第8話 事実
翌朝、開館のために出勤した館長によって、私は発見された。そして救急車で病院まで運ばれた。
麦茶には睡眠薬が入っていた。効き目は強くはないが、量が多かったので危なかったと、後から医師に聞かされた。
言うまでもなく、漆喰板の入った風呂敷包はなくなっていた。
薬を盛られて荷物を盗まれたのだから、昏睡強盗だ。立件されて警察の捜査が始まった。かなり最初の段階でわかったのは、「下田開国記念館」には天城という名前の職員はいない、という事実だった。そもそも人を雇う余裕はなく、館長一人で運営していたようだ。
記念館の建物も捜索したが、何も出てこなかった。私がこの目で見たはずの「タウンゼント・ハリスの手紙」さえも、なくなっていた。当館にはそんなものはありません、と館長は首を降った。
記念館の捜査が成果なしとわかると、次に警察は伊豆郷土史研究同好会の線を当たった。しかしこちらも、成果はなかった。津知屋理事長に対して天城氏は「SNSで『こて絵』の写真を見た」と、電話で言ったそうだが、天城氏のSNSアカウント自体、存在していなかった。
まるで天城氏なる人物は、初めから存在していなかったかのようだった。
警察の事情聴取に、私は事実のみを簡潔に述べた。
しかし、事実とは何か。
話せば話すほど、わからなくなっていった。
盗まれた漆喰板は「伊豆の正八」の作品だ、とは供述した。だが、持ち主が海で死ぬ呪いの絵だ、とか、ましてや『異本』の内容については、喋らなかったし、聞かれなかった。
「美術や歴史のことは、私は専門外でわからないのですが」
やや戸惑った様子で、警官は私に尋ねた。
「その『伊豆の正八』の作品っていうのは、強盗するほど価値のあるものなんですか。なぜ、あなたの荷物は狙われたのか。心当たりはありませんか」
「さあ」
私は首をかしげた。
「天城氏にとっては、大事なモノだったのでしょう」
答えながら、自分でもなんだか他人事みたいだな、と思った。
*
事実とは何か。
私にはもう、わからない。
何が起きて、何が起きなかったのか。何を見て、何を見なかったのか。
わかるのは、この世には見てはいけない事実がある、ということだけだ。
多くの人は、自分の見たい事実しか見ていない。
見たくない事実を目の前に突きつけられても、顔をそむけて見ないふりをする。
だが、それは正常な反応なのだ。
見た者は、心が壊れてしまうのだから。
下田市内の病院で検査を受けたが、私の体に異状は見当たらなかった。しかし後遺症を心配した父が、松崎町の病院に転院させてくれた。この町には大きな病院はひとつしかない。伯父が亡くなったのも、ここだった。
「まだ大学も夏休みだし、とにかく、もう少し様子を見よう」
父の心配は有り難かったが、休息は下田で十分に取っていたので、こちらは元気が有り余っていた。ベッドでじっとしていることもできず、あちこちを歩き回った。
病院の庭やロビーでは、他の入院患者と会って話をすることもあった。ほとんどは、とりとめのない世間話だった。
ただ、長期入院の患者のなかには、亡くなった伯父を知っている方もいた。入院して亡くなるまで、わずか数週間だったが、同室や隣室の人々と交流していたようだ。社交的だった伯父を思い出して、もの悲しくも少し温かな気持ちになった。
なかでもよく顔を合わせたのが、伯父の隣のベッドにいたという、初老の男性だった。
何度か語り合って、少しずつうちとけてきたなと思った頃、彼はおずおずと私に尋ねた。
「伯父さんが亡くなった時の状況について、ご親族から何か聞いていますか?」
*
次の日、父と一緒に、伯母が見舞いに来た。私は伯母に問いただした。自分でも少し口調がきついと思ったが、止められなかった。
「どうして、葬式の時には何も言ってくれなかったんですか?」
「だって」
伯母は少し口ごもった。
「関係ないでしょう。そんなこと。世間体というものあるし。第一、嘘をついた訳でもないし」
私はあぜんとした。確かに、嘘はついていない。
伯父の死因は、がんだ。病死だ。それは間違いない。
問題は、亡くなった時の状況だ。
伯父が死んだ場所は病院のベッドではない、海だ。
海で亡くなっていたのだ。
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