この世界がすべて嘘でも

福山典雅

この世界がすべて嘘でも

 



 その夜の彼女の肌は、触れがたい寒月の色を帯び、ともすれば耐え難く絶望的だった。


 28歳になった僕は、ただ曖昧な遊離の中、何ひとつ誇るべきものを持てずに生きていた。そんなくだらない人間でしかない。揺らぎたわんだ人生を歩み、悔恨も希望もどこかで佇んでいればいい。


 僕は仕事で訪れた港町ハンブルグに二カ月滞在していた。エルベ川沿いで何度も眺めた夕闇。目の前には古びた睡眠薬の瓶が置かれている。陰る景色は憂慮を含み、世界の美しさを殺すみたいに、僕はそんな自分の終わりを自覚していた。




 当時19歳だった僕は、例えるならジョン・エバンスが別れた恋人に宛てた手紙を出す事もなく書き続け、そしてひたすら丸めて捨てるしかなかった様に、他者を遠ざける事が好きだった。


 シニカルでラディカル、大学の同級生達といると無性に時間を無駄にしている気がしてならなかった。別に彼らに罪はない。むしろ馬鹿々々しくも限られた時間を、率直かつ素直に楽しめるおおらかさが、却って羨ましくさえ思えていた。


 僕はピルに弾かれる精子みたいに、群青色の青春を抱きかかえているだけだった。


 誰も彼もが難解な映画みたいに、暗示や暗喩を大切にしているわけではない。十代とは無闇な欲望がセンシティブな年代だ。快楽を見つめて忘却の存在足り得る嘘に、右往左往し焦がれるには当時の僕では足りないモノが多かった。


 11歳年上の詩織は、そんな僕に性を求めた。


 名を出す事さえ憚られる有名企業の重役を父親に持つ彼女は、縁故で確保したポストに安寧を見出す普通のお嬢様だった。


 ただ不思議な事に29歳まで男性経験がなく、30歳の誕生日を迎え僕に処女を渡した。


「あなたといると狼狽えてしまう」


 そう言って大人の女性の節度に揺らぎながら、彼女は僕の腕の中で初体験を終えた。


 絞る様な苦し気で甘い吐息と、張りを少し失くした肌が心地よく、筋肉の少ない柔らかな身体は、しっとりと吸い付く様に僕にずっと抱き着いていた。


 歳が離れた行きつけのカフェのバイトスタッフ、そんな僕を何故彼女が選んだのか。きっと自分を見失いたいけれど、それは誰でもよくて誰でもいい訳じゃない。そんな矛盾が年下の僕に向けられ、ある種の背徳感をもって、恐々とした望む喪失が埋もれていた。


 彼女の希望でスキンをつけずに中に入った僕は、その遅れた性を受け取る申し訳なさを感じつつ、決して気持ちが良かったわけでもないのに、驚くほどの量を出してしまった。


「セックスをする理由がわからないけど、キスは好き」


 彼女はそう言うと僕に素敵なキスをした。その唇はとても柔らかく、何度も味わいたくなる穏やかさにうっとりとした。


 だけど僕は詩織の身体に反応してしまった自分、その理由がまるでわからなかった。




 ジャック・クールは全米デビューする前、ハンバーガーショップで毎日オレンジ色のエプロンを着けていた。そのエプロンには「明日を知る者に碌な奴はいない」、そう書かれていたらしい。


 理性的な人間は、結局の所何も見えていない自分を欲しているだけで、いわばその作用において知性に溺れている。僕はそういう人間を嫌悪するよりも、無関心でいるだけの単なる臆病者に過ぎない。


 クラブ通いの好きなナギは元バイト仲間。綺麗なルックスは少しだけ人を遠ざけ、うらぶれた恋を幾つか越えていた。


「忘れられない人がいる……」


 彼女は深刻なクライマックスみたいに潤んだ瞳を僕に向け、そんな事を告げた後に軽薄で陽気なカシスを飲む。薄暗い照明に映る横顔は、芝居めいた自意識を隠す様に長い髪に半分覆われていた。


「もっと増やせばいいかもね」


 僕は気楽にそう言うと彼女を抱いた。


 驚く程濡れていた彼女は、生真面目なセックスをしたがる。まるで僕の反応で何かを伺う様に、約束と言うものを大切する子にありがちな愛撫が懸命だった。軋むベッドの上で、僕は掃除の為に部屋から追い出された猫みたいに、少しだけ退屈を感じていた。


