最終話 +α 回帰 4 坂井 実和子(大人編)
おかしい。また、近視が進んだのかしら。
眼鏡をはずして、目をこする。
そして、もう一度見る。
見間違いなんかじゃない。
昼休み、事務所の机でお弁当を広げようとしたら、若い事務員の
「坂井さん、こんなにお天気のいい日は、部屋にいたらダメです。事務所の前にある公園のベンチでランチなんてどうですか? 最高にお勧めですよ」
そして、そよお勧めのベンチに向かったところ、どこからどう見ても綿貫
どういうこと?
公園にベンチは二つ。けれど、もう一つのベンチは座面が壊れている。
実和子は迷った挙句、彼の隣に離れて座り、バックから手作り弁当と、そよからもらったリンゴのカップケーキを出した。これは、事務所のそばのベーカリーで販売されている人気商品だ。甘く煮たリンゴがゴロゴロと入っていておいしい。
綿貫がホームランを打った昨夜の試合については、今朝のテレビのスポーツコーナーだけでなく、事務所の所長である国府田
所長は長年にわたり綿貫の球団の熱烈なファンだった。中でも特に、野球も私生活もクリーンでミスター・パーフェクトと呼ばれる綿貫選手をひいきにしている。
勤務初日に、所長からそんな自己紹介をされ実和子は面食らった。所長は、実和子と綿貫が同じ高校だと知っていた。もしかすると、この事務所に入れたのは、そんな理由からかもしれない。
「坂井さんは、綿貫選手と仲が良かったの?」
「いえ。一言二言しか話したことがありません」
お付き合いをしていました、なんて言えるわけがない。駆け出しの弁護士と、プロ野球選手なんて別世界の住人なのだ。なにかの拍子に週刊誌にでも載ってしまったら、彼の足を引っ張ることになる。
プロに入って三年目あたりだろうか。彼と連絡が取りずらくなった。会う機会が減り、会っても心ここにあらずといった様子になったのだ。なにかが起きていると感じつつも、四年目に入り、そしてシーズンオフ。
ある日、実和子は綿貫に呼び出された。何度か使ったことのある、綿貫家のそばにできた半個室のあるカフェだ。実和子は、綿貫の妹の
「俺、二人の結婚式が終わったら、しばらく家族とは離れようと考えている。野球にまい進したいんだ」
「しばらくって、どれくらい?」
「プロでいる間は、連絡はとらないつもりだ」
実和子は、耳を疑った。綿貫一家は仲が良い。穏やかな両親と、双子の片割れの妹。絵にかいたような理想の家族なのだ。
「ご家族には、もうお話ししたの?」
「彩の結婚式が終わってから、話そうと思っている」
確かに、今そんな話をしたら、結婚どころの騒ぎではなくなるだろう。
綿貫が実和子をまっすぐに見てきた。
「坂井とも、今日を最後にもう会わない。」
そこには、実和子が知る朗らかで明るい綿貫 篤志はいなかった。強い意志を持ち、どんな意見にもそれを曲げないとする大人の男性がいたのだ。
けれど、実和子は首を縦に振れなかった。綿貫と離れたくなかった。このまま、彼の人生から退場なんてしたくなかったのだ。頭をフル回転する。どんな形でもいいから、彼との縁を切りたくない。実和子は足掻いた。
「綿貫君、いつかの約束果たして」
「約束?」
「プロ野球選手になったら、私の勉強の助けをしてくれるって言ったよね」
実際、実和子が大学に合格したときも、彼は同じセリフを言った。だから、あれはやっぱりそういう意味だったと思ったのだ。ただ、あのときは実和子の申請した奨学金が通ったため、彼の援助は断った。
「私、法律に興味があるの。今の大学を卒業したら、今度は法律の勉強がしたい。だから、応援してほしいの」
真っ赤な嘘だった。出まかせのでたらめだ。法律は、単に実和子が知る、到達するには難関な道を言ったにすぎなかった。
けれど、そんな嘘を、彼は疑いもせずに受け入れた。さらに、奨学金の返済についても、助けてくれると言った。
するすると進む話は、自分が言い出したにもかかわらず、現実感がなかった。実和子にとっては気が遠くなるお金の話にしても、綿貫にしてみれば、なんなく解決できる問題だったのだ。
ここにきて、ようやく実和子も気が付いた。綿貫と自分の間には、すでに圧倒的な差ができていたのだと。どんな形で繋がっていたとしても、そこに意味などない。
連絡先として、綿貫は球団の住所を書いてきた。個人的なやりとりはなしだ、という意味なのだろう。徹底している。
