第15話 現場
* * * * *
「そこの交差点を右折だ」
「うん」
国道三号線沿いに、埴山まで車を走らせる。助手席に座った父が上級者気取りでこまごまと指示をしてくれるのが、少しくすぐったく感じられた。
伯父の声がまた聴こえたことは、悩んだあげくまだ話していない。
僕自身にしてもまだそれが実際に起きたことだと確信できていないのだ。生物学という、霊的なあれこれとはむしろ真逆と思える学問に携わる父に、それを伝えるのはひどくためらわれた。
(これはそういうんじゃない……何か、科学かその延長線上で説明がつくはずなんだ)
僕自身は、文学部に籍を置いている。アジアの歴史の中で近隣諸国の文化や芸術が相互にどのような影響を与え合い、如何なるイメージの世界を作り出してきたか――そんな視点から個々の作品にフォーカスしていく講義は楽しく胸躍るものだが、いざ実生活や何ごとかへの対処となると、どうにもだ。
疫病の流行に振り回された社会の先行きを読み解くには、たぶん人類のこれまでの歴史の中に示唆的な事例が多々あるだろうし、そこからは普遍的で有用な叡智をも引き出しうるのだろうけれど。
一介の学生にとっては、丸太を前にしてカッターナイフ一本を与えられているような頼りなさばかりがある。
対向車線の向こう側に、曇天を映して鉛色に輝く水面が見え隠れしていた。
赤田池と呼ばれる、湖水というか大きな池といった感じの場所で、昔は貸しボートを繰り出しての水上散策が行われていた。ここを過ぎれば埴山はもう、目と鼻の先だった。
香苗はこの前と同様、鉄扉の前でこちらに手を振って待っていた。
車を門の前のスロープ下に付けて停めると、彼女は足元に気をつけながらこちらへ降りてくる。
足ごしらえについての父の助言をどう解釈したものか、今日のいでたちは鮮やかな赤のスポーツウェアにやや着古した重めのジーンズ。足元は防水タイプのハイキングシューズで固め、赤いラインの入った白いスポーツキャップを深めにかぶっていた。
少し大きめのリュックサックは、僕の家に泊まるための用意だろう。
「お久しぶりです、保弘叔父さん」
「ああ、一年ぶりくらいだったかね?」
身をかがめて車の後部座席へ滑り込みながら、香苗が父と挨拶をかわす。
「はい。その節はいろいろお世話になりました、ホント助かりました」
「うんうん。そろそろ一周忌だなあ……お盆もあるけど、どうしたもんか」
個々の家にもよるが、熊本では旧暦に合わせて八月に盆供養を営む事が多い。伯父の命日も八月なので、短期間に法要二つが重なることになって少々煩雑になる――だが、父の思案の中心はもう少し違うところにある様子だった。
「兄さんの家か、この近くの
「……私も、ちょっと迷ってます」
そんな会話を聞きながら車を発進させる。この辺りの路地はちょうど「申」の字を描くようにめぐらされていて、道なりにハンドルを回して走り抜ければ、すんなりと幹線道路に出られるようになっていた。
「父が死んだというのが、未だにきちんと実感できてなくて」
「そっちかよ――」
意外な言葉に失笑を漏らしかけるが、その笑いは僕の喉辺りですぐにしぼみ枯れて、空咳のような吐息に変った。
なぜって、考えてみれば――現に今、僕たち三人は伯父が残した判じ物のような形見と、そこに込められた何らかの意思に動かされ、あるいは振り回されているではないか。
笑える余地など、どこにもないのだ。ましてや僕自身は二度も、ラジオからのあの
「……まあ、とにかく急ごう」
「よしの窯」の店舗は電話番号を手掛かりに、既に行き先登録を済ませてあった。カーナビの指示に従って走り出し、まずは三号線へ出て右折――その直前、目の前を猛スピードの軽ワゴン車がかすめて走り去さった。
その一瞬、スモークフィルムを張った左サイドウィンドウ越しに、車内にいた人影と目があった気がした。
(……三橋!?)
「何だ、あの車。えらく飛ばすなぁ……」
助手席からワゴンを見送った父が呆けた声を上げる。
「ありゃ、七十キロ超えてるぞ」
滅茶苦茶だった。この区間の制限速度は四十キロなのだ。
車中にいたのは確かに三橋だった。すなわち、あれは応現雷天院の車だ。それが、僕たちが向かいつつある方角からまるで何かから逃げるようにアクセルを踏んで走ってきた――良くない予感がさらに膨れあがる。
(なにをしてるんだ、三橋は)
かつて見知った、そしてひどく遠いものになった眼差しがまぶたに浮かんだ。
車は幹線道路をいつしか離れ、低い山沿いの一車線道路に踏み込んでいく。道路を挟んだ北側の丘陵に神社の古い鳥居が見える、水路沿いの一角に差し掛かると、カーナビが目的地付近への到着を告げた。
車三台分ほどの手狭な駐車スペースがあり、ニス仕上げの木造壁に大きな引き戸をしつらえた店構え。軒下には古木の根元を斜めにスライスしたものらしい、不規則な雲形をした看板が掲げられて、「よしの窯」という筆文字がくろぐろと躍っていた。
引き戸には内側から変色したブラインドが下ろされている。車を降りて引き戸に手をかけるが、固く施錠されていてびくともする様子がなかった。
「こりゃ、本気で留守なのかな」
いったい何が――そう言いかけたとき、父がすたすたと駐車奥へ歩を進めた。
「思い出したよ――以前に来たときに、ここを通ったんだ。中庭へ行ける」
太い孟宗竹を縦に割って並べた造りの目隠し壁があるのだが、どうやらその一部が門扉のように細工されて開閉するようになっている。
父に続いて中庭に足を踏み入れる。だが、僕はすぐに父の背中にぶつかりかけて足を止めた。僕の位置から見えないところにある、何かを見て固まっているようだ。
――なんだ、これは。
半歩脇にずれて、僕もそれを見た。
滅茶苦茶に踏み荒らされた玉砂利と、その上にぶちまけられた赤い液体。植木鉢が横倒しにいくつか転がった
庭の奥にある母屋の縁側は開け放たれ、古い木枠のガラス戸が一枚粉々に破られている。ここで何らかの凶事が起きたのは明らかだった。
今はもう、空にいない 冴吹稔 @seabuki
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