死んだまま埋められる ーこの世とあの世と知らない世界ー

吉冨いちみ

大阪府堺市の奇妙な話をします

「生きたまま埋められるのが、いちばんイヤじゃないスか。部長はどうです?」

「確かにイヤだな。さっき言ってた溺死と焼死もたいがいだけど。息ができない、冷たい、熱い、痛い。なんにしろ苦しむ時間が長くなる死に方はゴメンやね」

「そっスね、死ぬときはサクッと楽に旅立ちたいっス」

「死んでからも地縛霊になんのは勘弁。どうせならフワフワ宙に浮いて、街を見下ろしてるようなんがいい」

「最初のころの『幽白』みたいな感じのヤツっすね」


 今を遡ること三十年ほど前の話です。ぼくは大阪府堺市の中学校に通う二年生。演劇部で部長をやっていました。


 堺市は戦時中に度重なる空襲で甚大な被害を受けた街として、平和学習に力を入れています。

 ぼくの中学は八月十五日が平和学習の日として登校日に設定されており、演劇部は平和をテーマにした劇を全校生徒の前で上演する決まりになっていました。

 そのため、演劇部員は夏休み前半を、本当はもっと明るく楽しい芝居を演じたいという願望をひた隠しつつ、ひたすら登校日公演にむけた稽古に費やしておりました。


 その日は背景画や書き割りの作製がメインでした。目標分を作り終えると、ぼくと後輩の古屋ふるやさん(オイラ口調で話すユニークなおかっぱ頭の女子でした)で、ゴミを焼却炉に捨てに行くことになりました。


 ぼくと古屋さんが演じる役は、現代の少年の前に現れて戦時中の体験を語り、平和の大切さを訴える幽霊役。堺大空襲で亡くなった兄妹という設定なのですが、顧問が書いた脚本には具体的な死因までは描写されておりません。

 空襲だから火に焼かれて死んだのか。それともまとった火を消すために、堺市中心部を囲う土居川に飛び込んで溺れたのか。役に想像の余地はかなりあります。ゴミ捨て場の赤錆びた焼却炉が不吉なイメージを呼び寄せるのか、元々堺市に怪談が多いせいか、死因のアイディアは次々と浮かんできました。

 ふたりで案を出しているうち、いちばんイヤな死に方は何か談義に脱線し、冒頭の会話になったという次第です。


 生き埋めといえば、ぼくがいちばんに浮かぶのは手塚治虫の『火の鳥 ヤマト編』です。王の権威を示すために多くの人々が墳墓に生きたまま埋められる展開、埋められてからも地中から声を上げ続ける悲劇は幼少期のぼくにはかなり恐ろしい記憶として焼きつきました。

 ご存知の通り、堺市といえば古墳の街です。特に古墳が苦手というわけではないのですが、側を通ると『火の鳥』のワンシーンがよぎることがあります。


 さて、ここから本題に入りましょう。今から語るのは、戦時中に生き埋めになって亡くなり、そのまま誰にも知られることなく放置された霊の話です。


 ◇


 大道具を作り終えた翌日、ぼくたち演劇部はいつも部室にしている学校の図書室棟ではなく、顧問の親戚が住職を務めるお寺に集まりました。

 お寺の客殿に通されると、戦争を実際に体験された檀家さんがすでに揃っていました。戦中の貴重な体験談をうかがって芝居に活かすため、住職さんの口利きで集めていただいたのです。


 ぼくと古屋さんは、瓶づき精米をする芝居があるので、集まった檀家さんのひとり、金木かなきさん(仮名)というおばあさんから直接指導していただけることになりました。

 映画やドラマで見たことがある方も多いと思うのですが、念のため解説しますと、瓶づき精米とは、玄米を一升瓶に入れ、瓶の口に太めの木の棒を突き入れて往復させ、人力で精米する作業のことです。

 本音を言えば、『はだしのゲン』を部室(図書室)で読んでるからだいたいわかるし、そもそも単純作業だし、なんて思いはありました。とはいえ当時は『ジョジョの奇妙な冒険』の四部が連載中の時期です。四部に登場する漫画家の岸辺露伴ならどうするか。リアリティーのためにキチッと取材するに決まってるでしょう。この状況、露伴ファンなら取材する。ぼくだってそーする。


 ぼくは金木さんに「はじめまして。本日はよろしくお願いします」、古屋さんは「ご無沙汰してます。父がお世話になってるっス」と挨拶して、瓶づきの実践開始。古屋さんも流石に今日は口調を改めるんだと思ったら、すぐにいつもの調子になり、吹き出しかけました。


