八章 夢の国の土仮面
クデリアナ監獄。
それは、ブライ帝国最大の牢獄。有毒なガスが絶えず吹き出す山間の谷間に作られ、警備は異様なまでに厳重。そのため、脱獄することは不可能。
仮に、牢獄を抜けることが出来たとしてもあたりは有毒ガスの吹き出す死の荒野。見渡す限り、動くものひとつない光景がつづく場所。そこには、枯れ草さえも残されていない。水もなく、食糧もない。そんなところに身ひとつで乗り出せば野垂れ死にすることは確実。
脱獄不可能の現世の地獄。
それが、クデリアナ監獄。
そこに収容される犯罪者はただ一種。
反逆者。
皇帝バトウに
クデリアナ監獄の囚人に死刑はない。どれほど、皇帝の怒りを買おうとも、いや、怒りを買えば買うほど命を奪われることはなくなる。
なぜなら、クデリアナ監獄とは皇帝バトウが自分に逆らったものを放り込み『自分に逆らえばこうなるのだぞ』と、貴族階級たちの見せしめとするための場所だからだ。そのため、劣悪な環境にありながら囚人たちの健康管理にはきわめて気が使われ、一年でも、二年でも長く、このなかで生かしつづけ、惨めな生涯を味合わせる。
牢屋に閉じ込められ、なにひとつ為すことなく、醜く老いさらばえ、死に果てるその日まで。
そのクデリアナ監獄にいま、ひとりの特別な囚人が
その囚人に名前はない。かつて、もっていた名はすでに奪われた。看守たちは全員、もともとの名を知っているが、その名で呼ぶことは許されない。
ただでさえせまい牢獄は、さらに土の壁で塗り固められ、ろくに身動きも出来はしない。 そんな場所に閉じ込められたひとりの囚人。顔にはやはり土の仮面をかぶせられ、ただ『土仮面』と呼ばれている。
その土仮面にその日、思いがけないひとりの面会が現れた。
バトウ皇帝の娘、ブライ帝国第二皇女ビャクエである。
ビャクエは囚人の姿を見た途端、深い悲しみと、幾分かの嫌悪を交えた表情を浮かべた。土で塗り固められた牢獄のなか、ろくに身動きも出来ない空間のなかでただ椅子に座り、じっとこちらを見つめる土の仮面。
ビャクエはその土仮面に向かって呟いた。
「……兄さま」
土仮面。
かつての名はヤクシ。
皇帝バトウの息子。第一皇女ルシャナの弟にしてビャクエの兄。
姉のように武芸に秀でてはいないが、学問を好む読書家であり、
おそらく、皇族のなかでもっとも一般に知られ、人気の高い人物だったろう。
そのことからも、将来を期待されていた。
『ルシャナ殿下が即位なされたあとはおそらく、ヤクシ殿下が宰相として国政を取り仕切ることになるだろう』
宮廷では何年も前からそう噂されていた。
『武芸のルシャナ殿下と、政務のヤクシ殿下。ブライ帝国の将来は安泰だな』と。
ちなみに、ビャクエの評価はと言えば、
『ビャクエ? ああ、あのおまけ殿下か。あの御仁はいっそ皇族をはなれて一生、子どもたちの相手をしているのが幸せだろうよ』
と、言うものだった。
ビャクエ自身、
――そう。わたしは皇族なんていう柄じゃない。このまま教師として過ごす方がずっといい。
そう思っていたので、家臣たちの評を気にしたことはなかった。国のことは優秀な姉と兄に任せる気でいたので。三年前までは。
しかしいま、その兄は土の仮面をかぶせられ、せまい牢屋に閉じ込められている。皇帝バトウの
「……兄さま」
ビャクエは繰り返した。
優しく、思慮深く、勉強家で、常に国民のことを思っていた兄。その兄の変わり果てた姿にビャクエはそう繰り返すことしか出来なかった。
「ビャクエか」
土仮面――ヤクシは答えた。
こんな境遇にあってもなお、その声には妹に対するぬくもりと優しさとがたしかに感じられた。
「……お久しぶりです、兄さま」
「よく来てくれた、ビャクエ。ここにいると新しい刺激はなにもなくてね。いや、頭のなかにある書物を繰り返し読んでいるから退屈はしていないがね」
「頭のなかの書物を?」
「そうだ。やはり、書はいい。様々なことを教えてくれる。何度も読み込んで、すでにすべてを知った気になっている書物のなかにも常に新しい発見がある。先日も、国内の税制度を改革させるためのよい
「税制度、ですか……?」
戸惑いの声をあげる妹に対し、すべてを奪われた兄は力強く答えた。
「そうだ。この国の税制度はあまりにも不公平だ。そのために、労働者階級の勤労意欲がそがれ、生産力を落としている。だが、この改革案が実現されればずっと公平な世になる。労働者階級の勤労意欲も跳ねあがる。そうなれば、生産性は一気にあがり、我が国はより豊かになれる」
そう確信を込めて……というよりもいっそ、はしゃいでいるような声の兄に対し、ビャクエは薄気味悪ささえ感じていた。
言っていること自体はたしかに素晴らしい。貴族ばかりを優遇し、労働者階級からその分をむしり取る。そんな税制度を改革し、公平な世にするのはたしかに『良いこと』だ。しかし、いまのこの状況下にある相手から聞かされるにはあまりにも似つかわしくない言葉。
――税制度の改革。兄さまがそんなことに
反逆者。
その
ヤクシはまるで、自分がいままさに政務の場にいるかのように理想を語っている。ビャクエはそのことに、なんとも言えない不気味さを感じた。
