メデューサの失恋

壱単位

前編


 十月にはいってから、急速に気温が下がった。


 だから、夕方から降りはじめた雨にみぞれが混じったとしてもなんら不思議ではなく、むしろ当然といえる。

 それでもわたしは、どうしてこんなときに、と、天をのろった。


 ワイパーの縁に白い粒がたまってゆく。国道のオレンジ色の街灯に照らされ、あるいはすれ違う車のヘッドライトに貫かれ、さまざまな色に染まってゆく。カクテルみたいだ、と、ちらと脳裏に浮かんだ連想を打ち消した。


 五十キロ制限の片側二車線の区間、その左側車線を、二十キロほどで走っている。他の車に迷惑になることはなかった。この町は通行量が多くはない。ましていまは、零時を回ったところで、おまけに、雨だ。

 この町は十九時には眠りにつく。飲み屋街ですら、風営法の営業時間規制を待つまでもなく、二十二時をまわったころにはあかりがまばらになってゆく。

 そんな町で、寒い雨の夜に外出するものは多くない。さきほどからすれ違う車も、ほとんどがトラックであり、それも五分に一台ずつほどだった。


 歩道を目で追ってゆく。歩道の奥に伸びる側道、漁港に通じる細道も、目を凝らして、伺う。

 倒れているのではないか。

 歩道に、座り込んでいるのではないか。

 もう一時間ちかく、探している。ゆくところはないはずだ。お店の方には戻れない。ならば、国道を逆方向に歩くしかないと見当をつけ、探している。


 優希ゆうき。優希。

 無意識になんども名前を呼ぶ。

 ハンドルを握る手が、震える。


 気温は、五度を切っていた。

 優希はお店にでるかっこうをしているはずだ。薄いワンピース。コートは持って出たのだろうか。お店からの電話を受けた時に聞いておけばよかった。

 いや、そんなものを着ていたとしても。


 わたしは今夜、店に呼ばれていた。

 出会ったときとおなじ、二十二時が指定された。

 そうして今日は、あの日とおなじ、雨。

 真っ暗な空に、残酷を感じた。


 店にゆくべき時刻まで、わたしは、職場にいた。

 しごとはいくらでもあった。大学の研究施設といえば聞こえはよいが、ちいさな出先である。港にちかいビルにちいさなテナントを借り、わずか三人でまわしている。書類はいつでも溜まっていたし、道具の整理も、終わりはなかった。

 店にゆけなくなる時刻まで、優希への気持ちが行方不明になるまで、手を動かし続けることは容易だった。


 わたしと優希は、店で出会った。

 あの日、大学本体からやってきた教授たちが、夜遅くまでの打合せの後、飲みたいと言い出し、この町としては遅い時間だったから『みふゆ』くらいしか案内できなかったのだ。以前に仕事をした地元の建設コンサルタントの社員と入ったことがあり、そのちいさなスナックを知っていた。

 季節は春先だったが、冷たい雨が降っていて、小走りに店に入ったと覚えている。

 そこに、優希がいた。


 それぞれ席に案内され、おしぼりで雨をぬぐっていると、わたしのところにも優希が挨拶にきた。

 極限寒冷地における構造耐性の検証、と、優希に自分の専門を紹介したときには、彼女は大きな目をぱちくりさせて、なんどかくちのなかでその言葉を反芻し、うむ、おぼえた、たいせい、たいせいね、と、大きな笑顔でひとりで頷いた。

 その笑顔が、店の隅で時間が過ぎることだけを祈っていたわたしの緊張を解き、手元のグラスをくちもとに運ばせた。


 優希は、ママとあわせて三人だけの店内で、忙しく動いていた。背はわたしよりすこし高いくらいか。長い髪。編み込んでいるが、腰のうえあたりまである。それを揺らしながら、教授たちの下手くそなカラオケを盛り上げ、水割りをつくり、やがて客たちが酔って職場の愚痴の言い合いになったころ、わたしのほうへ戻ってきた。


