後編


 出会ってから半年ほどたったころ、一緒に住もうか、と、優希に訊いたことがある。優希は、すこし驚いたような顔をして、わらって、俯いた。

 嬉しい、そうしたい、すごく。でも、いまのままでいい。

 どうして。きっと、楽しいよ。暮らしも、よくなるよ、いまより。

 うん……そうだね。でも。

 そういい、優希は、わたしの目をみた。

 ……こわいんだ。わたしが、ぜんぶ、壊しちゃうのが。

 壊れないよ!

 小さく叫んで、優希を抱き寄せた。わたしと同じシャンプーの香り。

 優希はわたしの肩に顔をうずめて、うん、と頷いた。

 ……ごめん。考えさせて。

 わたしはその時、それ以上はいわなかったし、その話題はあれから一年近く経ったいままで、いちども、ふたりの間で出なかった。


 互いの部屋を行き来するくらしが、それからも続いて。

 そういう日々があたりまえになったころ。


 三日前の夜。

 わたしの部屋で、わたしは、優希に頬を打たれた。


 優希は夜のしごとが休みだったから、二人で食事をしていた。

 優希が用意してくれたラザニアをつついて、ひとびん七百円のワインをふたりで飲みながら、わたしは、十日ほど胸にしまっておいた話題を、出したのだ。

 はじめは笑いながらわたしの話をきいていた優希の表情が、驚きに変わった。

 ……え。どういう、こと……断った、って……。

 わたしは、酔いもあったし、なにか誇らしい気持ちもあって、鼻歌でも歌いたい気分で優希に説明したのだ。

 うん、たしかに大学にはずっと戻りたいって思ってたし、研究本部の室長補佐っていう内示、すごく評価されてるなあって感謝してる。でも、きっぱり断ったから。

 ……どうして。なぜ、断ったの、そんなすごいお誘い……ときどき言ってたじゃない。いつか大学に、って……。

 だって、東京だもん、大学。優希と離れ離れになっちゃう。それとも、いっしょに行ってくれる?

 わたしは冗談めかしてそういってから、優希が涙を浮かべていることに気がついて、慌てた。その涙が嬉し涙でないことくらいは、鈍いわたしでも容易に理解した。

 えっ、なんで……。

 優希はこたえない。ずっと遠くをみるような表情で、くちを薄くひらいたまま、泣いている。

 わたしはどうして良いかわからず、戸惑い、テーブルの向こうにまわって、優希を抱きしめようとした。いつものように、身体の温度で、涙を埋めようとした。

 が、拒否された。

 優希はわたしの肩をどんと突き、かなしげに眉を寄せて、首を振った。

 わたしは苛立って、もう一度、今度は強く、優希の肩をつかんで引き寄せた。

 あらがう優希を、強く抱きしめた。それでも優希は逃れようとし、それを、なお強く強く、縛り付けた。

 もがいて、優希は、逃れた。

 逃れて、それでも手を握ろうとするわたしの頬を強く、打った。


 優希はそのまま部屋を出て、それきり、会っていない。


 昨日の夕方、通信アプリの着信があった。

 明日の夜、最初に会った日とおなじ時間に、お店にきて。


 今夜、わたしは、いかなかった。


 優希の店からわたしの携帯に電話があった。ママからだった。

 十一時頃、急に店を飛び出したんです。泣いてたし、様子が変で。携帯にも自宅にも電話したんですが、出ないので、優希から聞いてたあなたの携帯に……。


 携帯を切ってすぐに車をだした。


 国道には、いなかった。

 いちど車を路肩に寄せて、ハンドルに両手をかけ、頭を載せる。

 優希。どこにいったの。優希。


 わたし、メデューサだから。

 ばけもの、だから。

 優希の声が脳裏に反響する。


 消えないで。

 わたしの、優希。

 消えないで。

 お願い。


 ……会いに、きてるんだ。

 あと、謝りに。


 ふいにその言葉が浮かんだ。

 ギアをいれ、アクセルを踏む。

 漁港の西端、突堤の端部。岸壁の、車で入れるぎりぎりまで進み、エンジンをかけたまま、ドアをあけて走り出した。

 

 突堤の先端。

 ちいさな、点があった。

 走って近寄り、それでも、十メートルほど手前で、いちど止まった。

 ゆっくり、ゆっくり、近づく。


 優希は、ワンピースのまま、海に向かって、膝を抱いていた。

 みぞれはやんでいたが、雨足は強くなっていた。

 おおきい水滴が、容赦無く、優希のながい髪を叩いている。


 優希は、振り向いた。

 震えながら、こわばった顔でなにかの表情をつくろうとしていた。

 微笑しようとしている。

 なにかを、いった。

 声がでない。それでも、くちの動きで、わたしは、わかった。

 ごめんね、でも、もう、壊したくない。


 薄いガラスにふれるように、優希の肩を、ゆっくり、抱いた。

 冷たい身体を、できるだけおおきく、包んだ。

 雨が強い。

 雨が、止もうとしない。


 優希は三日ほど入院した。

 退院したあと、部屋に戻らなかった。

 ずいぶんたって、業者が荷物を引き上げにきたようだった。


 わたしは、メデューサ。

 わたしこそが、メデューサ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メデューサの失恋 壱単位 @ichitan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画