第4話:伝える思い
共に出掛けたあの日から、アキナは姿を見せなくなった。
彼女が門をくぐったという知らせはない。
私がこの地を去る日。やはり、アキナはやってこない。
最後の職務に臨みながら、やはり、私は彼女のことを考えていた。
人間とは気まぐれな生きものだ。彼女だけを特別視するのは幻想甚だしい。
ただ、もしアキナが来ないとしても、私は失望することはないだろう。
あの日、彼女と見た景色はとても輝いていた。
私はケルベロスだ。だから、門を守る。そうあること以外、考えたこともなかった。
だが、アキナが教えてくれた。人間の世界は美しい。
この世界を守ってやってもいいと思った。ケルベロスではなく、ポルトとして。
彼女は最後まで門を訪れることはなかった。
それでも私はこの出会いを生涯忘れることはないだろう。
「ポルト」
勤務を終え、冥界へ戻る私をシェーンヌが迎える。
「久しぶり、ちょっとだけお話ししよう?」
「縁談話ならお断りだ」
私は苦笑する。
この大都市に配属されて十年が経った。シェーンヌは、激務に挫けそうになった私を支えてくれた恩人の一人だ。
身を固めろと言うのも私を心配しているのだと分かる。だが、私は首を横に振る。
「何度も言うが、私は結婚をするつもりはない」
「あの子?」
私は何も言わずに笑う。シェーンヌにとっては不可解極まりないだろう。だが、彼女はいつも通り困ったように眉を下げるだけで、何も言わない。
そんな友人の在り方に私は救われている。
「ありがとう。シェーンヌ」
「……そう言われると、何も言えなくなるじゃない」
と言いつつ、また縁談話を持ち込むのだろうが。
「さて、そろそろ戻ろうかな」
「なんだ。話はこれだけか」
「うん。あと、そうだ」
シェーンヌがふっと頬を緩め、私に耳打ちする。
「あの子、まだ死んでないよ」
死者の個人情報の扱いは厳しい。本来、これは許されないことだ。それでもシェーンヌは度々私に伝えてくれる。
「……ありがとう」
シェーンヌはいたずらっぽく笑うと、手を振って去っていった。
時間が空くと私は人間の世界へ行く。
太陽が照り付ける中、私はいつものカフェのいつもの席に座る。テラス席は不人気で座るのは私一人だ。
アイスコーヒーを注文した後は街ゆく人々を眺める時間。
人間はとても忙しい生き物だ。泣いたと思えば笑い、悲しんだかと思えば憤り。
理解できないその生態にかつての私は戸惑い、嫌悪さえ抱いたものだ。
だが、今は愛しく感じる。
あの子を知ったその日から。
生と死に翻弄され、いつも泣きそうで、それでも、鮮やかな笑顔を見せたあの子。
あまりに矛盾したその存在を、私は思い続けて今に至る。
――子は成せなくても、恋は生まれるし、愛は紡げます。
私の恋は君と別れてはじめて生まれた。いや、気付いていなかっただけかもしれない。
いずれにせよ、もう叶うことはない。
それでも、その温もりを私は愛していた。
「お隣、いいですか?」
我に返る。
空いている席はいくらでもあるだろうに。
不思議に思い、その顔を見上げた。息が止まった。
彼女はやはり泣きそうな顔で笑った。ああだが、私もそんな表情をしているのだろう。
「もちろん座ってくれ」
頬に雫が伝う。
「ちょうど、君のことを思っていたんだ」
***
「もしもし、今着いたよ」
海外へ行くと毎日おじいちゃんとおばあちゃんに電話かける。二人とも心配性すぎるのだ。私はもうアラサーだというのに。
それでも、その過保護さが嬉しい私もいる。
二人はあの家から逃げ出した私を受け入れ、そして育ててくれた。いくら感謝してもたりないくらいだ。
「またお土産買ってくるね。うん、おいしいものを見つけてくるよ」
電話の最後におばあちゃんが言う。
――見つかるといいね。
優しい声に私は元気いっぱいに答えた。
電話を終え、駅構内を見渡す。私は小さく唸る。
ここはベルリン。ドイツ語が分からない私にとって標識すら暗号文。英語は通じるのだろうか。
いや、今までも言葉が通じないことはあった。今更怖気づいてなんていられない。
私は駅を出る。
「わぁ」
思わず声が出た。この街の冥界の門は世界で最大級だと聞いていたけど、ここまで大きいとは思っていなかった。
今回の目的地はあそこだ。
また門前払いされなければいいけど。苦い記憶に私はどんよりとする。
それでも再び顔を上げる。
私はあなたに会いに行く。
捨てきれなかった命。それはあなたのせい。そして、あなたのおかげ。
終わった方が楽だった。そんな恨みを伝えたい。
生きていてよかった。そんな感謝を伝えたい。
そして、一番伝えたいのは、あの日口にできなかった恋心。
それにしても暑い。門まではかなりの距離がありそうだ。休憩しようとカフェを探す。
見つけた手近なカフェを覗くが人でいっぱいだ。テラス席もあるみたいだけど、屋根すらない。それでも座っている人がいて私は驚いてしまう。
その後ろ姿をじっと見つめる。それはなぜ?
私は息を呑んだ。
あの日と違って髪は短く、それでも、伸びた背筋は変わらない。
私は一歩踏み出す。そこからは、一秒一秒がコマ送りのように。
足を止める。
息を吸う。
喉を震わす。
「お隣、いいですか?」
【終わり】
死にたい少女とケルベロス 針間有年 @harima0049
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