 翌朝、朝食を準備する彼女の鼻歌を聞いた時に、女の子は不幸というパッケージを常備していて、多分そんな設定は求める幸福とは何一つ関係ないのだと思った。




 ブラウンシュガーを聴きながらオーバードーズで死んだアリス・フォグナーは、遺書の代わりにアップルパイを焼いていた。独自のスイーツ言葉を作っていた彼女。その語録でアップルパイは、「幸せを増長させた孤独」という意味があるらしい。


 誰かが幸福な時間を考える時、質量的に不幸せな時間も同様に存在し、ともすれば虚無と言うフィールドが増幅されるだけではないかと感じてしまう。それらは、何もかもがくだらないメタファーに過ぎないと僕は思う。


 ブランドショップで働く唯奈は、そんな虚無をしめやかに隠し、誰からも祝福される結婚を控えた隙のない清楚な女の子だった。


 キーケースを買う僕に、ためらいもなく誘いをかけて来て、しなやかで油断のならない瞳が、不似合いな大胆さをもって無闇に僕を惹きつけた。


「終りに向けて歩いていると、なんでも出来そうな気がする」


 彼女とのセックスは死を覗き込む様な欺瞞に満ちていて、ため息が出る程大きな声は死者の叫びを連想させた。わざと潮を吹きシーツをべちょべちょにしてビクビクと痙攣する彼女を、僕は酷く物悲し気に眺めていた。


「ねぇ、よかった? って確認する女をどう思う」


「気絶した方がよかった? って逆に聞くかな」


 彼女は自らの性を嫌っている癖に溺れていて、それを必死に取り繕う様にあがいていた。僕はそういう空回りする疎ましさがとても不毛に感じて、少しだけ酷く乱暴な扱いをすると、「もっと!」とせがまれた。その週末に彼女は結婚した。




 イギリス人の嫌味の根源をそのファッションセンスで語ったレオナルド・ラスクは、キャンパスに絵の具を貼り付ける様に、憂鬱を刻み続けて生きていた根暗な男だ。終生続いた彼の口癖は「小男はほくそえむ」だった。


 僕は19歳という歳を強く意識していた。


 理由はわからない。強いて挙げるなら、僕は十代という時間の過度期に、多くの拾いきれない想いの終焉を感じていたせいなのかも知れない。


 当時の僕は性欲というものよりも、セックスを通して垣間見る性の有り様に惹かれ、多くの女の子と知り合ってはその仄暗い穴に隠し持つ、不明瞭な何かに心奪われていた。


 だから、刺激的な女の子も退屈な女の子も、結局のところ処女膜を被って社会生活を営んでいるのではないかと思えてならなかった。それはためらいの少ない傲慢な偏見でしかない。なのに僕にはどうしょうもなくそう見えて仕方がなかった。


 例えば性を小さな死だと考える事は正しいが、僕にはむしろ最後まで隠し持った手札みたいに感じられ、自らが何故それに惹かれてしまうのか、渇望するみたいに理由を探していた。


 そんな19歳が7か月と9日を過ぎた日、僕は紗南と再会した。


 偶然、僕の働くカフェに立ち寄った彼女は、相変わらず場の空気を持って行ってしまう人目を引く美しさを携え、その瞳は常に何かの核心を握り締めている様な、そんな悪戯っぽさを秘めていた


 メールのやり取りもしてなかった僕らは、久し振りの再会に馬鹿みたいな運命の意味を見出す事もなく、ありふれた懐かしさをすぐに淘汰し、ジンジャエールの泡みたいに当たり前に穏やかに微笑み合った。


 彼女には僕のバイトが終わるのを待ってもらい、二人で少し遅い夕食に出かけた。


 ふと見かけた路地裏の薄暗い隠れ家の様な店を紗南は気に入り、僕らはまるで脱ぎ捨てた下着を見る様に、かつての感情を思い出していた。


「24歳で女は終わるの」


 クレイマー・クレイマーに出て来る様な焦げ過ぎた残念なフレンチトーストを食べながら、彼女はあっさりと事も無げにそう言った。


 どんな不条理でそんな結論に至っていたのか、僕にはまるでわからない。ケリーバッグに深い傷を刻むくらい随分酷い話だ。僕は25歳でも38歳でも53歳でも、女性は変らずに女でいるものだと思っている。


