第7話 仮説



からん。


麦茶の氷が溶けてグラスに当たる音で、私は我に帰った。どのくらい手紙を読んでいたのだろう。ほんのわずかな時間だと思っていたのに、窓からさす日は傾いていた。


気を取り直して、麦茶をひと口飲んだ。飲みながら手紙を読んでいたので、量は半分以下に減っていた。


眠気と頭痛が同時に襲ってきた。座り直すために腰を浮かそうとしたが、立てずによろけそうになった。


「あ、体調が悪いですよね。そのソファに横になっていただいて結構ですよ」


私は天城氏の言葉に甘えることにした。


体を横たえながら、ふと思った。


まるで体調が悪くなることを、前もって知っていたかのような言い方だな。


「そのまま聞いてください。私はね、こんな仮説を立ててみたんです。伊豆諸島沖の海底で、大いなる神が眠りについている。…実に途方もない話ですが『異本 三宅記』の記述については、あなたも認めざるをえないでしょう」


いきなり何を言い出すのか。


馬鹿馬鹿しくて笑おうとしたが、頭がぼんやりとして力が入らない。


そもそもなぜ、この人が『異本』のことまで知っているのか。


「その神は人知を超えた強大な力を持っていて、本来ならば人を操ったり、洗脳してしまうことは造作もない。ところが、眠りについているために、その力を発揮することができない。でも、そんな状態でも何百年に一度くらいは、わずかに目覚める機会チャンスがあります。大地震で海底の一部が隆起する瞬間です。そのわずかな隙をついて神は、隆起した地表からある種の電波のようなものを飛ばして、人の夢に干渉します。夢で見せた光景を、人々に作品という形にさせるために」


動けない私の側に、天城氏は腰かけた。そして漆喰板の入った風呂敷包を抱え上げ、愛おしそうに撫でた。


思えば、天城氏はこの作品こそが目当てだった。


それなのに、私がここに持ってきた時、彼は風呂敷の中身を見ようともしなかった。「そっちに置いておいて」と言ったのだ。


最初から奪うつもりだったのだ。それも、まともではないやり方で。


「この正八の漆喰板はね、いわば電波の『中継アンテナ』なんですよ。この作品は持ち主に、『綿津見之宮わたつみのみや』の夢を見せるんです。そして『あそこは素晴らしい所だ。行ってみよう』という気分にさせて、海底に誘います」


「…何で…そんな」


「引き上げてもらうためです。ご神体、つまり神自身をね。神はみずから地上に出ることはできない。だから引き上げて欲しいのです」


私は何か答えようとしたが、もう声が出なかった。


*


闇に落ちていく意識のなかで、天城氏の声だけが、やけにはっきりと響いていた。


「神が目覚めた状態で、その本来の力を使えば、一度に何百人、何千人と動員できることでしょう。高度な命令を与えて、組織的に人を動かせば、目的は容易に達成できるはずです。ところが、この作品から出る電波は微弱すぎて、操れるのはせいぜい一人くらい。それも、『こっちに来い』という中途半端で大ざっぱな命令しか出せない。だから持ち主が海で死ぬことになるのです」


「いわば音の出ない楽器、壊れた電子レンジみたいなものです。本来の役割を果たすことのできない道具なんて、がらくたもいいところです。でも、神にはそれしか、今のところなす術がない。実に切ない、みじめで、あわれな話ですね」


「でも、これにはもっといい使い道があります。この作品が電波の中継アンテナなら、発信源を特定できるはずです。こちらから『神』を探し出して、この手で引き上げるのです。ワクワクする話じゃありませんか」


「実のところ、私たちの家系は何世代も前から、この時をずっと待ち望んでいたのですよ。当家は私の代で最後となりますが、輝かしい成果をご先祖様にご報告できることを、私は誇りに思います。すべて、あなた様のおかげです。この場を借りて、お礼を述べさせていただきます」


その言葉を最後に、私の意識は途切れた。

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