研修医、ちょっとだけ成長する

 先輩たちが開いてくれた私たちの歓迎会の会場は、海の中にあるレストランだった。

 街外れにある赤煉瓦造りの古風な雑居ビルは、一部が海中に沈んでいる。ぱっくりと開いた入り口を抜け、薄暗く先の見えないらせん階段を降りてゆくと、急にぱっと視界が明るくなる。青い光が満ちる。壁の全面が透明なアクリル板になった、海中レストラン【Fish eye】のフロアである。床には真紅のカーペットが敷かれており、ロココ調の白い丸テーブルが30席分並べられている。店員たちはフォーマルな黒スーツ姿であり、皆、訓練された完璧な微笑みを浮かべている。

 私は正直、こんな高級店なんて居心地が悪くてたまらなかった。研修医の月給は20万あるかないか、というところである。実家も中流家庭で、子どものころから外食と言ったら回転寿司かファミレスだった。

 先輩が既に十数人分のコース料理を予約してくれていた。ナイフとフォークの使い方すら知らない私にとっては食事は試練だった。行儀の悪さで周囲に不快感を与えないか不安で、いつもよりずっと慎重に料理を口に運んだ。幸いにも、今回の主役は私だけじゃなかった。明るくて社交的らしい他の研修医が注目のまとになってくれたので、私はほとんど話しかけられることなく過ごすことができた。

 なんとかメインディッシュまでにパンを食べ終えて一息つき、離れた席にいる井口の方を盗み見る。彼女はよく知らない男の先輩と楽しそうにお喋りしていた。胸の前で組んだ腕を机にのせて、熱心にうなずいたり笑い声を上げたりしている。お酒が入っているのか頬が赤い。潤んだ目は青い光をキラキラと反射している。

 ――初めて見る顔だった。私には、決して見せない顔だ。

 白い机の上に、ゆらゆらと波の影が揺れる。

 ふっ、と口から息が漏れた。

 あの人は私の友だちの【井口】じゃない。少なくとも今は、先輩の【井口先生】だ。一緒にいなかった時間が長すぎて、決して埋められない気がした。

 そのとき、糸で引っ張られるように井口先生がこちらに振り向いた。一瞬びっくりしたように目を見開き、それからムッと眉をひそめる。しばらく見つめ合って、私の方から視線をずらした。ちょうどそのとき、すっと影が落ちた。青魚の群れが私たちの頭上を通り過ぎたのだ。横目で井口先生の様子をうかがうと、彼女も魚を見上げて何やら呟いていた。声は聞こえなかった。

 会が終わった後、私はさっさと皆の輪から抜けた。ほぼ全員が、病院の方向に戻ってゆく。だらだらと皆と一緒にいるのが苦痛で、買い物に行くフリをしてどこかで時間を潰すつもりだった。

 海沿いの道を、水平線を追いながら歩いてゆく。海は、いつ見てもきれいだ。様々な顔を見せるが、私を決して裏切らない。

 ぼんやりしていた。だから、いきなり両肩に何かが触れたときはギョッとして飛び上がった。

「そんなに驚かんでも良いやろ」

 井口先生が無表情で私の顔をのぞき込む。バクバク鳴る心臓を押さえながら、

「何の用ですか」

と不機嫌な声を返した。

「ヒロノとお喋りしたかっただけやで。先輩の相手するの、疲れたわ。めちゃくちゃ気ぃ使うし」

 井口先生が笑う。

「ヒロノといるのは楽やからなぁ」

「井口のアホ。私の方がめちゃくちゃ気ぃ使ってるわ」

「……そうなん?」

 答える気はなかった。ポニーテールにされた井口の髪が、さらさらと潮風になびく。

「ヒロノ、だいぶ顔色良くなったな。203号室の人がいたときは、今にも死にそうな顔してた」

「退院して顔を見ることがなくなったら、その人について考える時間も少なくなっていくから。忙しいし。新しい患者さんはどんどん来るし」

 井口が私より数歩前に進む。背中しか見えなくなる。

「患者さんとの関係性についてじっくり考えるのは、初期研修医の仕事の一つやからな。色々悩んだら良いわ」

「せんせ……」

 彼女は振り向いた。

「ごめん。また先輩面しちゃったわ」

 学生時代と替わらない笑顔が、そこにはあった。


【つづく】

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