第十話 北辰一刀流の剣客
八月――、
実際、筆を買いに外へ出た歳三は、上から容赦なく照りつける日差しに舌打ちをした。
多摩にいる頃は雨だろうが暑かろうが
総司は今朝、多摩に出稽古に出かけ、昼過ぎには帰ってくると言っていた。しかし歳三は、彼が素直に帰ってくるとは思っていない。まさか町中でばったりと出くわすとも思っていなかった歳三は、さすがにこれには驚いた。
どうやら総司は寄り道することなく多摩川を越えて、江戸に戻ってきたようだ。
絡まれるとうるさいため背を向けたのだが「土方さんじゃないですか」という声が背に刺さり、歳三は舌打ちをした。
「なにも無視をすることはないじゃないですか?」
駆け寄ってきた総司は笑顔だが、歳三は渋面だ。
「今日の出稽古先では、茶には呼ばれなかったのか?」
「やだなぁ。私はそこまで図々しくありませんよ」
「…………」
いけしゃあしゃあと言い放つ総司に、思わず目が据わる歳三である。
「それにしても、珍しいですね? 土方さんが散歩とは」
「俺だって散歩ぐらいする」
「例の人斬りに、狙われているかも知れないのにですか?」
「こんなに人がいるところで刀を振り回すほど、奴も馬鹿じゃあるまい」
「でもいるんですよねぇ。そんな人間が」
歳三はなんの事かと
そこには
「斬り合いだってよ」
「まったく、いい迷惑だぜ」
野次馬たちは、突然始まったいざこざに眉を顰めている。
「わからん奴じゃのう。そこを退いてくれと言うちょろうが」
揉めていたのは四人の浪人で、その中の一人がのんびりとした口調で三人と対峙している。どうやらこの男に対し、三人の男が因縁をつけたようだ。
だが三対一では、勝ち目は低い。
総司の顔を覗えば、彼はニコニコと微笑んでいる。
この状況を楽しむとは恐れ入るが、三人の浪人はこれだけの群衆に晒されても引く気配はない。
「貴様だな? 千葉道場にいる坂本という土佐者は。うちの門弟に怪我させて、ただですむと思っておるのか?」
三人のうち、一歩前に出ていた男が口を開いた。
その言葉に、総司が笑った。
喧嘩を売る相手を、間違えているというのだ。
千葉道場は、神田お玉ヶ池の玄武館から
玄武館を創設した千葉周作には弟がいて、この弟が桶町に開設したのが千葉道場らしい。
相変わらずいろいろな話を拾ってくる奴だと総司に呆れつつ、歳三は聞き返した。
「奴ら、道場破りでもしたのか?」
歳三の疑問に対し、総司が苦笑する。
「いるんですよねぇ。礼儀を欠いて大道場に挑む人間が」
他流試合を申し込むのはいいが、手順を踏むことなくやって来れば当然、門前払いになる。普通は大人しく帰るべきだが察するに、彼らは違ったようだ。
そうなると、それは他流試合の申し込みとは言わない。居座れば居座るだけ相手方にとっては迷惑極まりなく、追い出すための力を行使するを得なくなる。
それでやられたと文句をいうのは、筋違いもいいところである。
すると総司が何かを思い出したように「あ……」と声を出した。
「あの土佐もの、お前の知り合いか?」
「浪人たちのほうなら、一度試衛館にも来ましたよ。
「神津一刀流……? 聞いたことがねぇ流派だな。あの調子じゃあ、
「ええ。懲りたかと思ったんですけどねぇ……」
総司は彼らを軽く追い払ったというが、果たして軽くすんだか疑わしい。
今はニコニコ笑っているが、竹刀なり木刀なり持たせれば手加減なしに打ち込んでくるのが総司である。
総司は「加勢しますか?」という目で訴えてくるが、歳三は首を振った。
「加勢なんぞしなくても、奴らに勝ち目はねぇだろうに」
坂本とという男にどれだけの技量があるかは定かではないが、神津一門を名乗る彼らがまともに日々の稽古に汗を流しているか疑わしい。
神津道場は一年前までは門弟がそこそこいたそうだが、初代道場主が亡くなると廃れていったという。
――
歳三は他登場に難癖をつけて歩く笹垣を遠くから見据え、また一人腐っていく武士の姿にため息をついた。
「待ち伏せしちょるとはおまんら、わしに恨みでもあるがかえ?」
「ふざけるな!」
冷静な坂本に対し、笹垣は激昂し
しかし――。
「う……」
笹垣は刀を振り上げたまま、動かなくなった。いや、動けないのである。
笹垣の
「わしゃあ、血は好まんき、刀は抜きたくないがよ。どうしてもやるっちゅうんじゃったら、こないな場所でのうて、人気のない所にするがええがよ」
もし坂本が刀を抜いていれば、笹垣は間違いなく死んでいただろう。
「さ、笹垣さんっ」
笹垣の仲間たちは、自分たちの敗北を察しただけではなく、大勢の目の前で恥の上塗りをしてしまった居た堪れなさに怖じけづき始めた。
しばらくは、大手を振って道は歩けないだろう。
「総司、帰るぞ」
歳三が群衆に背を向けると、名残惜しそうな声が背に当たった。
「もっと見ていきましょうよ。あの坂本っていう人、面白そうですし」
「お前……、そんなに北辰一刀流に興味があるなら近藤さんに言って他流試合を頼んで貰えばいいじゃねぇか」
「申し込んで、引き受けてくれるところがあればしていますよ」
「そのぶんじゃ、未だに芋だの田舎剣法だの言われてやがるのか? 天然理心流は」
確かに江戸ではまだ無名に近い天然理心流である。知っていたとしてもその評価は低く、他流試合の申し込みはそれこそ門前払いらしい。
