言うかい?


 ぼくは給食のカレーライスが大好きだ。美味しいのはもちろん、おかわりできる確率が一番高いから。

 でも家のカレーライスは大嫌いだ。


 ぼくの顔にカレーライスが飛んでくる。

 お皿は床に落ちたので、怪我はしなかったが、ルーとご飯が顔面に直撃した。

 口の中は美味しいと感じるのに目が強い刺激で痛くなってくる。

「あんた。なんでこんな時間まで帰って来なかったの。お母さんの大事な時間が減るでしょうが!」

 ここで文句を言ったら、今度は包丁が飛んでくるかもしれない。

「……ごめんなさい」

 言い訳せず、お母さんが口を閉じるまで、ひたすら謝り続けた。

「はあ〜。あんたに文句を言うのも時間の無駄だったわ。落としたご飯、片付けておきなさいよ」

 投げつけられた布巾で床を拭く。

 母さんが部屋のドアを閉めた音を聞いてから、我慢していた涙を流した。

「手伝うよ」

 一部始終を見ていた姉さんが隣にしゃがみ込んで落ちたお皿を拾う。

「ごめんね」

 そんな姉の声を無視して、落ちたカレーを片づけ終えた時だった。

「あんた達、まだ片付けしてるの。カレー臭いのよ!」

 背中に硬いものが投げつけられた。見ると目覚まし時計だった。

「ごめんね、ごめんね」

 片付け終えたぼくは、謝る姉を無視して、自室の扉を閉めた。

 背中が痛かったので、その日はうつ伏せになって眠りについた。


 ぼくは道路脇の林から出てきて、口元を拭う。

 お腹が空いた。

 家でご飯が出る事は殆どなく、あっても母さんの分だけ。

 だから給食の時間だけが数少ない幸せな時間。

 でも足りない。今日もお代わりして余ったのをもらったけれど、食べ過ぎたのか気持ち悪くなってしまい、ついさっき吐いてしまった。

 口の中が酸っぱくて気持ち悪いが、それ以上にお腹が空いて空いて耐えられない。

 家に帰って何かあるだろうか。水はあるけれど、それ以外の食材は全部母さんが管理している。

 もしつまみ食いがバレたら、激しく怒り、また物を投げつけられるかもしれない。

 道の途中の駄菓子屋が目に入る。友人の克也君が美味しそうにお湯を入れたブタメンを頬張っている。

 香ばしい匂いがこっちまで漂ってきて、口の中に唾が溜まり、お腹が狂ったように吠えまくる。

 ぼくは気づかれないように駄菓子屋から距離を取った。

 家に帰ると誰もいない。ぼくは真っ先に冷蔵庫を開けて自分用の水を飲んだ。お腹の音は収まらない。

 母さんが帰ってくるまでにこの音を黙らせないとまた怒られる。

 水をガブ飲みすればいつも収まるお腹も、今日はより一層激しさを増すばかり。

 お腹を殴っても痛くなるだけで、虚しくなるばかり。

 やはり母さんの食べ物を、こっそりと貰うしかない。

 どれならバレないだろうと考えていると、空腹が酷過ぎてぼんやりしてきた。

「言うかい?」

「はい」

 ふんわりとした頭のまま返事をした。


 目覚まし時計が鳴った。目を覚ますと同時に美味しそうな匂い。

 ドアがノックされたので慌てて返事をする。ドアを開けた母さんは眉間に皺を寄せておらず、歯も剥き出しにしていない。

「今日は起きてるのね。いつもお寝坊さんなのに」

「う、うん。ちゃんと起きたよ」

 目覚ましを早く止めないと怒られるのだ。

 母さんが一歩近づいてきたので、思わず布団で防御したところで気づく。臭くない。

 洗ったところなんか見た事ないのに、洗い立ての洗剤の香りが微かにする。

「何、毛布に顔埋めて」

「えっと、いい匂いがするなと思って」

「昨日クリーニングに出したんだから当たり前じゃない」

「えっ、そうなんだ……」

「早くリビングに来なさい。ご飯できているんだから」

 リビングに行くと、温かな朝ごはんがテーブルに置かれている。

 ぼくに気づいた姉さんは笑顔で椅子を引いてくれたので、そこに座る。

「ご飯はどれくらい」

 母さんが平らによそったご飯を見せてくれた。

 艶々した白米を見たら我慢できなかった。

「もっと、大盛りで」

「りょうか〜い」

 大盛りどころか山盛りのご飯を頬張る。それだけで心が満たされ、おかずと味噌汁を食べ尽くしても、まだ満足できずにお代わりしてしまった。

「ほら二人とも、学校遅れるわよ」

 急いで支度をして、ドアを開ける寸前、母さんに呼び止められた。

「忘れてたわ。はいこれ」

 手渡されたのは白い髭を生やしたおじいさんの絵が描かれた千円札。

「なにこれ」

「今月のお小遣い。お姉ちゃんに渡したけど、まだあなたに渡してなかったからね」

 人生初のお小遣い。お年玉も貰った事のないぼくが初めて持った千円札は、風もないのに小刻みに震えていた。


「かっつん。一緒に遊ぼうよ」

 学校帰りに克也君を誘って駄菓子屋に行った。

「お前、そんないっぱい買って大丈夫なのか?」

 溢れるほどの菓子をカゴに詰めていたせいか、心配されてしまった。