 年齢は、わたしとおなじほどだった。この町で生まれ、出てゆき、戻ってきたのだという。結婚はね、壊れちゃった、と、笑った。

 わたしはいちども結婚したことがない。仕事柄、職場以外での出会いの機会が少なく、それに、わたし自身もそこまで積極的ではなかった。

 男性に、興味が薄かったのだ。

 ひたすら点数だけを求めていた中学、高校のころから、目で追っていたのはむしろ、可愛らしい級友、女子たちだった。自分にないものを持つ、柔らかく、艶やかで、儚げなすがたに、憧れた。

 それでもあえて、そちらの道に踏み出すこともなく、かといって男性に拒絶をもっていたわけでもないから、何人かと付き合い、しかし結婚には至らず、別れた。最後はいまの職場に採用されたときで、転居が必要だったから、男より仕事を選んだかたちとなった。


 あの日はそこまで詳細には説明しなかったが、男性よりも女性をみていたと、多少の酔いもあってくちが滑ってしまい、わたしはしまったと優希の顔をみた。

 優希は、微笑していた。そうなんですね、うん、そういうのわかります、と相槌をうち、水割りのおかわりをすすめてきた。


 その日は二時間弱ほど店にいて、解散となった。雨はあがっていた。店の外まで、ママと優希が見送りに出てきた。

 優希は、わたしのそばまでやってきて、またきてくださいね、と、名刺を手渡した。あとで裏面を見てみると、携帯の番号と、通信アプリの連絡先が書いてあった。


 再会したのは偶然で、連絡をとったわけではなかった。

 わたしは増加してきた体重を気にしていたから、ある朝、ウォーキングをはじめる決心をし、海をながめながら海岸沿いの町道を二キロ歩くこととしたのである。アパートは職場にも港にもちかい場所にあったから、それは合理的な考えだった。

 やすい衣料品店で買ったジャージを着て、歩き出す。


 春先の日差しを海がうけて、無数の光の粒に変換する。

 光の粒は、そらに戻ろうと、むらがって踊る。

 わたしは、海を見るのが好きだった。

 大学で、海洋学でも、海洋生物学でもなく物理を専攻したのは、海とひかりの関係に携わっていたかったからかもしれないと、なかば真面目に考えていた。


 歩き出してしばらくすると、突堤のところまで来た。

 肘をふってリズムよく歩いていたが、ふと視界にくろい点が飛び込んできて、足をとめた。

 点は、男性のようだった。

 男性とおもったのは、男もののコートを被っていたからだ。

 突堤の先端で、海にむかって、おそらく膝をかかえて、小さく座り、コートをあたまから被っている。

 いちど通り過ぎたが、戻った。その理由はあとからどれだけ考えても、わからない。

 ちいさなフェンスをすり抜けて、突堤に踏み込む。二十メートルほどさきに、点だった人影は、たしかに膝を抱えて座っていた。

 人影は、男性ではなかった。


 こんにちは。

 最初に声をかけたのは、人影のほうだった。

 近寄ってくるわたしに気づいて、振り返り、顔をあげ、わらって、挨拶をした。


 優希は、男もののコートを被って、ちいさなサンドイッチの包みと、コーヒーの缶を膝のあいだに抱えていた。

 その瞳があおを帯びているのを、そうして髪がすこし栗色がかっているのを、わたしはこのときはじめて知った。

 店で会った時には、わからなかったのだ。


 ……こん、にちは。

 わたしもおなじことばを返して、どうしてよいか分からず、数歩近寄って、となりに立った。そのまま、腰を下ろす。膝をかかえて、優希とおなじ方向を見る。


 ここで、なにをしているの?

 わたしはそう言ってから、しまった、と思った。

 海をみていた、としか、返しようがない。

 わたしは、相手にあわせた会話をすることが苦手だった。子供のころからだ。性格もあるし、これまで理解と解決とを前提にしたやりとりしか、訓練してこなかったためでもある。

 しかし、優希のこたえは、予想を裏切った。

 会いにきてた。

 あと、謝りに。

 そういい、手元のコーヒー缶を持ち上げ、気がついて、わたしに渡せるものがないかを手元に探ったようだった。未開封のサンドイッチしかなかったから、それを持ち上げて、申し訳なさそうな顔をして、わたしに示した。

 わたしは手をふって、わらって断った。


 ねえ、ここはよく来るの?

