第1話 遺産
すべての発端は、伯父の死だった。
伯父と、私の父は、西伊豆にある松崎町の旧家に生まれた。父は地元の高校を卒業するとすぐに伊豆を離れ、東京の大学を出て、東京で就職した。結婚すると神奈川県内の団地に居を構え、そこで私が生まれた。いっぽう長男である伯父は松崎町に残り、江戸時代より続く当主の座を継いだのだった。
家同士のつながりで言うならば、伯父の家が本家で、私たちの家は分家に当たるのだろう。しかし子供の頃から敷居の高さを感じたことはなかった。伯父はずいぶんと私のことを可愛がってくれたし、私の方も夏休みやお正月に、伯父に会いに行くのを楽しみにしていた。
「俺には子供がいないから、俺が死んだら安佐賀の家はお前が継ぐんだぞ」
私に熱心に説く伯父に、父は冷ややかかだった。
「馬鹿。継げるような大層な
いくら旧家とはいえ、田舎の農家に過ぎない。それでも明治頃までは一帯の地主であったが、その土地も先代、先々代であらかた売り払ってしまっていた。今あるのは僅かな山林と、土蔵のがらくたばかりのはずだった。
だが、伯父はその時、にやりと笑った。
「あるんだよ。ひとつだけな。だが、お前にはモノの価値というものが分かっていない。この子ならわかる。だからこの子に譲るんだ」
*
伯父に胃がんが見つかり、入院することになった。
そう父から聞かされたのは、今から半年ほど前のことだった。あとひと月で大学が夏休みに入るという頃で、帰省したら見舞おうと考えていたら、夏休みの直前になって訃報が届いた。よほど進行の早いがんだったらしい。
全く実感がわかないままに、父の運転する車で伊豆に向かった。車の中で、ぼんやりと物思いにふけった。伯父の言っていた通り、私が「家を継ぐ」ことになるのだろうか。正直、家の存続なぞには興味がなかった。こちらにとってはもう、神奈川の家が自分の家だ。家の伝統だの、ご先祖だの、お墓だの…そんなことを気にかけるのも、おそらく私たちの世代で最後になるだろう。
松崎町に着いてからのことは、実はあまりよく覚えていない。故人との対面もそこそこに、葬儀の手伝いに回ったからだろうか。弔問客の道案内や接待など、あれこれと立ち働いたおかげで、ずいぶんと気が紛れた。
あわただしく通夜と葬儀を済ませ、ひと段落着いたところで、未亡人となった伯母に、改めてお悔やみを述べた。さぞ悲しんでいるのかと思いきや、彼女もあまり実感がわかないようだった。無理もない。あまりにも突然の出来事だったのだ。
「慎ちゃんに見せたいものがあるのだけれど」
伯母は私を、庭の外れに連れて行った。主屋から見て東南の角に、なまこ壁の土蔵が建っていた。
*
土蔵の中に足を踏み入れた途端、ひんやりとした空気が頬を撫でた。外の蝉の声が急に遠ざかった。
黴と湿気が匂った。子供の頃、ここで遊んだことを思い出した。なつかしい匂いだ。
入ってすぐ右手の階段を上がると、二階には掛軸や壺を収めた木箱が積み上げられていた。
伯母はその山から平たい木箱を引き出すと、組紐をほどいた。
「あのひとが亡くなる前に、『これを慎ちゃんに』って」
箱から出てきたのは一枚の黒い板状の物体だった。縦横それぞれ20センチほどで、厚みは5センチほどだろうか。ずっしりと重々しい。
暗がりのなかで目をこらすと、板の表面に浮き出ている模様がうっすらと見えてきた。どうやら浮き彫り(レリーフ)のようだが、彫っているのではなく、粘土のようなものをへらで盛って、整形した跡のようだった。指先で触れてみると、材質はどうやら石膏…というよりも漆喰らしい。この蔵の土壁と、同じような手触りだった。
モチーフは一見、龍のように見えた。しかしよく見てみると、龍ではないことが分かった。…しかしこれは、何だろう。見たことのない生物だ。異様に長い胴体に、魚のうろこや、烏賊の頭部のような意匠も見える。蝙蝠の翼のように見える部分もある。空想上の動物であることは間違いなさそうだが、あまりにも精緻な細工のせいか、奇妙な実在感というか、生々しさがあった。
だが、それ以上に、どこかしら禍々しいものを感じて、私は自分でも気づかないうちに後ずさっていた。ひんやりとした土蔵の中で、なぜか汗が頬を伝った。名状しがたい不安がわき起こり、徐々に形になるにつれて、限りなく確信に近い結論が生まれてきた。
これは、やばいものだ。
ここにあっては、いけないものだ。
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