 僕が理解出来ないその理由を聞くと、紗南はスイスの国旗みたいに中立的な笑みを浮かべた。


「理由なんてない。後はどうでもいいの。ただ誰にも悟られずに嫌な女でいるだけ。女の子の人生ではそれが普通なの」


 紗南はそんなとりとめのない、嘘みたいな確信を見つけるのが好きだった。




 演説好きなビリー・モーガンは卒業を控えたある日、悪徳な同級生達にリンチに会い瀕死になりながらも、意味もなく買ったばかりのポッコ―ンを守っていた。シナリオライターになった彼はハリウッドで詐欺に会い、「経験は知識を濁らせる」と嘯いて黒く染まっていった。


 僕と紗南は同じ地方都市の生まれで、中学の頃に互いの初体験を交換した。


 もうどんなきっかけで親しくなったかは忘れたが、恋人として付き合うという訳でもなく、友達という空気でもない。僕らはなんとなく互いが必要な時がある、そんな間柄だった。中学の時にセックスをしたのもその1度切りだった。別にする事が嫌でもないが、ただ裸で抱き合う時間だけで十分だと僕らは知っていた。


 僕には、この関係を正しくも散漫な理性で伝える事は出来ないと思う。


 高校進学では別な学校を選び、彼女が幾人かの男と付き合っているのは聞いていたけど、僕らの間柄は何も変わらない。嫉妬だとか独占欲だとか、そんなありもしない理想にイライラする感情は抱かず、僕はあるがままの彼女を受け入れていた。


 男性として僕は色々と壊れているかもしれないし、欠陥も多いと思う。だけど、そんな僕だからこそ紗南に出逢えた事を大切にしていたかった。


 大学進学を待たず、僕らはお互いが自然と疎遠になる事を意識していた。思い出した時だけメールして会う。その回数が薄れる。僕らは思春期の嘔吐する様な喧騒から少しだけ身を引いて、互いの距離感を確かめ合っていたのだと思う。


 だから偶然の再会はきっかけとして十分に機能して、再び僕らは離れていた時間の正しさを知り、風で生まれた湖の波紋が幾つも重なるみたいに、穏やかにその人生の再会を生かす事が出来た。


「友達の友情よりも、赤の他人の方が優しくて信じられる」


 高校生として最後に会った日に、17歳の彼女は僕にそう言った。


 僕は友情は大事だと思うけど、決してそれは大切ではないと考えていた。多分それは湧き水みたいなもので、普段の結果からの自然現象として存在出来る。それよりも僕は失ってしまうものが大切だと考えていた。失いたくないものが大切だと信じていた。


 僕にとって紗南はそんな女の子だった。





 詩人のブリジット・ロブロは、自宅の庭から白骨と化した死骸を十二体発見した。なんらかの問題のある古い家屋だが、彼女はそのまま住み続け庭を美しい花壇で埋め尽くした。「ささくれ立った夢なんかを見るのは死んでからで十分」、そんな言葉が刻まれた小さな石碑を庭の片隅に立てていた。


