妖隠し

青時雨

妖隠し

 新しい下駄。新しい浴衣を着て、人里まで下りて来た。

 血のように真っ赤な頭髪は、妖狐の尾のようになめらか。人を惑わすと恐れられてきた藤色の瞳は、どこか儚げに細められていた。少しだけつり上がった大きな目を縁取るように、化け猫のような化粧をしている。

 人間が作るのと似て非なる面を被り、村へと足を踏み込んだ青年。




○◇○◇○◇○◇○◇




 八月十二日。

 この村では決まってこの日に成人の儀式を行うしきたりがある。

 年に一度行われる成人の儀式には、成人を迎える子どもが少なくとも三人はいる。争いもなく、不自由のない程度には栄えており、とても平和な村であった。

 ――しかし、この村にはある言い伝えがあった。それは成人を迎えたばかりの若者の血肉を求め、人里に下りて来る妖の話であった。

 村の人間は全員その話を幼い頃に祖父母に聞かされて知っており、人を喰らうという妖を恐れていた。


 今日もその村では成人の儀式が行われる予定だ。成人するのは十一人の男子。

 皆揃って顔に、厄払いに有効だとされている昆虫をすり潰して作られた赤い塗料を塗る。

 ほとんど全ての支度を終えた男子たちは、自分の身は自分で守るという村の決まり事に倣って、鏡に映る自分の顔にその塗料を模様を描くようにして塗っていく。

 最後に村長が自らの手で掘って作った厄除けのお面をつけ、成人の儀式に参加する。

 成人している者とそうでない者の区別がつかなくなるよう、村人も皆成人する者と同じ赤いお面をつけ一日を過ごす。



 成人の儀式の日には美味な食べ物がずらりと並ぶ屋台が出て、成人の儀式をまだ迎えない子どもにとっては一種の祭のような心地だった。



「おっと…」


「ぶつかってごめんなさい」



友達と駆けっこをして前を見ていなかった少女がお面をつけた青年とぶつかる。少女の着ている民族衣装のポケットから零れ落ちた硝子の簪を拾い上げる青年。



「ありがとう」


「美しい簪だね」


「おばあちゃんが持たせてくれたの。もしも人食い妖に出くわしてしまったら、女はこの簪で身を守るんだって」


「……そっか」



去って行く子どもの背中を見送る青年。

 村は祭のように賑やかだった。人々の往来が激しく、妖一人が紛れ込んでいても誰も気がつかない。

 どの家の瓦にも厄除けのための風鈴がいくつもぶら下げられていた。人間たちはそれが妖にとって致命的になるという言い伝えを信じ、毎年この日には欠かさず風鈴を吊るすようだけれど、青年にとっても暑い夏にほんの少し涼を得られる美しい音であることには変わりない。

 面をつけていると、誰も僕が人食い妖だなんて疑わない。人間たちの間で何百年も前に始まったこの風習は、妖にとって都合が良くもあった。成人する若者を見つけ出すのは多少難しくなるが、己の身を隠す術として面は大いに役に立った。

 村の人間も成人する若者がわからないように、この日だけは全員互いを名前で呼ばない決まりになっているので、僕も先程から「なあそこの」「ねえ、そこの」といったようにしか声をかけられない。お前は誰だと詰問されないのは大変助かることだ。

 それに青年は人間の青年に比べて華奢だった。一見すると女、ほとんどは子どもと間違えられた。村人たちが知っている人食い妖はもっと熊のように大柄で、醜い容姿をした妖だと思い込んでいるため、誰も青年が人食い妖だなんて微塵も疑わなかった。

