」
「そっか。今の治療では、溶けた魂は戻らへんからな。だから早期発見・治療が必要なんや」
先生が、私の前に瓶を置く。黒いズボンに覆われた先生の足が遠くなってゆく。ふと足が止まり、爪先がこちらを向いた。
「内科部長やけど、飲食店で宴会中にうつったらしいわ。今日の飲み会は中止やな」
私は顔を上げた。しかし、既に井口は背を向けており、顔を見ることはできなかった。
【つづく】
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