 再会を果たし暫く経った時、紗南と僕は久し振りにセックスをした。彼女がどうしてもとせがんだからだ。今、思い出してもぞっとする。


 その日、彼女のマンションに僕は行き、手土産のワッフルを食べる間もなく、コーヒーを一口しか飲めないままベッドに誘われた。


 色彩の豊かな彼女の部屋は比較的にキチンと整理されていて、様々な小物、特にガラス細工のものが多く、どこかしら異国の匂いを僕に感じさせた。


 シャワ―も浴びず裸になった彼女は「生理中」だと告げた。


 どんな冗談かと思ったけどそれは本当で、バスタオルを何枚もシーツに敷き、僕は正常位しか出来ず、ぬるりとする大量の血を眺めながら、地獄みたいな時間を過ごした。


 全てを終え、片付けも終わり、シャワーを浴びて少しきつい匂いのするベッドに横たわると、僕は彼女に聞いた。


「なぜ、今日じゃないといけなかったの?」


「生理中は意識が子宮に奪われるの。自分がね、取り込まれている感覚。だからそんな自分を殺してみたかったの」


 僕にはちょっと理解出来ないけど、随分残酷な話だ。


「生理って、僕には月と海みたいに感じる。女の子の本音が月の様に満ちてゆき、海みたいに性が満ち引き満月になる。そして陰っていくと、子宮から逃げ出すんだ」


「そんな気楽なもんじゃないから」


 生理痛の激しい彼女は、痛み止めの小さな薬箱を指で弾いた。


 それから三カ月ほど僕と紗南は、普通にメールをしてたまに会っていた。僕は穏やかで静かな時間を過ごしているつもりだった。





 トランプマジックが得意だったゲーリー・バートンは、社会生活では随分横暴な詐欺師だったが、妻や子供にだけは深い親愛を注いでいた。そんな生活を二十年過ごした後に、彼は有名なコーヒー店のドライブスルーで心臓発作を起こした。最後の言葉は「汝、哀れみを奥ゆかしくも捨てゆかん」だったらしい。


 僕は時折、一人になりたくて賑やかな店に行く。


 取り留めもない喧噪の中で、孤独を感じながら軽く食事を取る。偶々見つけた深夜のスポカフェは、随分と騒がしかった。


 肩を抱き合いビール片手にがなる様に歌うジョンブル達が幅を利かせ、同世代らしき女の子達もはしゃいでいた。海外で行われていたサッカーの試合がモニターで流れていたが、僕はヒースロー空港で佇むターミナル1の番号みたいに、特に興味もなく眺めていた。


 目の前には案外大ぶりなホットサンドと、シナモンシュガーをまぶしてカリっと揚げたパンの耳、ついでにパサついたウインナーとポテト、オリジナルカクテルは甘ったるくてやる気を失くすのに丁度よく、僕はそんな意味のない時間に満足していた。


 時折スマホが光って震えるが、どうでもいい事と深刻な事しかない。誰もが夜の孤独を探す訳でなく、ささやかな拠り所を足場に朝を迎えたいのだろう。


 僕は深刻な事にだけ穏やかに返信をし、今夜はほっといて欲しいから電源を切ろうとした時だった。唐突に紗南から某有名店のハンバーガーを買って来てとメールが入った。


 勿論、こんな深夜に店が開いているはずもない。違うバーガーなら手に入るが、彼女の求めているものは、「なかったよ、ごめんね」という僕の顔だろう。


 すぐに「わかった」とだけ返信して店を出た。


 深夜の街角を歩きながら、12月初旬の風が顔と肌にその存在を強くアピールするみたいに突き刺さる。僕は澄んだ星空とクリスマスを彩るイルミネーションに励まされ歩き続けた。ただ闇夜に反響する自分の足音が、無闇に大きく聞こえていた。


 僕は彼女のマンション近くのコンビニでアイスクリームとビールを買って部屋に向かった。マンションの扉を開いた紗南は、酷く酔っているみたいだった。


「あれ? ほんとに来たの?」


 そんな随分なセリフで暖かく迎えてくれた紗南に対し、ハンバーガーについて生真面目に謝ると、そっとフレンチキスをしてくれた。


 そのまま彼女は不確かな足取りで僕の手を取り、まるで踊るみたいにしてベランダに向かった。慌ててアイスクリームとビールを冷蔵庫に入れようとしたが、強引に引きづられてしまい、僕はそれらをリビングのソファに軽く投げるしかなかった。


「ねぇ、月がすごく綺麗なの」


 少し広いベランダから白い息を吐きながら、僕らは二人で夜空に微かに伺えた美しくも儚そうな繊月を眺めた。


 十二階のこのマンションから見る月は、眼下の街並みの影響をあまり受けずに、どこか不自然に近くてなんだか不安になる。そんな事を考えていた僕の首筋に、彼女は腕を回して胸の中に顔を埋めた。


「暖かい」


 そう呟く彼女は顔を上げて微笑み、揺れる様に小さくステップを踏み始めた。


 部屋の中から古い映画でしか聞いた事のないオールディーズ、パッツィ・クラインの「Crazy」が遠く切なく響いていた。


 チークダンスみたいに揺らぎながら、紗南は僕の顔のすぐ近くで語った。


「私ね、恋をするのも誰かを愛するのも楽しいけど、自覚した時には全部終わっている気がするの。どうしょうもなく終わりが見えるから、傷つけるだけの時間に意味がなく思えて、結局冷たい言葉をわざと使いたくなる」


