死にたい少女とケルベロス
針間有年
第1話:日常
西洋の冥界と日本の冥界が協定を結んだのは、私が生まれる十年前の話。
人類は増えすぎた。だから、毎日たくさんの人が死ぬ。
冥界への入口は朝から晩まで長蛇の列。それは西洋でも日本でも同じだったらしい。
新しい入り口を作りたい。だけど、お金も人も足りない。だから、冥界同士が手を組んだ。
冥界を一つにし、世界のいろんなところに入り口を作った。
私が住む
「はぁ」
口からもれる大きなため息。
時刻は五時。まだ、学校が長引いたと言えば何とかなる。
夕暮れ時の住宅街に笑い声。テレビの音か、幸せな家族のものか。
それを片耳に入れながら、私はとんとんっと弾むような足取りでいつもの場所に向かう。
現れるのはあまりに大きな門。訳の分からないグロテスクな生きものが彫られたそれは冥界への入り口。
そんな門の前には一本の街灯。まだ明かりの灯らないその下で、門を守るのは一人の女性。私は小さくお辞儀をする。
「お疲れ様です、ケルベロスさん」
「また来たのか」
「また来ました」
今日は彼女が当番だから当たりの日。
私はリュックからレジャーシートを出して場所を整える。
「また居座るのか」
「また居座ります」
彼女は嫌そうな顔もせず、まっすぐ前を向き、また仕事に集中する。それが心地よい。
話しかけてもこないし、追い払いもしない。これがベスト。
明るさと暑さに勘違いしてか、まだ蝉はやかましく鳴いている。私はレジャーシートで膝を抱える。
「テストで悪い点を取ってしまいました」
「何点だ」
私のつまらない独り言に彼女は応えてくれる。だから、答える。
「九十点です」
「それは悪いのか?」
「認めてもらえる点数ではありません」
「そうか」
興味があるのか、ないのか。それでも、彼女が私の話を遮ったことはない。
時間は過ぎていく。私は門を見る。
「開かないぞ」
彼女の言葉に舌を出す。
「バレましたか」
「お前のことなんぞお見通しだ」
「あの日と違って、ですね」
彼女が渋い顔を見せる。
「もう二度と飛び込もうとするなよ」
「約束はできません」
「向こうは冥界だ。生者が望んで向かう場所ではない」
「私は望んでいます」
「そうか」
否定でも、肯定でもない。ただ、あるがままに。
鞄の中でスマホが震える。私は何もしない。ケルベロスさんも何も言わない。
くぐもったバイブ音が虚しく響き、やがて、静かになった。
「帰りたくありません」
「ああ」
「冥界に行かせてください」
「できない」
その答えは当然で。
彼女はケルベロス。冥界の門を守る者。
死者を外に出してはいけない。生者を中に入れてはいけない。
腕のこそばゆさで我に返る。蟻が手首に這っていた。つまもうとしたら、潰してしまった。指に黒い死体が残る。
「弱肉強食って言葉、知ってますか?」
「日本の四文字熟語だな」
彼女のしたり顔が愛らしい。暗い気持ちを晴らされたのが悔しく、私はわざと顔をしかめる。
「弱いものは死ぬ」
「そうだな」
「なのに、弱い私はどうして死ねないのでしょう」
この質問は昔誰かにもしたような気がする。ああ、そうだ。今はもう会うこともないあの子だ。親友だったあの子は言った。
――それは
私はその子と縁を切った。
どこか縋るような思いで、私はケルベロスさんを見上げる。
「私には分からない」
放たれたその言葉に私は微笑んだ。
そう、これくらいがいい。目の潰れるような希望に溢れた答えなんていらない。
私はリュックからチョコレートの袋を取り出す。
「食べますか?」
「いただこう」
彼女は背丈と同じ大きさの槍を持っている。私はいつも通りチョコレートの包みを取る。
彼女が口を開ける。鋭い犬歯が並んでいる。彼女は人間ではない。冥界に住む、違う種族の生き物なのだ。
私は彼女の口に、ぽんっ、とチョコレートを投げ込む。薄い唇が閉じた。
「新しい味だ」
「おいしいですか?」
「歯磨き粉の味がする」
「私とは気が合わないですね」
ここは生と死のはざま。
生きることを強要される死にたい日常から目を逸らせる、たった一つの場所。
まだ、息がしやすい。
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