毎朝の夢

 殺風景な病院の屋上で、井口と並んでフェンスにもたれかかっている。今日は珍しく、井口だけが煙草を吸っている。煙の匂いから、サマーローズ味だと分かる。透き通った空に昇ってゆくピンク色の煙。数匹の魚が匂いにつられたのか酔ってきて、くるくると舞う。

「そう言えばさ、こんなこと普段は考えもせんのやけど」

 井口の声は妙に重々しかった。私は真剣に彼女の横顔を見る。

「空を飛ぶ魚と海を泳ぐ魚って、見た目は同じやけど何が違うんかな?」

「なんやそれ。真面目に聞いて損したわ」

 思わずため息をついた。井口は気を悪くするそぶりも見せず、濁った目で虚空を見つめている。

「この世界って、みんなが当たり前やと思ってるけど実はおかしいことばっかりちゃう?」

 私はズボンのポケットからミカン味の煙草を取り出した。火は要らない。先を歯で潰すだけで煙が出始める。深く吸い込み、言葉と共に吐き出す。

「井口、もしかして世界が反転したこと気付いてる?」

「反転? 何それ」

「何でもない」

 井口はそれ以上、突っ込んで来なかった。煙草を跡形もなく吸いきってしまうと、何も付いていない手をパンパンとはたく。

「仕事に戻るか」

「井口、もしかして体調悪い?」

 無表情なのにどこか濁ったように感じさせる井口の顔が、急にぱっと明るくなった。けらけら笑いながら、

「なんか、ヒロノに元気を全部あげちゃったみたいや」

なんてことを言う。

「ごめんなさい」

「なにマジになってんの。冗談やで」

「私が井口に救われたのはホンマやから」

 ふはは、と井口は声を上げて笑った。彼女の顔の周りをふわふわと飛んでいた小魚たちが、一斉に散って逃げてゆく。

「ヒロノは昔っから、くさい台詞を恥ずかしげもなく言うでな」

「悪いか」

「ううん、全然。もう慣れたから」

 両手を白衣のポケットに突っ込んだまま去ってゆく女の背中を、私はただ見つめている。風になびくポニーテールの乱れた毛先を、目で追っている。

 なぜだかすごく、世界が陰鬱に見えた。淡い水色の空にはカラフルな魚たちが舞い、水たまりのような遠くの海はキラキラと輝き、海辺の遊園地の観覧車はゆっくりと廻り続けているのに。こんなにも美しく明るい街が、不気味で恐ろしい、じっとりとした闇に沈んでいるように見えた。

 院内に繋がるドアを井口が開けようとしたとき、私は思わず口走った。

「ウミノチョウの鱗粉を使って、夢と現、日向と陰を入れ替えたんや。元の世界がもうすぐ滅びるから。でも、あっちの世界が壊れることで今の世界にも少なからず影響があると思う」

 井口が振り返った。大きく見開いた目を私に向ける。

「……元の世界でも、うちらは友だちやったんか?」

 最初に聞くことがそれなのか。嬉しいような呆れるような気持ちで、うなずく。自然とにやけていた私に向かって、彼女は言った。

「毎日、夢に見るんや。あんたが死ぬ所を」


【つづく】

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