 律儀な青年は、化かした金ではなく本物の金を支払って出来立ての饅頭を買い、それを面の下へ運び食しながら成人の儀式を迎える若者を探して回った。




○◇○◇○◇○◇○◇




「嗚呼、間に合って本当によかった」



 成人を迎える男子十一人が支度をしている、赤い瓦の建物の一室。濃紺の御簾が垂れ下がっている和室には、正座で佇む青年と慌てた様子の女の姿があった。

 ほっと胸を撫でおろす巫女の女にやつは微笑みかけた。



「素敵な衣装だ」


「ごめんなぁ?、成人の儀式で十一人も成人を迎える子どもがいることなんて滅多にないから成人の衣装が足りなくて」



急いで用意してくれたことがわかるほど、彼女は汗をだらだらとたらしていた。



「このお水、よろしければ飲んでください。この暑さでは倒れてしまいますよ」


「ありがとぉ、八君は優しいねぇ。でも先に八君のお着替えが先よぉ、だって儀式に間に合わなかったら成人できなくなっちゃうんだから。ほら、まずこれを羽織って」


「わかりました。支度とか色々、私の面倒を見てくれてありがとう」


「いいえ~」



八は巫女に用意された衣装を着せてもらいながら考える。

 成人の儀式を迎え大人として認められれば、子どもでなくなった途端嫁選びが始まる。紹介された育ちの良い一人の女性と結ばれ、村の繁栄のために子を産む。

 そんな決まり切った人生をなぞるだけ。それが当たり前。

 そんな簡単に予想が出来てしまうような自身の一生を思うだけで、無意識にため息が零れていた。



「どうしたの?」


「いえ、なんでもありません。少し疲れてしまって」


「着付けも終わったし、儀式まで少し休んだら?。あ、でも厄除けの塗料を顔に塗り忘れないようにね。妖に食べられちゃうわよ」


「ええ、わかっています。では少しだけ休ませていただきますね」



巫女は晴れ姿となった八の姿を眩しそうに眺める。



「…本当に大きくなって」


「泣かないでください」


「そ、そうよね。きっとお母様も喜んでいらっしゃるわ」



巫女は真夏の青い空を見上げ、八に視線を戻した。



「時間になったら呼びに来てあげるから、寝ちゃってもいいわよ?」


「お気遣いありがとうございます」




部屋を出て行く巫女を見送ると、八は鏡と向き合った。この白い肌に、これから厄除けの赤い塗料を塗っていく。

幼い頃は、成人する村の兄や姉のためにこの塗料に使われている昆虫を取りに行ったものだ。自分が今から使おうとしているこの塗料も、村の子ども達が取って来てくれたものなのだろう。

 薬指で塗料を掬い上げながら、懐かしさと嬉しさに頬を綻ばせていると、風が吹いていないのにも関わらず御簾が揺れた気がした。

 気になってそちらに顔を向けると、男とも女とも、それに子どもともつかない赤毛の者が腰を下ろしていた。



「こんにちは。君は今日成人の儀式を迎える人かな」



艶やかな声音。けれど、大地を思わせるような低い声に、この赤毛の者が男であることがわかった。

 この建物には成人の儀式を迎える者と、その支度の手伝いをする巫女しか入ることが赦されていない。となると、この赤毛の者も成人する十一人のうちの一人なのだろうか。



「すみません、村の人間の顔は全て覚えたと思っていたのですが、貴方のような美しい赤毛を持った方を存じ上げなくて」


「そうだろうね」



赤毛の者は八に近づくと、少しばかり眉をハの字にして彼の持っていた塗料の入った小さな壺を部屋の端へと遠ざけた。



「面を外せば僕が何者かわかるかな?」



面を外した赤毛の者に、八は驚いた表情で口を開いた。



「貴方、人食い妖ですか」


「君には悪いけれど、成人の儀式を迎えた後より迎える直前の方が美味だからね。厄除けの支度が済んでいない君を選ばせてもらったよ」


「…そうですか」



目を伏せた八に、妖は警戒した。動揺する人間は無様に逃げ惑い、抗えぬ死の恐怖に顔を引きつらせながら最後を迎える。しかしこの青年のように落ち着いている者は、大抵斧や刀で攻撃してくる。切り傷程度で妖が死ぬことはないけれど、痛みは得意ではなかった。

 外から風鈴のちりんちりんという清涼な音が聞こえてくる。油断大敵と言わんばかりに八をじっと見据える妖と、静かに呼吸を続ける八。



「話はわかった。今日と言う日で私という人間が終わりというならば受け入れよう」



八はゆっくりと目を開いた。



「随分と死に従順なのだね」


「村全体で取り組んでいる厄除けの風鈴や、面を被り顔を隠すという創意工夫。それが本当は意味をなさないものであることは、貴方が今ここに居ることで知ってしまった。それに貴方が部屋の隅に遠ざけた厄除けの塗料を早く塗らなかった私が狙われるのは、当然だ。逃げ遅れた鹿が捕らえられてしまうようにね」


「鹿と人間とでは違うだろう?」


「同じだ。…いや、まだ鹿の方が自由かもしれないな。この村ではどんな一生を送るか、その道筋が既に用意されている。選択できるのは結ばれる女性とおやつに食べる菓子くらいのものさ」


これから食われるというのに、食い物の話が出来る程に落ち着き払っている青年が物珍しく、そして可笑しくて、妖は自然と八を人間食い物としてではなく人間友人として会話を楽しんでいた。



