第2話:死者

 私の家系は皆ケルベロスだ。だから、門を守る。ただそれだけのこと。

「ポルト」

 名を呼ばれて振り返る。こちらに手を振るのは、昔馴染みのシェーンヌだ。今は私の上司にあたる。私は立ち上がり、深く礼をする。

「やめてよ、友人に向かってそれはないでしょ」

「ですが」

「職務中じゃないからいいの」

 彼女は断りもなく、私の前の席に腰を下ろす。

「配属、もう告げられた?」

「いや、まだだな」

 この夏で新人研修を終える私は世界各地にある冥界の門のいずれかに配属される。

「都市部がいいの?」

「当然だ」

「やっぱりエリートは違うね。わたしはここで大満足」

 長くこの寂れた土地に勤めているシェーンヌだが、不満は一つもないらしい。彼女に向上心がない。

 なじみの鐘の音がスピーカーから流れる。機械的なアナウンスがある人間の死を告げた。

「うわ、事務手続きしなきゃ」

 シェーンヌが苦々しく呟く。死者に対する手続きは年々煩雑化している。

「そういえばポルト。あの子、死んだ?」

「いいや」

「そう。不思議ね」

 大きな欠伸と共に彼女は言う。

「死にたいなら、死ねばいいのに」

 返答に迷った。シェーンヌにとってその話はさして興味もなかったようで、私が黙っている間に別の話題に移った。

 時計を見て私はシェーンヌと別れる。武器庫から槍を取り出し、門へ向かった。


「毎日お疲れ様です」

 夕暮れ時、今日も彼女はやってきた。まだ、生きている。

 死にたい人間は死ねばいい。私もシェーンヌと同じ意見だった。彼女と出会うまでは。

「今日も居座るのか」

「今日も居座ります」

 儀式のような会話を終えると、彼女はレジャーシートの上に腰を下ろす。

 短くとぎれとぎれに言葉を交わす。彼女は沈黙に気を悪くする様子はない。

 しばらくすると、いつものように彼女の鞄から鈍い音が鳴る。

 その間、彼女は一言も発しない。発することができないのだろう。

 苦し気な呼吸。まるで溺れているかのような息遣い。時に混ざるえずきに彼女は口元を押さえる。

 音が止んだ。しばしの沈黙の後、彼女はチョコレートの袋を取り出した。

「今日も歯磨き粉か?」

「あれはチョコミントって言うんです」

 違和感。背筋が震える。門が開く。

 僅かな隙間だ。それでもあれらにとっては十分すぎる。

「下がれ!」

 私は力任せに彼女を突き飛ばす。

 悪臭を放ち、門から滑り出てきたのは冥界に住まう死者だ。いや、もはや人間の形を失ったただの妄執。

「はああ!」

 槍を振りかざす。ケルベロスに与えられた武器はその身に死者を焼き尽くす力を宿している。

 泥人形のような妄執に火が付き、瞬く間に炎が回る。

 だが、それは諦めない。生への執着を捨てきれない化け物は、私の後ろを目指し、這い回る。

 狙いは少女だ。

 槍の柄を持つ手に力が入る。敵を見据える。狙いを定める。一点を目掛け、槍を突き出す。

 ぐちゅり、と湿った音が響いた。

 核を貫かれたそれは動かなくなった。やがて、炎に焼かれ、灰になって消えた。

 耳を澄ます、目を凝らす、感覚を研ぎ澄ます。もう死者の気配はない。ケルベロスとしてやるべきことはやった。

 だが、掠れた息が聞こえた。痙攣した華奢な体が目に入った。血の気が引くのを感じた。

「大丈夫か!」

 彼女に駆け寄る。黒い泥が彼女の肌を濡らしている。死人の血だ。

 私は羽織ったマントを引きちぎり、それを拭き取る。

 死人の血は人間にとって毒だ。彼女は掠れた息を繰り返し、縋るようにこちらに目を向ける。

「ポルト!」

 聞こえたシェーンヌの声に私は振り返りもせず言う。

「門を守っていてくれ」

 少女を抱き上げる。

 水が欲しい。死者の血を洗い流すことができる大量の水が。だが、私は人間界を知らない。

 無知な私は少女に尋ねる。

「お風呂……」

 彼女はか細く答えた。

 指定された場所に私は足を向ける。彼女の指示のもと、全速力で風を切る。

 たどり着く。ドアを叩く。叫ぶ。

 出てきた家人を無視し、私は彼女を風呂場に押し込んだ。


 黒い血が排水溝へ流れていく。少女の呼吸も安定してきた。

 肉付きの良くない白い肌は、私が強くこすったからだろう。赤く炎症を起こしている。

 シャワーは流れ続ける。私は僅かに残ったしつこい汚れを落とす。

 ――気持ち悪い。

 外から人間の声が聞こえた。

 ケルベロスは人間に忌避されるものだ。今さら何を言われたってかまわない。

 だが、違った。

 男二人と女一人が口々に言葉を吐く。

 ――ケルベロスに助けられるって姉さん何したの? ありえないよね。

 ――明菜は本当にどうしようもない出来損ないだから。

 ――隆也とは違ってね。

 私の手は止まっていた。

 小さな嗚咽が耳に入る。少女が泣いている。

 彼らの会話が聞こえたのだろうか。だが、人間にそこまでの聴力はないはずだ。

「痛むのか?」

 私の問いに彼女は首を横に振る。

「……死にたくないと思った」

「え」

「一瞬でも死にたくないと思った自分が、情けない……」

 小さな肩を震わせる。

 ――死にたいのなら死ねばいい。

 残酷な言葉だ。

 彼女は心から死を望んでいる。彼女の言葉に嘘偽りは見当たらない。

 だが、死ねない。生物に備わる本能のせいか。

 生にも死にも心を乱され苦しむその姿に、私は目を伏せる。

 何も言わずに、その背をさすった。


 少女の家族は私に何度も礼を言った。私が家を出ると、少女を怒鳴りつける声が聞こえた。

 ――冥界に行かせてください。

 それが彼女の願いだ。それでも、私は門の中に彼女を招くことはできない。

 彼女。

 そういえば、アキナ、と呼ばれていた。

「アキナ」

 声に出さず、口を動かした。不思議な響きが私の胸に広がった。


 門前では、複数のケルベロスが巡回していた。

 私は今更ながらに職務より彼女を優先したことを後悔する。私はケルベロスであるというのに。

 戻った私にシェーンヌが怪訝な目を向けた。当然の反応だった。

 だが、これでよかったのだと思う私もいる。

 アキナが生き延びたのだから。


 翌日、私は部長室に呼ばれた。

 告げられたのは解雇ではなく、次の勤務先だった。

 それは、最も重要とされる都市の一つで、研修終わりの新人が配属されるような場所ではない。

 戸惑う私に部長は笑顔を見せる。

「人間への慈愛。それはこれからのケルベロスに必要なものだ。君の行いは正しかった。胸を張りなさい」

 私は部長に礼をし、部屋を出た。

 

 人間への慈愛。そんなものはない。

 私は死にゆくアキナを見たくなかった。

 ただ、それだけだった。

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