「大丈夫だよ」

 白髭のお爺さんのお札を見せると、克也君は絶句した後、こう言った。

「俺より金持ちじゃん」

 克也君は好物のブタメンを啜りながら喋るので、口から細かくなった麺が飛んできた。

 でもそんな事、全く気にならない。

 だってぼくの太ももには駄菓子が山ほど詰まったビニール袋があるのだから。

 えびせんに梅ジャムをたっぷりつけて齧り付く。

「どうしたんだ。拾ったのか、まさか親から盗った?」

「かっつん。ぼくを悪者にしないでよ」

 ぼくはえびせんを飲み込みながら首を振った。

「母さんが初めてくれたお小遣いなんだ」

「すげえな。俺なんか200円だぞ」

 桜の花の硬貨をぼくの目の前に掲げた。

「今度、ぼくが奢ってあげるね」

 克也君とまた駄菓子屋に行く約束をして別れた。

 山ほどあった駄菓子は、家に着く前に食べ尽くしてしまった。


 夕飯はカレーライスだった。

 もちろん投げつけられる事もなく、ぼくは姉さんと二人で母さん手作りのカレーを堪能した。

 膨らんだお腹を撫でていると、母さんがデザートにアイスを出してくれた。

 白く滑らかな雪の結晶を一口。口から体全体に甘みと冷たさが染み渡る。

 段々と頭が冴えていくうちに、どうしてもある疑問が湧き上がってきた。

 母さん。どうしてそんなニコニコしてるの。

 そう口から言葉が出る寸前、母さんと目があった。

 それは昨日までの道を歩く虫を見るような目ではなく、ぼくの仕草で何かを読み取ろうとした真剣な眼差しだった。

 だからなにも言えなかった。いや言わないことに決めたのだ。

 家で笑う事が多くなったからか、学校の成績も上がって担任の中田先生からも褒められるし、それを知った母さんはご馳走を作ってくれて、しかもお小遣いも増やしてくれた。

 これ以上何がいるのだろう。

 母さんがクリスマスに何が欲しいか聞いてきた時、ぼくはゲーム機とソフトを頼んだ。それは克也君も遊びたいと言っていたゲームで、他に欲しいプレゼントがあるからと泣く泣く我慢したものだった。

 ぼくがソフトを頼んだことを告げると克也君は大喜びして、手に入ったらぼくの家で遊ぶ約束をした。

 そんな人生初めての出来事を母さんに報告すると、一緒に喜んでくれて、その日はお菓子を沢山用意してくれる事になった。

 サンタさんからプレゼントを貰い、ついに克也君を招く日になった当日。

 扉を蹴破ったのは、銃を構えた沢山のお巡りさん達だった。


「……と、これがぼくが体験した事の全てです。先生」

「話してくれてありがとうございます」

「貴女も知っていると思いますが、ぼくの体験した事は夢ではありません。現実のことなんです。なのに何千、何万と繰り返し聞いてきて、貴方達も飽きないですね。それに今日は変な格好ですね。まるでSF映画に出るみたいな」

「すいません。これも貴方の治療のためなんです」

「治療治療って、ぼくは何処にも異常はありません。もう毎月毎月、何百回検査したことか。担当の貴方なら知っていると思いますけど」

「えっと、今日の検査で6000回目になります、ね」

「で、異常はあったんですか?」

「いえ、なにも異常は見つかりませんでした」

「じゃあ、早く退院させてくださいよ。克也君との約束もまだ果たしていないし、姉さんや母さんにも早く会いたいんです」

「落ち着いてください。私達も治療法を必死に探していますので」

「早くしてください。ぼくは母さん達に会いたいだけなんですから……それで今日は何の用ですか。また検査ですか?」

「いえ、今日は病室の移送のお知らせです」

「それも、何千回聞いたか、次は何処ですか?もしかして空の上ですか?」

「いえ、次はつい一時間前に竣工した地球脱出の宇宙船に移ってもらいます」

「……冗談だよね」

「冗談じゃありません。あなたのせいで私は、私たち一族はずっとあなたの世話をしなくてはならなくなりました。気づいてないでしょうけれど、もう何世代も前、母、祖母、曽祖母。その母、祖母、曽祖母……とずっと続いているんですよ。老化しないように顔や声を変え、仕草も完璧に教え込まれてね。もうあなたが小学生だった時代はとっくに終わっているんです。あなたのお母さんもお姉さんもとっくに死んでいるんですよ!」

 先生が持っていた機械を叩きつけた。

 音に気づいて外にいた男の人達が暴れる先生を部屋の外に連れ出す。

 床の機械を拾い上げると、ヒビの入った画面に写る姉さんと母さんの写真には、赤文字で大きく「死亡」と書かれていた。

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ゼツボウ ー枯れ井戸の底に溜まった汚泥のような物語ー  七乃はふと @hahuto

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