四章 皇女の思い

 ミロクの様子は明らかにかわってきた。

 まず、食事量が増えた。無理やり食べさせられて胃が広がったのと、適度な運動のために体が栄養を必要とするようになったためだろう。出される食事はあいかわらず多すぎるものだったが、以前よりも簡単に食べられるようになっていた。

 おかげで、肌の色艶いろつやもよくなったようだし、うっすらとだが肉付きもよくなったように感じられる。さすがに、身長まではそう簡単に伸びることはなく、相変わらず小柄なままだったけれど。

 ――それでも、これは良い傾向だわ。殿下にはもっともっと運動して、食べていただかないと。

 ビャクエはそう思い、張りきって食事の量も散歩時間も増やした。そのせいでミロクはますます『飼い犬扱いされている』気分を味わったのだった。

 そんなある日、あいかわらずしっかりと手を握られたまま中庭の散歩をさせられていると、ミロクがあきらめたように言った。

 「……いいかげん、手をはなしてくださいませんか? これでは本当にイヌの散歩だ」

 「殿下のお年頃なら必要な運動ですから」

 「手をはなしたところで逃げたりはしません。約束します」

 「わかりました。それでは……」

 と、ビャクエは握りしめていたミロクの手をはなした。

 ホッ、と、ミロクは安堵の息を吐き、その手をもう片方の手で包み込んだ。

 「約束した以上、きちんと運動していただきますよ。もし、破ったらそのときは……おわかりですね?」

 ビャクエはニッコリと微笑んで見せた。

 ミロクの背筋を思わずゾクリとしたものが走り抜けた。

 ――ビャクエ先生の笑顔は他のどんな先生の怒ったときの顔より怖い。

 国立学園で生徒たちからそう言われている、その笑顔である。

 「わ、わかっています。コダイナ公国公子の名誉に懸けて約束します」

 きっぱりと――。

 そう言い切るミロクの姿にはまちがいなく『公子』としての風格がにじみ出ており、ビャクエはミロクの言葉を素直に信じることが出来た。

 ふたりは散歩の途中、庭のベンチに並んで腰掛けた。

 そこでビャクエは手ずから紅茶をれ、たっぷりの砂糖を入れてミロクに手渡した。

 北国であるブライ帝国では茶も砂糖も栽培出来ない。はるか南方の島に築いた居留地で栽培され、はるばる本国まで運ばれてきたものだ。当然、きわめて高価なもので庶民には口にすることもできない。王侯貴族ならではの贅沢である。

 ビャクエは自分の分の紅茶もれるとミロクの側に座った。

 ぴったりと、寄り添うように。

 ミロクは居心地悪そうに身じろぎすると座ったまま横に動き、距離をとった。

 「どうされました、殿下?」

 「な、なんでもありません……」

 そう答えるミロクの顔が耳まで赤くなっている。

 ふう、と、ビャクエは微笑んだ。

 「最近、ようやく健康的なお体になってきたようで安心しております。あのままでは本当にお体を壊されていましたから」

 「……あなたは本当にかわっていますね。まさか、帝国の皇女ともあろうお方が敗戦国の公子のことを気に懸けるとは思いませんでした」

 「……あの戦いは、明らかに理不尽な侵略でした」

 ビャクエは悔いを込めてそう言った。

 「わたしは殿下とコダイナ公国の方々にお詫びすることすら出来ません。お詫びしてすむことではありませんし、そもそも、わたしにそんな資格はありません。ですが、殿下のことを心配しているのは本当です。

 殿下がわたしたちを憎まれるのは当然です。敵国の人間にあれこれ指図されたくないというのもわかります。ですが、殿下はいま、成長のための大切なお年頃であることにちがいはありません。どうか、いまはご自分の成長をお考えください。成長して立派なおとなになれは帝国に対して復讐することも叶いましょう」

