シラハマ奇譚

雨希

研修医、故郷の街に帰る

 濃紺の海を背景に、体を半分だけこちらに向けて立っている彼女はとてもきれいだった。白衣がばさばさと風に舞い上げられる。高い位置でまとめられた黒髪は吹き流しのように踊る。歯を見せてにかっと笑う。えくぼができる。彼女の背後を、一隻の漁船が通り過ぎる。遠い入道雲から雷の音がする。濁った潮の香がする。

 この光景を脳に焼き付けて、死ぬまで持っていたい。そう、思った。

 これまでの人生で、何度となく同じことを願って来た。私の心のアルバムはもう幻のような写真でいっぱいで、今、そこにもう一枚を張り付ける。

 2023年の夏。世界を混乱に陥れた大災害から社会が少しずつ回復しようとしているが、某国では戦争が続いており、私たちの生活もいつ壊れてもおかしくない、そんな夏。今この文章を打っていることが将来的にどんな意味を持つのか、私はまだ知らない。知らないから、ただ、彼女のことだけを想っている。


 海沿いを走る電車を乗り継いで故郷の街に降り立ったのは、八年ぶりだった。日本のハワイとも呼ばれるこの街を、私は大学進学のために出て、それから一度も帰っていなかった。

 観光客でにぎわう駅の中を、スーツケースを転がしながら歩く。ちょうど良く、バス停に〇〇病院行の路線バスが入って来る。狭い座席に体を押し込めて、窓の外に顔を向けた。田舎の街の中心部であるそこには高層ビルなどはなく、商店街の古びたアーケードが真っ直ぐに伸びている。

 この道は、海へと続いている。

 バスに揺られて四十分、最近建て直しがなされたばかりの近代的な建物の前に着く。ガラス張りで十階建ての、ハマグリのような形の病院。私は今日から、ここで働くことになる。

 初期研修医二年目。つまり、医師になってまだ一年と数か月しか経っていないぺーぺー。一年目は母校である大学病院で研修をしていたが、国の定めで地域医療を学ばなければならず、しばらくこの病院でお世話になる。

 いくつかあった選択肢から故郷の街の病院を選んだのは、ただなんとなく海辺のリゾートで過ごせたら楽しいだろうな、と思ったからだ。この街には、私の実家は既にない。子供のころの私を覚えている知り合いだって少ないだろう。

 と、思っていたのに。医局に足を踏み入れた私を待っていたのは、忘れもしない中学時代のクラスメイトだった。

「久しぶりやね、ヒロノ。ヒロノが研修医として来るって聞いて、めっちゃ楽しみにしてたんや」

 そいつは、歯を見せてにかっとわらった。中学生のころは髪をショートボブにしていたが、今は高い位置で結ばれた毛が肩甲骨の辺りまで届いている。反対に、私は少年のようなベリーショートだ。

「井口先生、これからご指導よろしくお願いいたします」

 自分の顔が強張るのを感じながら、頭を下げる。

「タメで良いのに」

「先生の方が『上』ですから」

「まあ、確かに、職場では、な」

 私は、医学生のころに一度留年している。それ以来、先輩/後輩/年上/年下関係なく、誰にでも敬語を使うようになった。

 井口先生は笑顔のまま小首をかしげると、

「とりあえず、病院内を案内するわ」

と言って私に背を向けた。私はスーツケースの一番上に入れてあった新品の白衣に袖を通した。

 全面ガラス張りの廊下は穏やかな光に満ちていた。私の前を歩く井口先生の向こうにはずっと、おもちゃのような白い街と水たまりのような海が見えている。眩しいほどに晴れている。やっぱりきれいだな、とぼんやりと思った。そのきれいな世界を背景にしている井口先生もきれいだった。

「ヒロノって、何科志望なん?」

「精神科です」

「ふーん。うちは総合内科を専攻してるんや」

「関東の大学出たのに、どうしてこの街に戻って来たんですか」

 先生が振り向く。

「お礼奉公ってやつ。県の奨学金もらってたから。って、なんでそんな顔するん?」

 私には自分がどんな顔をしているのかなんて分からなかったが、思っていることを素直に口に出す。

「てっきりこの街が好きだからだと思ってました」

「好きちゃうかったら、縛りのある奨学金なんてもらわんわ」

「確かに……」

 先生はまた私に後頭部を向け、歩くスピードを少し速めた。

「うちの人生で一番輝いてたのは、中学の三年間かもしれん」

「何ですか、それ」

「ヒロノと遊ぶのはすごい楽しかったからなぁ。懐かしいわ」

 私だって、井口との三年間は一生の宝物だ。


 研修医や遠方から来る医学部の実習生用の寮は、海のすぐそばにあるこぎれいなマンションだった。家財道具は全て揃っている。しかも、1LDKでまあまあな広さがある。

 窓には淡い水色のカーテンがかかっていた。光の当たり方によっては灰色にも見える。窓を半分開ける。カーペットの上に寝転がる。カーテンが揺れるのをぼんやりと眺める。よく知った街のはずなのに、旅行で初めて来る土地のホテルに泊まっているような不思議な感覚があった。照明がぼんやりとしているからかもしれない。

 井口に会ってしまうなんて、運命は時折、ひどく残酷で奇妙なことをする。

 まるで、私をためらわせたいみたいじゃないか。

 「かみさま」から言い使って、今日、世界を「反転」させなければならないというのに。

 旧友との思い出を全てなかったことにする、あの幼い日々を覚えているのが私だけになる、そんな魔法を使う。

 その魔法は、全てを救うための唯一の手段だから。

 目をつむる。さようなら、と声に出して呟いた。


 目を開ける。目の前を、すーっとコブダイが通り過ぎて行った。開けっ放しにしていた窓から入って来たのだろう。灰色のカーテンの向こうには、濃紺に染まった街がある。

 ここは、「シラハマ」。

 様々な幻想生物が住む、魔法の街。

 ウミノチョウの鱗粉を一吹きしたことで、二つの世界が反転し、こちらが「現実」となった。

 さて、私は果たして、「研修医」のままなのだろうか。     


【つづく】

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