空の水底

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空の水底

 空で魚が群れを為す。私の頭上を悠然と泳ぎ、手を掲げると驚いたように群れが一瞬崩れ、急旋回して去っていく。魚の名前はあまり分からない。尾びれを揺らしてどこかへ行く無数の魚は、キラキラと太陽の光を反射させて私の網膜に残像を焼き付かせた。

 群れで泳ぐ青魚なら、イワシだろうか。確か水族館で見たときあんな見た目だったように思うのだがどうだろう?

 正解の分からない予想を立てつつ、私は高校への道のりを歩き始めた。

 今の世界には一枚違うレイヤーが掛かっている。かつてのセル画や絵を描くときのレイヤーのように、世界が二重にダブっているのだ。そのせいで触れない魚が空を泳いでいた。原因はいまだに不明だが、起点となった日ははっきりとしていた。

 夏休みが始まってすぐのこと。

 台風と梅雨前線が重なり長雨が続いて、あちこちで川の氾濫が起きていた。そんなときに、震度五強の揺れが起きた。震源地は海の中。海底地震ですぐに津波が来るという警報も鳴った。

 うちは高台に立っていたはずなのに、それでもやってくる津波の高さよりは低くて、すぐに家を出て山の方へと足を向ける。

 お母さんと弟とで走って逃げていたものの、走る速度よりも津波は速く、じわじわと侵食するように水が押し寄せてくる。

 大雨と水が木や家を飲み込んでいく音がするのに、どこか静かで静謐の塊のような波は、しかしながら絶対に逃がしてはくれない。

 そして私達は飲まれた━━はずだった。

 視界が一瞬白んで、足下を浮遊感が襲う。飲まれたのかと思ったが、次に目を開けたときには目の前を魚が泳いでいた。けれど、水の中ではない。息も出来る。お母さんと弟も魚に驚いていたから、同じ物が見えている。辺りを見回すと水は無いが、どこか輪郭が揺らいでいるような感覚はある。見回して気付いた。木も家も何も壊れていない。地震も津波も無かったかのように。

 その日、世界は何を間違えたのか、日常と異常の世界が二重にダブってしまった。地震があった世界と無かった世界が同時に存在することになったのだ。

 結果、死者は一人も出ることなく、人は日常のまま、魚はおそらく地震の起きた異常の世界に住んでいる。

 大部分の人は変わらず日常を過ごしているのだが、一部の人間には波と共にやってきた魚が見えるようになってしまった。人は魚が見える者と見えない者の二つに分かたれたのだ。




 学校に着いて靴を履き替えていると、靴箱と自分の隙間を大きな魚が抜けていく。慌てて仰け反ると、小さく笑う声がした。振り向くと、そこで少し強めに靴箱前のすのこが鳴って、隣に立ったのは背の高い幼なじみの折山おりやまという男子だった。

水瀬みなせ、おはよ。そこにもいるの?」

 無意識に目が魚を追ってしまう。同じように魚を目で追う一年生がいて、彼女は見えているのだなと思う。

「いるよ。そこにも群れがある」

 折山の背後を指すと、そちらを見る。見るけれど、焦点はどこか遠くに合っていた。おそらくもう一つ向こうの鱗雲を見ているのだろう。

「この辺?」

 ぱたぱたと伸ばした手で空をかく。手の間を魚がすり抜けていく。

「そう、その辺」

 私が手を上げると、今度は魚が散っていく。魚は、見えない者には干渉しない。見える者に魚が見えるように、おそらく魚も見える者達が見えている。

「見えるはずのものが見えないのは気持ちが悪い」

「見えないはずのものが見えているという方が正しそう」

「なぁ、どんな世界?」

 どう言えばいいか考えたが、百聞は一見に如かずともいう。

「描いてるから見に来る? 放課後空いてるよね?」

 少しだけ驚いたような顔をして、考えるような素振りの後、

「行く」

 頷きながらはっきりと言った。

 そうして簡単な約束をした私たちは、ゆっくりと教室へと向かった。




 放課後、美術準備室で乾かしていた絵を美術室へ移動する。続きを描こうとアクリル絵の具を準備しているところで、「おつかれー」と聞き慣れた声がした。折山が教室に入ってきて、遠目に絵を眺めた。

「すごい……こんな風に見えてるんだ」

 体育館に魚の群れが渦を巻くところを描いた絵だった。少し前に、実際に見た光景だ。

「綺麗な風景だな。これで完成?」

「大体は描けてるけどまだしばらくかかるよ。これから光とか影とかの色を足していかないといけない」

 空に海が見える人は、あの日津波に飲まれて死ぬはずだった人だという噂がある。運良く日常の世界に放り出された私達は、この綺麗な異常を見ながら日常を過ごしている。

「お前の目にはこう見えてるんだ。この世界を見てみたいと思うけど、多分さ、俺が魚のいる世界を見れても、きっとこんな風には見えないと思うんだよ」

「そう? 忠実に見たまま書いたつもりなんだけど」

「ここに書いてあるバレーのネットって、意外と縒れてるし汚れてるんだな。確かに見慣れてるネットではある。けどそんなのちゃんと見たこと無かったし気付かなかった。見えるはずの物も、見ようとしなければ見えない」