 彼女の伏せていた瞳がぼんやりと覗き込むから、僕は少し不安になった。


「君がそう思うなら、好きなだけわがままをふりかざせばいい。多分相手は怒るけど、男ってそうする事でバランスを取るちっぽけなガラクタなんだ」


 微かな月明かりが彼女の顔をうすら寒く照らし、僕はざわついた心のやり場に少し困っていた。


「ねぇ、寂しさに夢中なる事って馬鹿げてる? 辿り着けない想いだけを抱えて、私はとりとめのない世界で絶望するの。そこには勘違いしそうな心地良さがあって、あなたに会いたくなる。一緒にいると今みたいに何かが埋まるけど、それが正しいのかわからない。これは恋でも愛でもないのに、やっぱり心地いい」


 僕は彼女そのものみたいな美しい頼りなさを感じながら、少し抱きしめる腕に力を込めた。


「僕は普通のね、愛だとか恋だとか、そんな素敵なものを受け取る自信がないんだ。100%の恋愛を探せないのと同じで、僕はずっとそんな自分でいいと考えている」


「私達って馬鹿みたいだね」


 紗南から不安を隠さない女の子特有の、魅力的で注意深い儚さがごぼれていた。だけどその瞳はとても安心していて穏やかだった。 


「私は結局破滅を避ける為に生きていて、だからこんな私を救おうとする優しさで傷つけられるのも承知だし、自分が愚かなのを知っている。それなのに、この瞬間が好き。ずっと変わらなくていい、そう思えるこの時間だけが好き。もういつ終わってもいいくらいに」


 そう言いながら彼女の腕の力が少し緩くなった。


 飲み過ぎてすっかり眠くなっているみたいだ。すぐに寝かせてあげたいけど、僕だって饒舌な夜はある。そんな想いをこの時だけは何故か止められなかった。


「いいかい、紗南、君は馬鹿だ。変化だとか自分だとかそんな事はどうでもいい事なんだ。君は君自身を見失おうとしているだけだ。人生なんてね、僕は蓋の開いてない役立たずな缶スープみたいなものだと思っている。僕はおじいちゃんになって老人ホームに入って、同じくおばあちゃんになった君といたいって思っているよ。もうお互い一人ぼっちでね、午前中に運動で歩くのもいい、そうして疲れた時にベンチに座って、日向ぼっこをしながら毎日同じ景色を見て、たわいのないおしゃべりをする。僕はその頃クッキー作りの趣味があって、そんなおやつを君にあげて、『かたい』って笑われたりする、そんな毎日をただ待っているだけでいいんだ」


 紗南は僕の胸に顔を押し付けて、眠り始めたのか身体がすごく重い。


 でも僕は構わない。頼りない繊月のせいなのか、彼女に届かない言葉を馬鹿みたいに喋り続けた。


「僕はね、そんな人生で十分。他に何もいらない。そうして人生の終わる瞬間に君が側にいてくれたらいいなって思うだけ。僕らはそういう関係の為に存在していて、きっと出会えたんだ」


 僕は彼女を支えながら抱き寄せ、不格好な姿勢で呟いた。


「そういう意味で僕はね、君が好きなんだ。生涯をかけて君を好きでいるって、それだけが僕の決めた大切な事。僕は君を愛している」


 最初で最後の僕の告白に、彼女は全く反応なんてしてくれない。


 いいさ、わかってる。


 僕は背中に回した両腕に力を込めて、ベランダから室内に彼女を運んだ。コツンと足元に転がっていた酒瓶を蹴ったので、どれだけ飲んでるんだとため息をついた時、その隣に転がっていた空になった睡眠薬の瓶を見つけた。


「くそっ!」


 一瞬にして僕は悔し涙が溢れて来た。






 3週間後、辛うじて一命を取り留めた紗南と僕は公園を歩いていた。


 クリスマスが終わった12月26日、寒々とした公園に人は少ないけど、却ってすっきりしていて気分がいい。僕らはペーキングパウダーを入れ過ぎたケーキみたいに不格好な厚着で中途半端に膨らみ、寄り添い腕を組んで歩いていた。