 ザク、ザク、ザク、ザクッ。左手で瓶の下部をしっかり押さえ、右手で棒を玄米にひたすら突き刺す作業を繰り返すのは、想像通りの単純作業。ただ、すぐに成果が目に見えて現れてこないのは想像と違っていました。十分程度つついただけでは、玄米は最初の状態となんら違いがありません。

「一時間程度やってもまだこんなもんやで。まあ、黙々とやってても不毛やし、昔話でもしたるわ」

「ぜひお願いします」

 そうです、体験談を拝聴するのが本来の目的です。なんならぼくは今日うかがった戦争体験談をまとめて自由研究の宿題に転用する腹積りでもありました。


「わたしねえ、いくつかマンション持ってるんやけどね、一軒だけどうしても住人が居つかへん物件があったのよ、ちょっとだけコワイ話なんやけど聞きたい?」

「おもしろそっスね。オイラ怪談大好きなんでぜひ、聞かせてほしいっス」


 瓶づき精米の大変さより想定外の展開です。ぼくは苦手なのですが、古屋さんは昼間に放映しているワイドショーの夏休み限定ホラー企画(視聴者の恐怖体験を再現ドラマで紹介し、スタジオのゲストや専門家がコメントするという内容でした)の大ファンを公言している子なので、止める間もない食いつきぶり。困ったなあと内心動揺しましたが、ビビリ部長として威厳が損なわれるのも問題なので、覚悟して拝聴することにしました。


「さっきも言ったけど、ホンマにちょっとコワイだけやからね。血まみれの霊が視えた、襲ってきた呪われたって話とちゃうから、あんまり期待はせんといてな」



 以下、金木さんの話をまとめます。


 ぼくたちが生まれる五、六年ほど前、金木さんは持っている土地のいくつかを潰して、集合住宅を建て、家賃収入を得ることにしました。

 戦前まで牧場として使われていた土地もそのひとつ。空襲で母屋も牛舎も全焼し、牛は元々接収されていたので、戦後に残されたものは何もなく、ただ遊ばせているだけの土地でした。


 牧場といっても小規模で広くはないため、単身者向けの文化住宅を建てたそうです。

 学生や新米社会人を当てこんだ住宅なので、長期入居は少なく、どの部屋の住人も三、四年ほどで入れ替わるだろうと見積もっていたようなのですが……、


 奇妙なことに、実際はどの部屋の住人も入って三、四日で苦情を訴えてきたそうです。大家さんとして対処に当たったそうですが、最長二ヶ月、最短三日、平均だいたい二、三週でどの部屋の住人も移っていきました。


 家賃は良心的で陽当たりもよい新築。裏手は空き地で、周囲に似たタイプの集合住宅はない好条件の物件についたクレームは揃って同じでした。


「音がする。夜になると、ザク、ザク、ザク、ザクッ。って、ずっと耳元で鳴る。決して大きな音じゃないけれど、凄くイヤな感じのする音が鳴り続けるんだ。現象が始まると急に身体がカッと熱くなってきて、咽喉に渇きと痛みが走る。霊を見たわけじゃない。けれどもうここに住み続けるのは辛くて耐えきれなくて、心底イヤだって気になる。ここに居たくないんだ」

(このくだりの金木さんの語りはかなり熱いもので、瓶づきで玄米を鳴らす音も相当の迫力でした。)


 訴えを総合すると、音はベランダ側の方角からするということなので、金木さんは業者を呼び、調べてもらうことにしたそうです。

 堺市は古墳の街ですので、建築前に土地の発掘調査をすることがあります。ですが、金木さんの場合、戦時中は無人の牧場だったという理由で、調査はしなかったそうです。


 住宅の南側を掘り返してみると、空襲のときに爆撃を受けて崩れ、埋まってしまった井戸が出てきました。さらに井戸の底から……、


 白骨化遺体が見つかりました。

 

 遺体の側には粉々に割れた一升瓶。さらに祈るように合わせた遺体の両手の隙間に、朽ちた木の棒の欠片らしきものが残されていました。


「空襲で防空壕に逃げ遅れた子が、牧場の枯井戸に飛び込んだんやろなあ。運悪く爆撃が重なって、井戸も崩れて生き埋めになったんやろ。それでも生き抜くこと、助かることをあきらめへんかったんやろなあ。生命いのち長らえたらいっぱいご飯食べよう思うて、苦しみながらも一升瓶の玄米、棒でつついて、死にあらがってたんやろな。そう考えたら、涙が出てきてな。すぐにここの住職さんに頼んで手厚く供養させてもらいました。それからは住宅も住人から苦情がくることもなくなったんよ」