 「復讐……あなたは、私が帝国に復讐することを望むのですか?」

 「…………」

 ビャクエはその質問に答えられなかった。

 ブライ帝国は侵略者である。

 侵略者は罰せられなくてはならない。

 ビャクエ個人としてはそう思う。しかし――。

 自分はブライ帝国の皇族である。

 皇族として、祖国と祖国の民を守らなければならない。

 皇族としての自分の暮らしはそのすべてが民の働きに支えられてきたものであり、自分がいままで暮らしてこられたのは民のおかげ。

 ブライ帝国の民には恩がある。

 その恩を返さないわけにはいかない。

 個人としての正義感と皇族としての義務。

 ふたつの思いにはさまれて、ビャクエはどちらとも答えることが出来なかった。

 ミロクもまた視線をそらした。それから、ポツリと言った。

 「僕が憎んでいるのは……帝国じゃない」

 「えっ……?」

 それきり、ミロクは押し黙った。

 ビャクエもなにも言えなかった。

 そのまま無言の時が流れた。気がついたとき――。

 ミロクはビャクエのひざに頭を乗せて寝入っていた。

 ――毎日、夜をてっして本ばかり読んでいるものね。眠くなって当然だわ。

 ビャクエは知っていた。ミロクが監視されている間、寝たふりをしておいてビャクエが部屋からいなくなった途端、起き出して本を読み、自ら執筆しっぴつもしていることを。

 ――どうして、そこまでやるの? 単なるお芝居好きとか、現実逃避とか、そんなことであるはずがない。きっとなにか深い訳があるはず。その訳とはなんなのだろう?

 聞いてみたい。

 話してほしい。

 そう思う。

 でも、自分はコダイナを侵略したブライ帝国の皇女。

 憎むべき仇敵きゅうてき

 ――そのわたしが、ミロク殿下に向かって『どうか、お心を明かしてください』なんて、そんなことを言えるはずがない……。

 これが、ルシャナ姉さまなら簡単なのでしょうね。

 ビャクエはそうも思う。

 ルシャナであればためらいなくミロクの喉元に剣を突きつけ、

 「なにを企んでいるか、言え! 言わねば殺す!」

 と、そう詰め寄るにちがいない。

 「おとなしい顔をして、反逆の企みを企てているかも知れないではないか。わずかでもその可能性があるなら問い詰め、問いただし、すべてを明らかにして反逆の芽を摘まねばならない。それが、国民の運命を背負う皇族の義務というものだ」

 迷いなくそう言い切って。

 ――ルシャナ姉さまの姿勢は一国の皇族としてのかがみなのでしょうね。『祖国を豊かにする』という目的から一歩も引かず、その目的のためなら他国の民を犠牲にする。それができるのがルシャナ姉さまの強さ。わたしにはない。父さまが姉さまを愛し、わたしをさげすむのも当然だわ。でも、それでも、

 わたしは祖国のために、他国の民を犠牲にすることはできない……。

 そう思うビャクエだった。

 ミロクが目を覚ましたとき、すでに夕方になっていた。

 寝ぼけまなこで夕日を認めた瞬間、ミロクは飛び起きた。ビャクエのひざまくらで寝入っていたことに気がつかなかったのは幸運だったと言うべきだろう。もし、気がついていたらミロクのこと。どんなに気まずい思いをしたことか。

 「いけない! こんな時間になっているなんて……早く帰りましょう、ビャクエ殿下。屋敷のものたちもきっと心配して……」

 ミロクはあわてて言ったが、ビャクエの様子はそれどころではないようだった。顔色は青ざめ、体は小刻みに振るえている。身動きもままならない様子だ。

 「どうしたのです、ビャクエ殿下 お体の具合が悪いのですか」

 「い、いえ、それはその……」

 ――言えない。『あまりに長い間、殿下がわたしのひざに頭を乗せて休まれていたものですから、すっかり足がしびれてしまって』なんて……。

 ビャクエとしては引きつった笑顔でごまかすしかなかった。

 それを見てあわてたのがミロクである。

 顔色をかえ、叫んだ。

 「誰か! 誰か来てください、ビャクエ殿下が大変なことに……!」

 「い、いえ、殿下。わたしは、別に……」

 引きつった笑顔のままミロクをとめようとしたが、すっかりしびれた足では止めるにもとめられない。弱々しく声を出すことしかできなかった。

 夕方のに輪のなかに――。

 ミロクの必死の叫びが響きつづけた。

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