 彼女は後遺症が出てしまい、左足を引きずる様にして歩いている。僕はその速度に合わせゆっくり歩いてあげるのになかなか慣れなかった。


 曇り空は空気を重くする代わりに、この世界の誰にも公平な憂鬱を贈ってくれていた。すっかり全ての葉が落ち枯れ果てた木々が少し強い風に揺られ、もうこれ以上渡す物がないという姿が惨めだった。


「違う人だけど、好きでもない人の子供を2回もおろしたの。そんな自分が嫌になった。そんな生き方も選択も、そうしてしまう考え方も、全部嫌になったの」


 ぼそりと呟く彼女は薄れているがまださらさらとした死の影を背負い、迷い追う様に堕ちていってしまいそうだった。


「最低だよ」


 僕は彼女に貼り付くその死の影を見つめながら、そう言った。


「わかってる」


 紗南は身体を少し強張らせて、ぎゅと組んだ腕に力を込めた。


「死を選ぶ事もそうだ」

「わかってる」


 彼女は少しだけ顔をあげて、その美しい瞳に怯えなのか怒りなのか、判断のつかない震えを映して僕の様子を伺い、小さく唇を動かした。


「あの時、何故あなたを呼んだか覚えてないけど、側にいてくれてよかったって思っているの、あなたという存在に素直に頼れた自分でよかったって、今はそう考えられる」


 僕は彼女の頭を優しく引き寄せた。


「いいかい、君が死を選びたい時に必ず呼んでくれるなら、僕はうんざりした顔で訪ね、忌々しい口を散々きいてあげるよ。だからね、もう死なないと約束して」

「……そうする」


 一瞬だけ小さな雨粒が降った様な気がした。


 僕は左足を引きずる彼女と、憂鬱な空の下で散歩していた。





 ワインの樽を街で転がして愛人を殺そうとしたミネルバ・ケリーは、生涯を通して多くの孤児の世話をして来た。だがその内の一人に腹を刺された時、「何を信じるか、誰を信じるか、結局は自分を騙せればいいだけだ」と不敵に笑った。


 僕は手に握れない何かを信じている。それは形にならないし、決して言葉に出来ないけど、僕は何かを信じていた。確信にも似たその感覚は19歳の僕を捉えて離さず、多くの女性をその後も抱き続ける事になる。


 紗南は年明けに田舎に戻った。パテシエの勉強をしていた彼女は、「いつか小さなケーキ屋さんを始めるの」と言って僕の前から去って行った。


 別れる前日に僕らはセックスなしで朝まで抱き合っていて、これからお互いの誕生日だけメールを交わそうと約束した。それから毎年、年2回だけのメールを交わす友人となり、5年後、24歳の紗南は消防員と結婚をして、その2年後に三つ子を出産した。


 28歳になった僕は叔父の経営する会社で働いていて、数か国語を喋れる事から海外支所に自ら望んで幾度か転勤した。準備された家は随分と大きなものばかりで、まるで帰国後は本社勤務の役職持ちみたいな待遇だった。


 僕は現在ハンブルグにいる。美しいエルベ川沿いにあるエルプフィルハーモニーを眺めながら、夕闇のカフェでコーヒーを飲んでいる時、紗南からメールが届いた。


 今日は僕の誕生日だった。


 メールの内容は子供達の事ばかりで、あの紗南がすっかりお母さんをしている。僕はふと少し悲しい気分になって、鞄の中からあの時紗南が飲んだ睡眠薬の空き瓶を取り出すと、そっとテーブルの上に置き夕闇の中で眺めた。彼女が別れる時に餞別としてくれた品だ。


 僕は暮れゆく世界で、その瓶を眺めながら泣いていた。


 どうしても涙を流さなければいけない気がしていた。


 今日のこの瞬間、穏やかに自分の中にある何かが終わった気がした。


 そしてあの時の死んでしまいそうだった紗南はもういないと感じていた。


 だけど、それが哀しい訳ではなかった。


 僕は僕の中にいたあの時の19歳の僕の為に泣いている。19歳の僕が探していたモノは結局みつからないまま、今頃になって終わりを告げた。


 感傷的な喪失感なんて興味がないはずなのに、僕は失くしたモノの為に泣かなければいけなかった。


 気がつけば黄昏は終り、美しき街並みの光がエルベ川に反射していた。











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