 わたしが問うと、優希はこくんと頷き、膝の間にあごを埋めた。

 あたし、昼のしごともしてるから。両方のおやすみが重なるときは、いつも来てる。あなたは? ランニング、してたの?

 いやあ、そこまでは。太ってきたから、ウォーキング。海沿いで。そうしたらたまたま、あなたを見かけて。

 わたしが返すと、優希はふふっと笑ってわたしの肩に手をおいた。その笑顔と肩に触れた感触に、身体の芯が振動したことを感じたが、そしらぬふりをした。

 ええ、ぜんぜん太ってないよ。あたしこそ最近、やばいんです。お店のお通し、あたし作ってるんだけど、残ったら食べちゃうから。

 へえ、あれ、あなた作ってたんだ。このあいだはあさりの甘露煮だったよね。すっごく美味しかった。

 そう? ふふ、ありがとうございます。よかったあ、あれ、自信なかったから。

 あれでかあ。いいな、わたしはお料理、ぜんぜんダメだから。

 ……おひとり、なんですよね?

 うん、そう。だからコンビニばっかり。

 ……よかったら今日、あたしのうち、食べにきませんか?


 他にもいくつかやりとりをして、たがいに映画と小説が趣味であり、さらに好みも重なることがわかってしまい、会ったのが二回目とは思えないほどに打ち解けて、そうして、誘いを断る理由がなくなった。

 断れないように、わたしが、会話を作ったのだろうかと、いまでも疑っている。


 優希の部屋は、わたしのものと大差ない、さほど上等とはいえないアパートの二階にあった。窓から、ちいさな繁華街のあかりが見えた。その日は暖かかったから、窓とカーテンを開けたまま、わたしは優希と、肩をならべていた。


 サブスクで、ふたりとも大好きだというファンタジー映画を流していた。もちこんだ酒は、さほど強いものではなかったが、優希も、わたしも、せっかく優希が用意してくれた食事にほとんど手をつけていなかった。


 ソファの前、ちいさな食卓にたがいの膝をつけるように座って、ソファの座面に背を預けて、並んでいる。


 映画は、ほとんどぜんぶのセリフを誦じるほど、なんども見ている。優希も、そういっていた。が、ふと横を見ると、彼女は泣いていた。泣けるシーンではなかった。少なくとも、わたしを含む、一般には。


 主人公が、たのしそうにわらう場面。

 そこで、優希は、泣いていた。

 たのしそうにわらうことで、彼女は、泣いた。


 意識せず、彼女の涙に触れていた。

 美しいとは感じた。が、自分のものにしたいと思ったわけではない。

 それでも、触れずにいられなかった。

 優希は、すこし驚き、それからゆっくり、わたしの手に自分の手を沿わせた。

 わたしの肩に、優希のあたたかい頬がのせられた。


 窓は、あいたままだった。

 照明は映画をみはじめたときから、消していた。


 仕事があったから、翌朝、日がのぼるころに優希の部屋を出た。

 彼女はわたしがうごいても、目をさまさなかった。

 なにか書き置きをしようかと思ったが、そのまま、出た。


 三日にいちど、会うようになっていた。

 わたしの部屋に来ることもあったし、店に寄ってから優希の部屋にゆくこともあった。

 わたしが料理をすることもあったし、わたしの部屋で優希がつくることもあった。

 わたしが上になることもあったし、そうではないこともあった。


 ねえ、どうして。

 ある夜、わたしのベッドの上で、優希が尋ねた。

 あの朝、誰に会いに来ているのか、誰になにを謝っているのか、どうして、訊かなかったの。

 わたしはこたえを考えたが、なにも浮かばなかった。だから、そのまま伝えた。わかんない。でも、訊かなくてもいいかなって、思った。

 優希はしばらくのあいだ、じっとこちらをみて、それからわたしの胸に顔をうずめた。

 あたし、メデューサ、なんだ。

 ばけもの。

 あたし、にんげんじゃ、ない。

 

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