 そして、金木さんは奇妙な話をこのように締めくくりました。


「空襲のたび、防空壕入るとこのまま壕が崩れて生き埋めになったらって、すごく不安で。もしそうなったら、とっととあの世に逝かせてくれ、この苦しみを終わらせてくれ、と願ってた。でもなあ死んでも苦しみが終わるわけでもないんやなあ。


 死んだことに気づかれず忘れ去られて、誰からも供養されず、。これがいちばんコワイなあ。


 ずっと苦しみ続けなあかんってイヤやね。死んだあとも生きたいと願い続けることほどこくなことはないんとちゃうか」


 ◆


 摂津せっつ河内かわち和泉いずみの三国の境として発展した土地であることが「堺」の由来とされています。


 ところで、今のところぼくは生きているで、「この世」の住人です。一方、死者の国として「あの世」があると世間一般では言われています。

 ぼくは登校日の劇で演じる役を「あの世」の住人だと理解していたのですが、ふと疑問が湧いてきました。弔われて「あの世」に逝けた存在を死者とするなら、「この世」に生きる少年の前に現れ平和の大切さを説く幽霊はなのか? ほんとうに「あの世」の住人なのか?


「この世」と「あの世」のふたつの世界が接しているというような宗教観が無宗教のぼくの中にもあったのですが、実はもうひとつぼくの知らない世界、想像すらしていなかった、どちらにも存在できなかったものたちの世界、「この世」に踏みとどまれず、「あの世」にも逝けなかったものたちの彷徨う世界があるのではないか。そんな妄想をお寺からの帰り道たくましくしていると、古屋さんに声をかけられました。


「金木さんの話っスけど、あれ部長はどう感じたスか?」

「少しの事実誤認はあるけど、誇張はなし。本人は自分の話をおおむねホントの話だと思って語ってたと思う」

「オイラも同じっス。嘘はついてたっスけどね。これはまあオイラしかわからない部分なんでフェアじゃないっスけど」

「ぼくは金木さんと今日が初対面で、古屋さんはそうじゃない。元から情報差があるってことやな」

「正解っス。オイラん家は不動産屋なんスよ。で、たまに資料整理の手伝いとかしてるんスけど、金木さんの物件って全部が集合住宅じゃ無いッス」

「文化住宅から貸し倉庫になった物件があるとか?」

「ドンピシャっス!」


 両手で大きく◯を作っておどける古屋さんへのツッコミは流して、ぼくはさらに話をすすめます。


「まあ、供養はホントにしたし、成仏を願う気持ちも本物かな。だからこそぼくらとは違う解釈になったんだろうしね」

「そうっスね。大空襲の中、井戸の底に生き埋めになった状況で、『苦しみながらも一升瓶の玄米を棒でつつく。助かるために祈りをこめて何度もつつく』なんてト書きがあったら、オイラは上手く演じる自信がないっス」


 そう、もし劇として脚本化するなら、自分で演じるとしたら、あの話には流しきれないツッコミどころがありました。


「たまたま一升瓶と太い木の棒を持って逃げ出した先で井戸に落ちて生き埋めになったなら、道具にする。瓶が粉々になって使えなくなったらだろう。誰だってそーする。ぼくだってそーする」

「ジョジョは余計っス」

 古屋さんは流してくれませんでした。


 井戸の底で瓶づき精米。演劇部員として考えると絶対に

 そして、必死に足掻いても助からないと悟ったとしたら。瓶は粉々に割れ、土を掻き分けてすり減ったか、折れてしまった木の棒を両手で握りしめていると仮定します。

 ぼくならどうする。どんな芝居をする。わかりきっています。


「身体があるから苦しい、身体を脱ぎ捨てて、魂だけになれば、フワフワって浮かんで楽になれる。もしかしたら井戸から抜け出て堺の街全体を見下ろせるかもしれない。オイラならそう考えるっス」


 玄米を精米するように、糠層ぬかそうを削り取るように、肉体を無くしてしまえばいい。木の棒で喉元をひと突きすれば、瓶づき精米よりも簡単にことは終わる。

 けれど、実際にやってみたら想像と違ったなんてのは、ザク、ザク、ザク、ザクッ、よくあることです。ひと突きでは上手くいかず、ザク、ザク、ザク、ザクッ、何度も繰り返す、ザク、ザク、ザク、ザクッ、なんて可能性もあるんです。


 喉元からぼく自身驚くほどに絞り出すような声が自然と漏れました。


「ずっと苦しみ続けるのはイヤだよね、死んだあとも死にたいと願い続けることほどこくなことはないんじゃないかな」


                   了

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