第55話 それぞれの始まり



 激動の一夜が明けた。


 冬が過ぎ春になったとはいえ、まだ肌寒く空には一面にドンヨリと雲がかかる。時折パラパラと小雨も落ちて来た。何時までも薄暗いアルバとブリテンを繋ぐ、ありふれた街道。

 そこに背中を丸めた貧相な男が一人で歩いていた。動きは緩慢で、まさにトボトボという風情である。しかし足運びには一切の無駄が無く、見た目に反して高速度で移動していた。


(結局、彼は私が脱出するまでの、囮にしかなりませんでしたね。生き残ればロンディニウムでも、使ってやれたでしょうに)


 ジーヴスは貧相な顔を顰めて、ため息を付いた。行き掛けの駄賃にアルバ王族の有能な後継者の、一人でも始末しようとしたことは欲をかき過ぎたか? 今後は部下も聞いた密約が、グレアム国王以外にも伝わったと、考えて動かなければならないだろう。


(今後の想定を練り直さなければなりません)


 貧相な男は肩を竦めると、素晴らしい速度でアルバを後にして行った。



(おぉ、そうか! バートンの海岸沿いを99年租借する事ができたのだな。流石、我が愛娘。でかしたぞ)

 小さな手鏡の中で、父親のジミーが微笑む。黒髪で身なりはお世辞にも良いとは言えない。一歩間違えれば浮浪者と間違えられる、最近お気に入りの変装姿だった。

 手鏡を見つめてダイアナは、チェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを浮かべる。

「バレット如き私に掛かれば、どうとでもなりましてよ。彼が租借候補地区にバートンを挙げた時には、吹き出しそうになってしまいましたけど」


「……あの、お二人とも随分バートンに拘られますねぇ。確かあそこは海水混じりの湿地帯で農業は出来ず、建物を建てる事も難しい所ですよ。ほとんど価値の無い土地だったと記憶しておりますが?」

 ダイアナの前で手鏡を捧げ持つ、イワンが疑問を口にした。

(何だ婿殿は、例の鉱山が何処にあるか聞いていなかったのか)

 ジミーは苦笑いする。何と彼が発見した有用鉱山は、バートンの海岸部に有るとの事だった。表土が湿地なので採掘と排水が困難であること。岩盤を一枚下れば有用な鉱脈が眠っていることなどを説明される。


(さぁ、忙しくなってきたぞ。さっそくスカウスへ、とんぼ返りだ。租借地の縄張りをしないといけないからな)

「あの、ジミーさん。今、どちらにいらっしゃるんですか?」

(ロンディニウムだ。があったが、粗方片付いた。細工は流々仕上げを御覧じろって所か。まぁ、そんな事より今は金儲けだ。暫く帰らないから、娘を宜しく頼むぞ!)

 イワンの体内には、これまでの経験則から構築された、保身警報装置だいろっかんが埋め込まれている。その装置がの内容を、絶対に聞かないようにと最大音量で警告していた。彼は大人しくそれに従い、手鏡の通信を切る。


「さて、それでは私は王宮の方へ……」

 サッサと危地を脱しようと、ローブの魔術師は現場の脱出を図る。ダイアナは小首を傾げて声を上げた。

「やっぱりアレですわね。というのは、バレットがロンディニウムに対して、叛意を持っているという噂を広げる事なので……」

「わー! わー! 私は何も聞いていませんよ!」

 イワンは、耳を押さえて大声を上げた。その様子を見て金髪の美少女は鼻を鳴らす。

「今更何を仰っているのです? もう貴方は私たちと一蓮托生でしてよ。王宮へ行くより先に、放火犯の尋問を行わなければ!」

「いや、その。私、尋問とか拷問とか苦手なんですよ。いやぁー」


 ローブの魔術師は勝気な婚約者に、ガッチリと腕を取られる。そしてそのままマクレガー家の秘密の小部屋へと、引き摺られて行くのだった。



 今回も難問を辛くも凌いだクリスとカトリーナ。残務処理が山積みだが、何とか一息付けそうだ。王宮の自室に戻ったクリスは、ため息を付いて指を折る。

「春の飢餓に難民問題、ブリテン大王国の難癖の処理か。本当に忙しい冬だったな。これから少しでも楽になればいいけど」


 コンコン


 ノックと共に扉の影から、カトリーナが顔を出した。部屋へ招いたが、彼女は小さく首を振った。

「忙しい所を済まない。少し付き合って貰えないだろうか?」


 王宮の近くを流れる川沿い。そこに至るまでクリスは何度かカトリーナに、話しかけたが反応はまるで無い。どうやら何かを考えているらしい。こういう時は考えがまとまるまで、何を話しかけても無駄だろう。

 長い付き合いで彼女の性質を知り尽くした青年は、黙って後に付いて歩き続ける。そして突然、彼女は足を止めた。


 唐突にカトリーナはクリスに話しかける。

「ちょっと大事な話があるのだが。驚かないで聞いて欲しい」

「何だい改まって。この冬で僕のビックリは在庫切れだよ。これ以上、驚く事なんか出来ないと思うんだけど?」

 カトリーナは肩を竦める。それから何気ないように話し始めた。


「子供が出来た」

「……え? 何?」

「私が妊娠したと言っている。生理が止まって三か月が経過した。恐らく間違いないだろう」

 呆然とするクリス。アングリと口を開き、閉じるを数回繰り返す。暫くすると滂沱の涙を流し始めた。彼を見て息を呑むカトリーナ。ここまで告白の手順を考えていたが、何か間違えがあったのかもしれない。考えてみれば成人してから、彼の涙を見るのは初めてだった。

「お、おい。大丈夫か?」


「僕はこれから、もっと頑張るから。絶対に君たちに悲しい思いをさせないから」


 そう言いながら身体を労わるようにソッと、彼女を抱き寄せた。カトリーナは軽いキスをして、クリスの頭を抱き寄せる。


「そんなに気負うな。私は十分幸せだ。これからも宜しくな」


 いつの間にか小雨も止み、穏やかな太陽が顔を見せ始めた。幸せな二人の足元で、柔らかな風にアザミの赤紫色の花が揺れていた。


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