第3話 文献
『伊豆之名匠 入谷正八伝』より
正八の弟子の証言(聞書)
へぇ。あの地震の後で、師匠がよく夢を見ていた時分ですね。あっしは今でもよく覚えておりやす。
「こいつぁ吉夢だ、吉祥だ」なんて、師匠はそれこそ夢中でアレを作っておりやしたが。…アレがそんなにめでてぇもんですかね。
師匠は覚えてねぇと思うんですが。眠って夢を見ている時の師匠といったら、そらぁもう七転八倒の苦しみでごぜえやしたよ。滝のようにダラダラと汗を流してね、うなされて、こう、胸をかきむしって、からだを雑巾絞るみてぇによじって、叫び声もすごかった。あっしら弟子たちはおっかなくて、気味が悪くて、おちおち眠れやせんでした。
それに師匠が見た夢を元にこしらえたアレ…アレは一体、何なんですかねぇ。あっしに学がないせいかもしれませんが、あんなモノは見たことがねぇ。龍のような、烏賊のような…いや、どんなモノも違う。うまく言葉にできねぇけれど、何とも薄気味悪い、浅ましくておぞましいモノですよ。アレは。見ていて背筋が寒くなる。あっしにゃ学はないけれど、勘でわかるんだ。アレはお天道さまの下に出しちゃいけねぇモノなんですよ。
あっしらはね、職人ですよ。注文されて絵を描くんです。お金持ちの旦那が「おい、ここの土蔵のすみっこに何か縁起のいい絵でも描いてくれ。龍とか菩薩さまとか」っておっしゃって、こっちは「へぇ」って頭を下げて、龍やら菩薩さまを描く。それが仕事です。師匠だって地震の前は「金にならねぇ仕事はするな」って口を酸っぱくしてあっしら弟子に言っていたんですよ。それだのにあの地震があってから、師匠はまるで人が変わったようになっちまった。注文されてるわけでもねぇ、金にもならねぇ、あんな気味悪いモノを熱心にたくさんこしらえたんです。どういう風の吹き回しでしょうね。
でもね、近頃は思うんですよ。師匠はやっぱり注文を受けていたんじゃないかって。それも
*
『古老が語る 伊豆の昔話』より
「海に呼ぶ絵」
江戸時代の終わり頃の話だ。
松崎村(今の松崎町)で生まれた「伊豆の正八」という腕ききの左官職人がいた。この人の描いた「こて絵」は縁起物として評判で、持ち主が網元ならば必ず大漁になり、持ち主が
ある時、正八は霊感を得て、誰も見たことのない不思議な「こて絵」を描いた。もの好きなお金持ちが手に入れて土蔵に飾ったところ、そのお金持ちは海でおぼれて死んでしまった。その後、「こて絵」は何度か人手に渡ったものの、持ち主はことごとく海で死んだ。
さすがにこれは何かがおかしいと、松崎村の人たちは噂しあった。そして皆で「こて絵」を、徳の高い和尚さまのところに持ち込んだ。
和尚さまは、絵をひと目見るなり言った。
「これは伊豆の海の神様を描いた絵だ。えびす様や、厳島の神様、住吉様などよりももっとずっと古い神様で、霊験あらたかだが、持ち主を海に呼び寄せる。この絵はわしがあずかっておこう」
だが、絵をあずかってひと月ほど経った頃、和尚さまは海でおぼれて死んでしまった。村人たちはお寺に行って「こて絵」を探してみたが、どこにも見当たらなかったとさ。
*
確証を得ようとして、かえって疑念が募っていくばかりだった。
そもそもこの漆喰板は、正八の真作なのか。それも安政の大地震の後に「異神を感得」してできた作品なのか。正八の弟子の「龍のような、烏賊のような」という証言は、それを裏付けているようにも思えた。特に「お天道さまの下に出しちゃいけねぇモノ」というくだりは、初めて漆喰板を見た時の不吉な予感がよみがえってきた。「持ち主は必ず海で亡くなる」という昔話も、妙に気にかかる。
これ以上、一人で調べても埒が開かない。
この作品について、何か知っている人を探さなくては。
まずは、学者。私の通う大学に、美術史の教授がいる。昨年に一度、授業を受けたことがあるだけだが、メールで連絡してみよう。
次に、古美術商。伊豆ゆかりの作家なら、地元の業者が詳しいかもしれない。ネットで探してみるつもりだ。
最後に、郷土史家。これは伯父の交友関係を当たってみる。伯母に許可をもらって、伯父の保管していた名刺を見せてもらった。
「そういえば、お葬式の時に一人、郷土史関係のお知り合いがお見えになっていたような…」
伯母は芳名帳と名刺の名前を照らし合わせて、名刺入れから一枚の名刺を取り出した。
伊豆郷土研究同好会
理事長
津知屋 良道
TEL.xxxx-xx-xxxx
MAIL.xxxxxxxx@xxxxx.jp
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