「君、名はなんていうの?」


「八だ。貴方は?、妖にも名はあるのだろうか」


「ああ勿論。僕の名はびゃく



二人が微笑み合うこの和室だけが時間から切り離されたように、風鈴の音と夏の声以外、祭りの喧騒も人々の楽し気な声も聞こえなくなっていた。

 百が買い込んでいた饅頭を広げ、八の淹れたお茶を飲みながら二人は時間も忘れて少しの会話と無言を繰り返すような慎ましやかなおしゃべりに興じていた。



「…なあ百、死ぬ前に聞いておきたいんだが」


「なに?」


「俺の血肉は、山にいる家族と分け合うのか?。もしこの身が引き裂かれるというのなら、先に息の根を止めてほしいと思ってね」


「それじゃあ鮮度が落ちるだろう?」


「それもそうか」



笑う八に、百は呆れたように嘆息し茶をすする。



「冗談さ。食べるのは指一本だけなんだ。僕みたいな妖が生きるためには成人の儀式を迎える頃合いの人間の肉ではなく、正しくはその魂が必要なんだ。魂を肉体という器から取り出すために、少しだけその魂の持ち主の血肉を口にしなければならなくてね。苦痛だよ」


「苦痛?、さっきは美味だと言っていなかったか?」


「あれはちょっとした脅しさ。人間たちが思っている恐ろしい人食い妖を演じてやっただけのこと」


「なるほど、そういうことだったか」


「本当は饅頭や落雁みたいな甘い菓子が好きだよ」



百は目を細めて笑った。

 いつの間にか夕日が差し込んで来た。

 成人の儀式は日没から始まるため、外には成人する者の姿を一目見ようと一層人が多く集まり煩くなっている。

 会話に興じていた二人にも、やっと時間の流れと雑音が戻って来たらしい。



「そろそろ食わないと彼女が私を呼びにやって来てしまうぞ」


「…」


「百?」


「ねえ、八。僕はとっても卑怯らしい。人間と変わらない側面だって持ち合わせているのにと憤慨することもあるけれど、結局はずるくて浅ましいただの妖なんだ」



百は八の手を強く握りしめ、その手を引きながら御簾を避け外へと走り出す。

 妖払いになればと建物を囲うようにこれでもかと植えられた、毒を持つといわれる夾竹桃の木が立ち並ぶ道をこっそりと抜けた。

 怪しく吹いた風に揺れる風鈴の音が喧しく鳴り響く山の麓へと駆けて行く。ここを越えれば妖が住むと伝えられており、人々は一歩も足を踏み入れない禁忌の森だ。



「君のことは食べない。その代わりこの先百年、千年、万年と、進む道筋なんて誰にも決められてなんかいない何も決まっちゃいない自由な生を、ひとりぼっちのこの僕と生きてよ八」






○◇○◇○◇○◇○◇






 成人の儀式が終わった直後、八の行方がわからなくなった和室を巫女や神主が念入りに調べた。結果、人食い妖が使うと言われる孤立空間の術の痕跡があったそう。

 孤立空間の術、これは他の人間に気づかれることなく人間を食い散らかすための残酷な術としてこの村では有名な術名だった。

 八は村人に大変好かれていた。それだけに、村には大きな悲しみが襲った。

 心根が優しく、真面目で、母親を早く亡くしたとは思えないほどにいつも明るく振舞っていた八。子ども達の面倒をよくみて、年頃の女子おなごは彼と結ばれたいと強く願うほど心の強い男だった。何事にも怯まず、まずは目を閉じて考える癖があった。目を閉じていたせいで蛇に噛まれたこともあったけれど、そんな抜けた一面も愛嬌であった。大人びていた八は大人たちの手助けを買って出ていたこともあり、老若男女問わず村人全員に成人するのを楽しみにされていた男子だった。

 …しかし、その心根の優しさ故、人食い妖に食われずにのだと村人は嘆いた。

 その年の八月十二日。村人たちの悲しみを共に嘆くかように、天からも雨が降り注いだ。

 何日も、何日も。

 雨は八の名の通り、八日間振り続けたという。

 それ以来、この村ではそれまで言い伝えられてきた人食い妖についての恐るるべき点として、新たに文句を付け足すこととなった。それは―――



人食い妖はまるで神の真似事のように、人を隠す。

それを神隠しでなく、妖隠しと呼ぶ。

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妖隠し 青時雨 @greentea1

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