「若先生は、断られて笑っていましたけどね」
総司はそう苦笑したが、敵が多いほどやる気が出るという妙な体質をもつ歳三はふんっと鼻を鳴らした。
「そのうち、俺たちを糞扱いした奴らは
「土方さんのその自信、どこから来るんです?」
総司はクスクスと笑いながら、歳三の背についてくる。
筆を買いに外へ出たはずが、思わぬ寄り道である。
あと少しで試衛館というところで、二人の足が止まる。
試衛館門前で、長身の男が柱に背を預けて立っていたからだ。
「原田……?」
「よぉ、お二人さん」
歳三の声に反応してその男――、原田左之助が片手を上げた。
「こんな所でなにをしていやがる」
「今、奥に客人がいてな。近藤さんが相手をしているんだが……」
「それにしては、原田さんらしくない
総司の言う通り、いつもは陽気な原田の顔が神妙になっている。
「俺は槍のほうは得意だけどよぉ、刀のほうは
「いったい、そいつがなにをしにきたというんだ?」
「――近藤さんに、他流試合を申し込みにきたそうだ」
思わず顔を見合わせた歳三と、総司であった。
◆◆◆
近藤を訪ねてきた男は、仙台藩出身・山南敬助というらしい。
そのことを、道場に足を運ぶ歳三たちに報せてきたのは、またも食客の一人・藤堂平助である。ただ原田と違って、その表情は嬉しげだ。
「あの人――、うちの門下だったんだよ」
藤堂のいう『うちの』とは、彼が門弟としていた神田お玉ヶ池の玄武館のことだろう。
「今日はやけに、北辰一刀流に縁がありますねぇ……」
総司の言葉に、藤堂が首を傾げる。
「やけにって……、なんかあったのか? 総司」
「まぁね。まさか玄武館からうちに、他流試合の申し込みがくるとは思ってなかったなぁ」
「いや……、違うよ」
あっさり否定する藤堂に、歳三は警戒を強める。
「どういうことだ……? 藤堂」
「道場は関係なく、個人的に立ち合ってほしいそうだぜ?」
やはり同じ流派となると嬉しいのか、藤堂はいつも以上に多弁だった。
わからないのは、なぜ試衛館なのかだ。
「――俺……、いや、
近藤は歳三たちが稽古場に入ってきたのも気づかずに、太い眉を寄せていた。
個人的による他流の手合わせは、礼儀を欠いていなければ問題にはならない。
山南は落ち着いた物腰で、挑発的な行動もしていなかった。
「無礼と承知でお頼み致す」
山南が頭を下げるが、近藤はさらに思案げな顔になった。
「しかし、貴殿は北辰一刀流の剣客、このような貧乏道場など相手にせずともよかろうに」
実戦の機会がなくなった世だが、いつなんどきその時が訪れるかわからない。実際現在の世は、攘夷騒ぎに乗じて人斬りが横行している。
稽古だけなら同流で当たるのもいいが、実戦となると相手は他流となる。できることなら、町中で対峙したくはないが、的に背を向ける行為は武士の恥という。
他流を知りたいのは近藤の希望でもあったが、突然の来訪者に戸惑っているようだ。
「
山南はそう言って、苦笑した。
歳三は口を挟むつもりはなかったが、山南のある態度が気に入らなかった。
「――相手をしてやったらどうだ? 近藤さん」
「トシ」
歳三の存在にようやく気がついた近藤が、ほっとしたかのように笑みを浮かべる。
「ここで追い返して、難癖をつけられるよりはマシだ」
歳三がそう言って山南を
「私は土方さんのほうが難癖をつけているように見えますよ?」
いつもなら茶化す総司を怒鳴る歳三だったが、感情の昂りを抑えるのに必死だった。
――人を虚仮にするのもいい加減にしやがれ……!
山南の表情は終始変わらず、穏やかな笑みを口許に浮かべている。
その余裕とも云える笑みが、歳三の
「わかった」
近藤はようやく決断して、立ち上がった。
「いいんですか? 若先生の背を押しちゃいましたけど」
近藤と山南の
「近藤さんは、負けねぇよ」
「土方さんには、わかりやすい人ですねぇ」
「はぁ?」
「気に入らないことがあると、表情に出る」
総司はそう笑ったが、歳三には誠の武士になるという夢の他にもう一つ目標ができた、「総司。うちは、玄武館などの道場に比べりゃ無名だ。見ての通りのボロ所帯だしな。だがな、俺はいつか近藤さんと、天然理心流を世に知らしめてやる! 誰にも馬鹿にされねぇようにな……!」
他流動場から芋道場、田舎剣法と言われる試衛館と天然理心流。
天下にその名が轟くのはいつになるかわからないが、希望は捨てない。夢は、諦めてしまえばそこで潰えてしまうのだ。
近藤と山南の攻防は互角――、どうやら山南の表情に表れていた自身は確かなようだ。
打ち込んでくる山南を近藤が受け止め、力で押し返す。
日頃から、通常より重い木刀にて稽古をする天然理心流である。
力技なら、相手が何流であれ負けはしない。
歳三は、近藤が勝つと信じていた。彼の勘は、このときも冴えていた。
――カラン。
床に転がる木刀に、歳三はにっと笑った。
「やっぱりあんたは、俺が惚れ込んだだけのことはあるぜ。近藤さん」
江戸市谷事件帖~誠への道 斑鳩陽菜 @ikaruga2019
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。江戸市谷事件帖~誠への道の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます