死ぬわけないやん

 203号室の……ウミツキワタリに感染していた女性は今日の朝退院した。彼女には幼い娘と息子がいたが、二人を自分の子どもとは認識できなくなっていた。仕事を続けることもできず、老いた両親の元へと帰ることになった。近々離婚し、子どもの親権は夫が持つことになる予定だという。

 私は定時を待たずに職場から逃げ出し、近所のコンビニに駆け込んだ。手当たり次第にお菓子やおつまみを買いあさり、自分の部屋に逃げ込んで、空腹でもないのに片っ端から胃に詰め込んでゆく。

 私は酒が呑めない。ストレスがかかった時の対処法は、昔からずっと過食だった。

 半分ほど片付けた所でさすがに気分が悪くなって来て、吐き気を紛らわすために冷たい風に当たろうとベランダに出る。煙草に火を付けて夕焼けを見上げていると、

「ヒロノ! あんた、なに無断で早退してるんや」

と声が上ってきた。井口だった。フェンスに乗り出して下をのぞく。駐車場で、彼女は腰に手を当てて仁王立ちをしていた。病院から着替えないまま出て来たのか、ピンク色のカーデガンの下はスクラブだった。

「降りて来な、ヒロノ」

「井口はホンマいっつもいっつも、うざいな」

「は?」

 井口は明らかに不機嫌な顔をする。いや、元々かなり苛立っているようではあったが、輪をかけて表情が険しくなった。普通の精神状態だったら、多分ここで喧嘩をやめていたと思う。けれど、今の私は正気じゃない。理性に言い訳をして、毒を吐く。

「先輩面し過ぎなんや。同い年のくせに、説教ばっかりしやがって」

「うちはタメで良いって言ったのに、やたら持ち上げて来るんはそっちやろ」

「ただの慇懃無礼や。そんなことにも気付かんなんて、ホンマに医者か?」

 井口は大きくため息をつく。そして、私の視界から消えた。きっと、腹を立てて帰ったのだろう。

 煙草をもみ消して室内に戻る。ぎょっとして立ち竦んだ。いつの間にか侵入して来ていた井口が、散らばったお菓子の袋を拾い集めていた。まとめてゴミ袋に突っ込み、ぐしゃりと音を立てる。

「まさか、スペアキー?」

「鍵が飽いてただけや」

 私は扉を閉め、それにもたれかかった。ずるりと体が滑り、尻餅をつく。泣きそうだ、と自覚したときには既に嗚咽が漏れていた。服の袖で目を拭う。溢れ出る涙はいくら拭いてもきりがなくて、ワンピースの裾を引っ張り上げて顔を覆った。

 ふと、頬に温かさを感じた。柔らかいものが、私の頭を包んだ。どくん、と心臓の音がした。自分のものではない。井口が抱きしめてくれたのだと気付く。

「ヒロノ、死ぬなよ」

「私はそんな弱くありません」

「アホ。ため口で良いって言ったやろ」

 私が泣き止む前に、井口は体を離して部屋から出て行ってしまった。一人残されて、しょぼしょぼとまばたきをしながら、呟く。

「死ぬわけ……ないやん。井口を残して、なんて」


【つづく】

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