第2話 名工
「ね。気味が悪いでしょう」
伯母が私の顔を覗き込んだ。
正直なところ「気味が悪い」どころの話ではなかった。伯母も、亡くなった伯父も、この漆喰板からそれ以上の印象は受けなかったのだろうか。
それとも私が過敏に反応しているだけなのか。…そうかもしれない。冷静になって考えたら、何をそんなに恐れることがあるだろう? ただの彫刻ではないか。
「あのひとに『何なの、これ』って尋ねても、『慎ちゃんならわかるはずだ』って言うばかりで。あなた、大学でこういうの、勉強しているんでしょう。古い絵とか、本のこと」
「古い絵や本を調べることもありますが、どちらかと言うとフィールドワークが中心ですよ」
無駄とは思いつつも、私は一応の説明を試みた。
思えば民俗学などという、箸にも棒にもかからない学問を専攻に選んだのも、伯父の影響があったことは間違いない。伯父は地元の中学校で教鞭を執るかたわら、郷土史家としても活動していた。伊豆の地方紙にコラムを寄稿していたこともある。
両親は私の進路希望に反対だった。だが、伯父だけは私の味方についてくれた。両親を説得する際には「学費もいくらか援助するから」とまで申し出てくれた。おかげで私は晴れて、民俗学の学徒となることができた。
いわば、伯父は私の学問上の恩人だった。恩人からの最後の頼まれごととあれば…気は進まないが仕方がない。預かって調べてみよう。
だが、私にできるのはそこまでだ。ある程度のことがわかったら、それをどういう風に処分したらいいのかもわかる。美術的に価値があるものなら古美術商にでも売るか、美術館か博物館に寄贈する。価値のないものなら、捨ててしまえばいい。当初の恐怖こそ薄らいだが、それほどこの作品の第一印象は悪かった。
忌まわしい漆喰板を覆い隠すように、私は木箱の蓋を閉めた。そして箱書の文字に目を止めた。くずし字で書いてあって大半は読めなかったが、末尾にある作者の名前だけは、辛うじて読み取ることができた。
「正八」
というその名前には、心当たりがあった。
*
入谷正八。
幕末の左官職人で工芸家。松崎村(現在の松崎町)で生まれ、後に江戸に出て名工として名を馳せた。江戸の人々は彼を「伊豆の正八」と呼んだ。
正八が得意としたのは、「こて絵」という、壁に浮き彫りの絵を描く手法である。まず左官ごてを使って漆喰を盛り、形を整える。そして漆喰が固まる前に、顔料を塗って色を定着させる。
この技法自体は昔からあったものだが、正八はそれまで職人の作業の一部だった「こて絵」を、芸術の域にまで高めた。狩野派に学んだ細密かつ繊細な表現は、世間の評判になった。そして江戸や伊豆の寺社仏閣や商家の土蔵に、数多くの作品を残した。
うろ覚えの知識を補うために、取り急ぎ私は、ネットで調べた情報をまとめてみた。
まだこの段階では、贋物の可能性も捨てきれないものの、例の漆喰板を正八の「こて絵」と仮定してみよう。次にやるべきことは、この作品の由来を調べることだった。
それから二日ほどかけて、私は手がかりとなる資料を探して、伯父の書斎や、町の図書館を渉猟した。昔の郷土ゆかりの人物に関する情報であれば、まだまだネットよりも書籍の方が頼りにある。伯父はさすがに郷土史家を名乗っていただけあって、この分野の蔵書が豊富だった。正八に関する本も何冊か見つけることができた。なかには正八の作品を撮影した図録もあったが、問題の漆喰板は載っていなかった。
*
集めた本の中でも、いちばん参考になったのは、『伊豆の正八 人と作品』という評伝だった。昭和の終わり頃に、大手出版社から出た分厚い本で、内容も詳細、図録も豊富だった。
読み進めていくと、気になる記述に行き当たった。
正八が手がける作品は当初から、王朝風の人物画や、仏画、花鳥風月などの伝統的な画題が多かった。
そんな彼の作風が、急に変わった時期があったとされる。それが一八五五年(安政二年)、いわゆる「安政の大地震」の直後から一年ほどのわずかな期間で、正八は誰も見たことのない作品を次々と世に出した。本人の弁によると「吉夢に霊験を授かり、心中に異神を感得した」とのことだった。しかしあまりにも見慣れぬ画題であったため、周囲の評判は芳しくなかったと伝えられている。
「幕末、すなわち封建時代の末期にあって、正八が芸術家としての近代的自我に目覚め、社会との相克に悩まされた時期」
評伝の著者は、そう結論づけている。
ただ、どういうわけか、その時期の作品は現存していない。
図録にも収録されていない。
なくなった理由もいまいち判然としない。ただし、まだ正八の存命中に、何者かがこの時期の作品ばかりを、集中的に買い集めていたことが、評伝の中では示唆されていた。
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