第5話 下田
曲がりくねった
私の運転する軽自動車は、時おりがたがたと揺れた。道路は舗装されていたが、昨夜の風雨で小石や小枝が散らばっていたのだ。私は不安になって、ルームミラーで後部座席を確認した。そこには例の漆喰板を収めた木箱が、風呂敷に包まれていた。念のため、梱包材で何重にも包んで、樹脂バンドで座席にしっかりとくくり付けてあったが、それでも心配だった。百年以上も昔の作品なのだ。
「『こて絵』について、ご存知の方が見つかりましたよ」
津知屋理事長から電話があったのは、つい二日ほど前のことだった。最初にやり取りをしてからわずか一週間ほど。こちらは何ヶ月もかかるものと覚悟していたので、少し拍子抜けした反面、早く見つかったのは有り難かった。
理事長の話によると、その人物は同好会の会員ではない。ある会員の知り合いらしいが、たまたまSNSで画像を見て、理事長に直接連絡してきたらしい。どうやら私が送った画像は、予想以上に拡散されたらしかった。
「ご本人の話では、『写真の作品を長い間、探していた。ぜひ、間近で拝見したい』とのことです。『状態と条件さえ良ければ買い取りたい』とまでおっしゃっていました」
急な話の進展に、喜ぶというよりも少し戸惑った。自分でもあれほど早く手放したがっていたはずなのに、おかしな話だが、逆に買い取り話をもちかけられると、ちょっと待って欲しいと思う。
話がうますぎるような気もする。
だが、作品について何かを知っていることは、間違いなさそうだ。
理事長が読み上げた電話番号と氏名を、私はメモに書き留めた。
「下田市にある博物館、『下田開国記念館』の職員で、
*
伊豆の下田が日本史上で最も有名になった事件といえば、幕末の黒船来航だろう。一八五三年に浦賀に来航していたペリー提督は、翌一八五四年に再度来日して幕府との間に日米和親条約を締結した。同年六月には開港したばかりの下田で、開国交渉を続けている。一八五八年には日米修好通商条約が締結されたが、この条約でも下田は交渉の拠点として重要な役割を果たした。
「下田開国記念館」というのは、名前の通り開国に関する資料を収蔵している博物館らしい。そこが正八の「こて絵」と、どう結びつくのか、いまいちわからなかった。
軽自動車は下田の市街地に入った。国道をまっすぐに進み、病院前の交差点で左折すると、なまこ壁の立派な建物とともに「下田開国記念館」の看板が目に飛び込んできた。館の隣にある駐車スペースに車を止めると、私は後部座席から「こて絵」を包んだ風呂敷を取り出した。
本日は休館日らしく、表玄関は閉まっていた。裏手に回って、アルミ扉をノックすると「どうぞ」と、甲高い声が聞こえた。同時に、扉が開いて男が半身を乗り出してきた。
「天城です。ささ、どうぞ入って」
裏口から上がると、そこは小さな事務室だった。六畳間くらいのスペースに、デスク、大きな資料棚、小さな冷蔵庫、ソファまでぎゅうぎゅうに詰め込んである。その上、天城氏は肥満体といっていいほどの巨体だったので、ますます手狭に感じた。室内はクーラーで涼しかったが、天城氏はしきりに汗をハンドタオルで拭いていた。
「暑かったでしょう。麦茶しかありませんが、良かったらどうぞ。あ、『こて絵』はそっちに置いておいてください」
私はソファにかけると、風呂敷包みのまま、隣にそっと置いた。
目の前のテーブルには、麦茶のグラスが置いてあった。
*
「まさか実物をこの目で見ることができるとは、思ってもみませんでした」
天城氏は資料棚からファイルを取り出すと、小さな紙片を引っ張り出し、テーブルに置いてみせた。
ホテルかどこかのメモ用紙のようだった。紙質がかなり古く、劣化して変色していたが、インクで落書きのようなものが描いてあった。
「これ、何だかお分かりになりますか? よく目をこらして見てください。今から百五十年以上も前の紙ですから」
言われた通りに見つめていると、やがてそれが何なのかわかった。
魚のような体表、烏賊のような頭、蝙蝠のような翼。
かなり単純化された線であるものの、間違いない。漆喰板と同じ図柄だ。
「これは一八五七年、ある人物の手紙に同封されていたメモです」
天城氏はファイルからさらにもう一枚、今度は古めかしい封筒を取り出した。
「タウンゼント・ハリスはご存知ですか。初代の駐日本米国総領事で、ここ下田で幕府と、開国に関する交渉を重ねました。日米修好通商条約締結の立役者です。これは、そのハリスが本国アメリカに送ったとされる手紙です。宛先はマサチューセッツ州アーカムにあるミスカトニック大学の教授。ハリスは貿易商や政府の公使として世界各地を転勤しましたが、この教授とは本国にいた時分から、親交があったようです。拙いですが、私が日本語訳した文章もあります、ぜひ読んでみてください」
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