そこにはむろん、兄をこの現世の地獄から救い出すためになにもできない自分自身に対する怒りと
そんな妹の気を知ってか知らずか、兄はやはり、薄気味悪いほど明るい声を出した。
「それでも、やはり、世情を知らないことには正しい政策は立てられないからね。来てくれて嬉しいよ。さて。戦争は終わったらしいね?」
「……はい」
「そうか。ようやく終わったか。あれほど意味のない、悪しき戦争もまたとない。終わってくれたのは唯一の救いだ。とは言え、これからは犠牲となったコダイナの人々に対してどう
「……兄さま!」
耐えられない、との思いを込めてビャクエは叫んだ。
「どうしたんだい、ビャクエ。そんな大声を出して?」
「兄さまはいまだに、ご自分がブライ帝国の皇子だとお思いなのですか?」
「いいや。そんなことは思っていないよ」
ヤクシはゆっくりと首を横に振った。その言葉に――。
ビャクエは内心、胸をなで下ろした。
――よかった。兄さまはちゃんと現実を見ておられる。つらい現実から目をそらし、空想の世界に逃げているわけではない……。
しかし、ヤクシはつづけて言った。
「僕は今も昔もブライ帝国の一国民だ。他の国民とともに、明日のために歩むただの国民だよ」
ガックリと――。
ビャクエは肩を落とした。
「……兄さま。兄さまはいまでもあの戦争を意味のない、悪しき戦争だったと思っているのですか?」
妹の問いに、仮面をかぶせられた兄はびっくりしたような声をあげた。
「当たり前だろう! いまさら、なにを言っているんだい? 意味のある戦争、悪くない戦争、そんなものはどこにもない。戦争はすべて無意味であり、悪しきものだよ」
決まっているじゃないか。
そう言う心の声が聞こえてきそうな言葉だった。
ビャクエは重ねて尋ねた。
「ですが、兄さま。あの戦争に勝利したことによって喜んでいる国民は大勢います。ルシャナ姉さまの言うとおり、この国は戦争を通じてより大きく、豊かになった。戦争に勝利したことで奴隷の身から解放され、『もう鞭で打たれながら働かされなくていいんだ!』と喜ぶ子どもがたしかにいるのです。わたしにはその笑顔を否定することは出来ません」
「ああ。そのことは姉上から聞いている」
「ルシャナ姉さまがおいでになられたのですか?」
「ああ。戦争が終わったそのときにね。姉上はこの戦争によって我が国がいかに利益を得たか、いかに国民が豊かに幸福になったか。それを得々と説いていったよ。でもね、ビャクエ。
「ですが、兄さま。ルシャナ姉さまの言うように、わたしたちの暮らしが奴隷たちの犠牲によって支えられているのは事実。奴隷がいなくなれば、わたしたちはいまの暮らしをつづけられなくなります。その現実はどうお考えなのです?」
「奴隷制は悪だ。それ以外の何物でもない。人の身に生まれながらなんらの自由もなく、金銭で売買される。そんなことは決してあってはならない。奴隷制は廃止されなくてはならない」
「兄さま。わたしは『奴隷なしにはいまの暮らしは維持できない』という現実についてお尋ねしているのです」
「奴隷制は廃止されなくてはならない。それは絶対の正義だ。見ているがいい。僕は必ず奴隷制をなくしてみせる」
「兄さま!」
ビャクエはついに叫んだ。
その表情が泣きそうなほどに情けない思いに満ちている。
「奴隷がいなくなったら誰が、わたしたちの暮らしを支える仕事をするのです⁉ それとも、いまの暮らしのすべてを捨てろとおっしゃるのですか?」
「奴隷制は悪だ。奴隷制をなくすことは絶対の正義だ」
ヤクシはそう繰り返す。
さながら、その言葉だけを教え込まれたオウムのように。そう喋るだけの機能をもたされた自動人形のように。
ビャクエはそんな兄の態度に目も
それは怒りだったろうか。それとも、失望だったろうか。その両方であり、それ以外の様々な感情が入り交じった思いだったかも知れない。
優しく、思慮深い、誰にでも公平に接する素晴らしい兄だと思っていた。自国民を愛するあまり、他国民を見下すルシャナよりもずっと皇帝の地位にふさわしい。そう思っていた。それなのに――。
それはまちがいだったのだろうか。
ヤクシは優しいのではなく、現実を見ることの出来ない夢想家に過ぎなかったのだろうか。この牢獄での過酷に過ぎる日々が兄をこうもかえてしまったのか。それとも、それとも――。
最初からこういう人間であり、自分が見誤っていただけなのか。
「……帰ります」
ビャクエは言った。
これ以上、こんな兄を見ていることは出来なかった。
背を向けたビャクエに兄の言葉が響いてきた。
「奴隷制は悪だ。奴隷制をなくすことは絶対の正義であり、より豊かで公平な社会を築くための一歩だ。僕はそう信じている」
その言葉に――。
ビャクエはギュと拳を握りしめた。
――兄さま。あなたがなにを信じようと、わたしたちの暮らしが『奴隷によって支えられている』という現実はかわらないのですよ。
その思いに――。
ビャクエの瞳からは涙があふれ出していた。
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