しばしの沈黙の後、伝票を持ち綿貫が席を立った。
さようならもなかったな、と思った実和子のもとに、あわただしく彼が戻ってきた。
「坂井、ごめん。やっぱり諦めきれない。すごくかっこ悪くて、情けないんだけど。もし、というか、できたらでいいんだけど」
そして、実和子は、彼からひどく現実離れしたお願いをされたのだ。
その後の実和子の生活はといえば、再びの大学受験から始まり、とにかく勉強漬けだった。その間も、彼はプロの選手として走り続けていた。
負けられない。負けたくない。
彼がプロとして多くのことを成し遂げているように、自分だって何かをやり遂げたい。プロ相手に張り合うなんて馬鹿みたいだけど、それぐらいの気負いがないと、やっていられなかった。
けれど、人って不思議だ。出まかせで始めた法律の勉強だったのに、学ぶうちに欲が芽生えた。実和子は今、弁護士として働いている。
彼との出会いがなければ。彼から突き放されなければ、進まなかった道である。
人生って、ほんと、なにが起こるかわからない。
「カロチン」
ふいに隣からそんな声があがり、実和子の弁当箱へと手が延ばされた。綿貫がカボチャの煮物を自分の口に放り込む。
「懐かしいな、坂井の料理」
「綿貫君ったら、どうしてここにいるの?」
「坂井に会いに来た。以前のお願いが有効かどうか聞きに来た」
「……綿貫君、試合は? まだ残っているでしょう?」
「もう、ないんだ」
「そんなことないわ。うちの先生が、綿貫君のチームのファンで、明日だか明後日だか試合があるって言っていたもの」
「俺の試合はもう終わったんだ」
実和子は、はっとした。
まじまじと綿貫を見つめる。
彼の穏やかな表情に、実和子は息をのんだ。
そうか。綿貫の戦いは終わったのだ。
「お疲れさまでした」
しんみりとした気持ちで、頭を下げる。
「ありがとう。で、話は戻るけど、俺のお願い、覚えている?」
どう答えてよいのやら。実和子は、なんとも言えない気持ちになった。実和子は、綿貫がお願いをしてきたときを思い返した。
「十年後か、二十年後か、三十年後か。俺は野球をやめたら、すぐに坂井に会いに行く。それで、そのときにもし、坂井の隣が空いていたら、俺、そこにまた座りたい」
あのとき、慌てて戻ってきた綿貫は、そんな夢みたいなお願いを実和子にしてきたのだ。
二十二歳の実和子にとって、自分が三十歳や四十歳やましてや五十歳を迎える姿は想像し難く、そんな未来に向けた言葉を、どう受け止めていいのか分からなかった。
一度だけ、二十歳(はたち)の時、実和子は彼と旅行に行ったことがある。
冬だった。朝早く、誰もいない海はまだ薄暗く、夜が明けていく様は恐ろしいほどに美しかった。
海岸を歩く実和子と綿貫を囲むように、空は徐々に色を変え、やがて誰もが知る青に染まった。
彼と手を繋ぎ長い砂浜を歩きながら、これからも同じような朝を二人で何度も迎えるのだと、実和子は信じて疑わなかった。
けれど、それは叶わなかった。
未来なんてわからない。
儚いものだ。
そう思い知らされた相手から、十年も二十年も三十年も先のお願いをされても、信じられるはずがなかった。
でも、それは実和子の問題だったようだ。言ってきた当人は、覚えていたわけなのだから。
「綿貫君には綿貫君の考えがあって、綿貫君のペースで動いているんだろうけど。私にしてみたら、本当に、突然だし、唐突だし。はい、そうでしたね、なんて言えないわ」
「それはわかってる。だから、とりあえず教えて。坂井の隣はまだ空いてる?」
「……残念ながら、空いています」
実和子の答えに、綿貫が嬉しそうに笑った。
あぁ、もう、嫌。
なに、その笑顔。
目じりの皺が素敵なんて、なにこれ、ずる過ぎる。
こうなると、もうどうにもならない。
ものすごいスピードで、自分の心が彼へと傾き落ちていくのがわかる。
こんな、いきなりの再会なんて、自分勝手だって思うのに。
かつての彼の決断を、彼が野球だけを選んだ行為を、そうせざるを得なかった状況を、実和子はとっくの昔に理解し、受け入れていた。
そんな彼を分かってしまう自分は、そもそも彼を拒否なんてできやしないのだ。
「坂井の隣にいさせて」
「後悔してもしらないんだから」
「後悔するかな? ほら、みなさんも、応援してくれているし」
綿貫が実和子の後ろに向けて手をふる。
どういうこと?
