あだ花

十余一

あだ花

 薄日が差す教室で彼女はひとり、窓の外を眺めていた。学び舎の景色は季節と共に移ろう。芽吹き、実り、そして枯れる。つぼみがやがて花開くように、わたし達も否応なしに変わってゆく。変わらなければならない。止まることも留まることも許されず、いつかはこの箱庭を去るのだ。

 一つまた一つと減っていく椅子。その順番が彼女に巡ってきたという、ただそれだけのことだ。大切な学友は最後の日に何を思うのだろう。邪魔をしてはいけないときびすを返そうとした瞬間、振り向いた彼女と目が合った。

「あら、菊枝きくえさん。いらしてたのね」

「あの……、ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

 気まずそうに謝るわたしに、彼女は微笑みを浮かべわずかに首を傾ける。そしていつもと変わらぬ優しげな声色で誘うのだ。

「そんな所に立っていないで此方こちらへいらっしゃい。少しお話をしましょう」

 言われるがまま、わたしは彼女の隣へ腰かけた。

 開け放たれた窓から穏やかな風が吹きこむ。女生徒の華やかな声で満たされる教室も、今はふたりぼっち。彼女は普段と変わらない調子で、でも大切な思い出たちを愛おしく撫でるように語り始めた。

 金栗先生に教わった庭球テニスで白熱してしまったこと、高峰先生に借りた化学の本が面白くて夜更かししてしまったこと、大切に育てていた牡丹ぼたんが無事に咲いたこと、今週の女学雑誌に掲載されていた和歌が素敵だったこと。わたしの脳裏にも鮮やかに蘇る。太陽が照らす庭球場テニスコート、眠そうな横顔、二人で水をやった花壇、肩を並べて読んだ雑誌。

 そんな他愛もないことを話していると、まるで明日からも彼女が登校してくるかのように錯覚してしまう。やがて日は暮れ、あなたのいない朝がくるというのに。ふと視線を逸らすと、白墨チョークの軌跡ひとつない黒板が目に入る。それはまるで学び舎でえがいた思い出まで消し去ってしまったかのようで、まなこの奥に痛みが走った。

 彼女はひとしきり話し終えると、最後に、静かに呟く。

「……、お手紙書くわね」

 少し震える声で「……わたしも」と返すと、彼女は両の手でわたしの頬を優しく包んだ。まっすぐに向かい合い、彼女の栗色の目にわたしが映る。

「教えてちょうだい。貴女あなたが見たもの、感じたこと、考えたこと全て。私も書くわ。そうしたら私たち、お互いの目を交換したようになるのよ」

 そう言って彼女がいたずらっぽく笑うから、わたしも笑みをこぼして返した。

「離れていても、隣にいなくても、ずっと同じものを見ていられるのね」

「そうよ。素敵でしょう」

「素敵ね……、とっても、素敵」

 歪む視界の中で、彼女のてのひらの暖かさだけがじんわりと伝わってくる。

 この目に映るあらゆるもの、この肌で感じるすべてを分かち合いたい。この学び舎で共に得るはずだったもの、喜びも楽しさも驚きも、ことごとく。夏の暑さ、冬のにおい、秋の美しさ、春の花。ひとつだって逃したくない。

「季節が巡るたび押し花を送るわ。牡丹も、金木犀も、椿も、桜も、ぜんぶ」

「ありがとう。楽しみね。私も庭の花を押し花にしようかしら」

「授業のことも書くわ。化学は苦手だけれど、がんばる」

「嬉しい。高峰先生のお話はどれも面白いもの」

「雑誌の感想も書き合いましょう」

「いいわね。それから、貴女が好きそうな小説を見つけたら送るわ」

 彼女の目はどこまでも清く、優しく、まっすぐにわたしを見据えている。そこにはほんの少しの嘘もありはしない。共に学んだ友としてこれほど嬉しいことはないはずなのに、すばらしい人と友になれたと誇りに思わなければいけないのに、わたしの心は暗く沈んでいる。

――あなたはきっと、わたしの知らぬ殿方に頬を撫でられ、優しげな眼差しで貫かれ、愛を育まれるのでしょう。

 そう考えて、わたしは心の奥底にくすぶる仄暗い気持ちに初めて気がついた。大切な友人と離別する悲しさだけではない。離れてゆく彼女を恋しく思う気持ちと、顔も知らぬ男に対するねたみ。重く熱く、よどんだ感情が、心の一番やわらかいところで渦巻いていた。

 わたしはこの実らない想いと共に、箱庭に置き去りにされてしまう。そしてわたしもまた、いづれ、いだいた気持ちを残したまま箱庭を去るのだろう。自由を謳歌する青い春はほんのひと時で終わり、わたし達はあっという間に大人になってしまう。指の間から水がこぼれ落ちるように、大切なものを失いながら進む。きっとこの場所には、そうして取り残された心がいくつも転がっている。

 ひとみにじんだ恋心がこぼれ、彼女の指先を濡らした。涙をそっと拭う優しさに、また愛おしさがあふれる。離れたくない。その栗色の眼にわたしだけを映していて。わたしの前からいなくならないで。今になって、幼子おさなごが駄々をこねるように心が暴れだす。叶わない願いばかりが滑り落ちてゆく。落ちて弾けて転がって、それでも消えない。

 わたしは頬を包む彼女の手に自分の手を重ね、学び舎を去る恋しい人の幸福を願った。

「さようなら、桜子さん。どうか幸せになってね」


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