 魚の背景にはバレーのネットやバスケットゴールが描いてある。折山はバレー部だから、このネットは毎日のように見ている物だ。見えていても、見えないものがこの世界にはあるらしい。

「面白そうな話をしてるね?」

 目の下にクマのある先生が準備室から出てきて、目を擦りながら伸びかけの髪をオールバックにするようにかき上げる。大分疲れていそうだし、眠そうだ。定期テストの採点か何かを準備室でしていたので来たときはそっとしておいたのだが、どうやら一段落したところで会話が気になってやってきたのだろう。

「見えているものが本当に見えているとは限らない。ちょっと俺が面白いものを見せてあげよう」

 先生は内側が玉虫色の器を手に持っていた。私はこれが何かを知っているし、今からすることも大体理解する。

「あ、私これ知ってる」

「知ってるなら言わないように。折山は知らないよね?」

「緑色の絵の具かなんかですか?」

「水瀬ちゃん、唇借りていい?」

「いいんですか!」

 先生はもう片方の手に持っていた筆で内側をなぞる。すると筆の通った跡は紅の色に変わっていく。

「表面が緑色で、内側が赤色の絵の具?」

「違うよ。水瀬ちゃん、こっち向いて」

 私は先生を見上げて目を閉じる。唇にヒヤリとした筆が触れ、外側から内側へと縁取るように塗っていく。

「赤いでしょう?」

 塗り終わると、先生と私は折山の方を向いた。

「赤い……」

「こっちも見て」

 先生の差し出した器の中の筆でなぞったところは、乾きながら次第に玉虫色に変わっていく。

「なんで!?」

「理由はまだはっきりと解明されてないんだけど、質の高い紅は光の屈折でなぜか緑色に見えるんだ。では本当に人は正しく物を見れているでしょうか?」

「見えてない、かも」

「目に見えるもの全てが正しい訳じゃない。そもそも視力が違えば見えているものも違うし、目の色の薄いメラニン色素の少ない人は夜目が利くという。錯覚もあるし、人の目が勝手に補正することもある。紫外線とか赤外線とか、目に見えない光もある。

 けど見えてないからと言って、全く見えない訳じゃない。折山ってたまに釣り行ってたよね? そこの隅の椅子辺りに魚がいるんだけど、何か分かる? 黒い魚なんだけど、俺は名前が分かんないんだよね」

 先生は私と同じように魚が見える人だった。椅子の影には小さい魚が群れている。もちろん私も魚には詳しくないから、その魚の名前は分からない。

「そんなの分かるわけ…………ゴンズイ?」

 思い当たる物がいたらしく、魚の名前を口にする。私はポケットからスマートフォンを取り出し、ゴンズイを検索する。すると画像欄には確かに目の前の魚と同じ魚がいた。

「なんで分かったの!?」

「大体そういうところにいるんだよ。この辺の海にもいるからそうかなって」

「そう。つまり見えないものも、興味関心とっかかりや知識があれば見えるようになることだってある。だから人も美術も面白いよね」

 そう先生は話をしめた。

「じゃあ美術部の君には悪いけど、俺は先に帰ろうと思う」

「大分お疲れですよね? あんまり無理しないでね」

「水瀬ちゃんは優しいね。ありがとう」

 そうして先生は帰っていった。その後は折山と話をしつつ、絵を完成に近付けていく。日が落ちて、辺りがだんだんと夕焼けのオレンジに染まっていく。

「俺もそろそろ帰ろうかな」

 折山が時計見て、私もつられるように見るともう少しで五時だった。折山が机に置いていたリュックを背負う。

「明日も描くから、暇なら来るといいよ」

「お前は本当に優しいよな」

「なんのこと?」

「見えてるものも見えないものも、ちゃんと見ていてくれるよなってこと」

「そうかな」

「そうなんだよ。今日は楽しかった。ありがとう」

 帰っていく姿を見送る。ひょこひょこと少し右足を庇いながら歩く後ろ姿を。

 ありがとうと言いたいのはこちらの方だ。

 折山はバレーの練習中に足の骨を折ったせいで、しばらくバレー部の練習に出られない。来月の試合にも出れなくなって、内心かなり落ち込んでいることだろう。一人になるとそのことをぐるぐると考えるだろうということは長い付き合いから分かっていたから、私は美術室に誘った。違うことを考えることで、気が紛れるだろうと思ったから。

 先生は教師は不本意でしていることで、本当は絵一本で食べていきたいのだそうだ。学校にいる間に仕事は全て片付けて、家では集中して夜な夜な作品を作り続けている。だからいつもちょっと疲れた顔をしている。

 見えないものも、出来ることなら気付きたい。見えないものなんて本当にたくさんあって、空気であったり、感情であったり、心であったりする。そして、そんな私の心に気付くあの二人も、やはり優しい人なのだと思う。

 夕の涼しい風が吹く。

 瞳の中に確かに映る、魚は通り過ぎていく。

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