恐る恐る振り向くと、所長とそよがビルの二階にある事務所の窓から手を振っていた。所長は手に、真っ白い色紙を持っている。
動揺した実和子の膝から、カップケーキがころりとベンチに転がる。
「これ、リンゴの。俺も食べたことある」
「このカップケーキ、うちの事務所のそばのパン屋さんのものよ」
「俺、坂井から就職先が決まったって連絡もらったとき、ここの事務所を見に来たんだ」
「なんですって」
「引くよな」
「引くっていうか。びっくりした」
「まだ、坂井が働く前だったから、ここには来ないってわかっていたけど。しばらくこのベンチに座っていた。そうしたら、坂井の事務所から出てきた白髪の年配のおじさんが、これをくれたんだ」
間違いなく、所長の国府田先生だ。
「なにか話した?」
「話した。まずかったかな」
「内容によると思います」
「高校の同級生が、お世話になりますと言ったような」
アウト!
綿貫選手が、高校時代に一言二言しか話さなかった同級生の就職先に挨拶するなんて、ないから。これは、なにかしらの関係だって思うから。
所長には、バレていたのだ。いや、所長だけでなくおそらく、事務所のみんなにバレている。
そこでようやく、実和子は気が付いた。
あの、そよのわざとらしくも具体的なランチタイムへの指示よ。
窓から手を振るあの姿よ。
実和子は恥ずかしさのあまり、身もだえた。
「綿貫君も事務所にきて」
実和子はそそくさと弁当をしまった。
「え? いいの?」
「所長が待ってる。サイン、欲しがってる。あぁ、私、綿貫選手とはろくに話しもしたことがないなんて嘘ついていたんだけど、どう説明したらいいのかしら」
「俺の熱烈片想いってことで、いいんじゃないの?」
「嘘に嘘を重ねたくないわ」
「嘘じゃない。俺、高校の入学式で、入学式のプログラムを落とした時に坂井に拾ってもらって。それ以来、ずっと気になってた」
「聞いてないわ」
「うん。恥ずかしくて言えなかった」
実和子は綿貫と顔を見合わせた。
十代、二十代のときには言えなかった、出来なかったことが、四十代ならなんなくクリアできてしまうこともあるようだ。
また、始まるのだ。
始めるのだ。
二十二歳の二人ではたどり着けなかった未来に向けて、四十一歳になって歩きだす。
人生って、ほんと、なにが起こるかわからない。
「だったら、そこからね。綿貫君は、私に片想いをしているの。そこから始めましょう」
昔であれば、とてもじゃないけれど言えなかった、強気の発言をぶつける。
綿貫が実和子に笑いかける。
その笑顔が、なんだかとっても、実和子が好きとだと言っているようで。いやいや、まさか、そこまでの感情がすでに彼にあるなんて、とんだうぬぼれだと思うのだけれど。
実和子は眼鏡をはずして、目をこすりたかった。
やっぱり、私、近視が進んだのかもしれない。
野球部員とその周辺のエトセトラ 仲町鹿乃子 @nakamachikanoko
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