三 花菖蒲 梅雨が明ければ(三)
ばさ、と大きな鳥の羽ばたきが雨音に混じった。
雨に濡れた翼を広げた大きな白鷹が、来訪を告げるように鳴いた。
白鷹は鋭い目線を常盤へ向け、鼻先を常盤へ寄せた。
この白鷹は
鎮守の白桜を密かに見守ってくれているのだが、最近は
「どうした」
白桜の丘を離れて何をしに来たのか、常盤が問う。
白鷹の嘴が開いた。
「
「何だって!」
水央は思わず口を挟んだ。
白桜は小高い丘の上に立つ巨大な枝垂れ桜。都の鎮守とされる塞ノ神だ。
そして白桜の傍には、現在水央のかわりに花守をしてくれている家中の武士たちがいる。白桜が襲われているのなら、彼らの身に危険が迫っているということだ。
常盤は水央を一瞥した後、冷静に問いを重ねる。
「何者だ」
「わかりませぬ。人でも霊獣でも、神でもありません。ただ、白桜の武士を襲っています。私ひとりではおそらく止められぬゆえ、急ぎお伝えに参った次第」
常盤は水央へ体を向けた。
「どうする」
「どうするって」
「家臣を助けに行くのかと訊いている」
「当たり前だ! 放っておけるわけないだろ!」
水央が即答すると、常盤は家臣に外出を告げてから術を発動させた。子供の頃から慣れ親しんだ杜の中に、水央は常盤とともに瞬時にやって来た。
緩い斜面と青葉を雨に濡らす桜の杜。見慣れた景色。
すぐここが白桜の丘だとわかる。白桜の周囲は拓けており、丘を囲むように鎮守の桜の杜がある。今立つのはこの杜の中だ。
水央は杜を飛び出して白桜を目指した。
杜を抜けた先に広がっていたのは、雨の中でも真っ白な花を咲かせている白桜の大木。そして白桜を守るように戦っている家中の武士たちの姿だ。
武士たちと戦っているのは、ぼろぼろの大鎧を纏った巨躯の人影だった。水央の二倍ほどの背丈がある。
あれが襲撃者のようだ。
「何だ、あれ?」
水央は思わず立ち止まり、遠くに窺えるそれを見上げた。
顔はわからない。凶悪な形相の赤い仮面をしていたからだ。
怒りに満ち満ちた形相の仮面には文様が入っていて、怖気を誘う気味の悪さがあった。異様なのは仮面だけではない。その頭から、大きな白い角が一本、天を突くように伸びていた。
まるで古の伝承にある
鬼神はその昔古清水を災厄に陥れたとされる怪物だ。伝承の中だけの存在だと思っていたのに。
「あれは……!」
水央と並んだ常盤が驚愕の声を上げる。
普段冷静な常盤の顔が、まるで信じられないものを見るように見開かれていた。白い顔からさらに血の気が失せている。
鬼神のようなものは大振りの刀を持っている。
巨体のわりに動きは鈍くなく、向かっていく武士たち数人を相手に一歩も引かない。それどころか、その巨躯で繰り出された攻撃は確実に武士たちを怯ませ、彼らを傷つけていった。
あのままでは犠牲者が出るかもしれない。
水央は腰に下げた刀の柄に手をかけ、丘を駆け上がる。
「待て、水央! 不用意に手を出すな!」
背後から常盤の制止がかかるが、止まるわけにはいかない。
殺意のなかった榊と戦ったときとは違う。実戦なんて、平穏な古清水では軍属にあっても経験するのは稀だ。
ちゃんと戦えるのか。不安が一瞬よぎるが、家臣を助けたい一心で怯まず走った。刀の柄を強く握りしめる。
雨に濡れる薄暗い丘を真っ直ぐ見据えた。
鬼神の襲撃から白桜を守ろうとして戦う武士たちが水央の瞳に映る。雨で滑りそうになる丘を一気に駆け上がった。
「若!」
幾人かが水央に気づいて、安堵や心配が混ざり合った表情を各々浮かべた。
「全員下がれ!」
鬼神も水央に気づいて、体をこちらに向ける。
相手の獲物は大きな刀。あの巨体で繰り出す攻撃をまともに受けるのは得策ではない。相手は
朱色の禍々しい仮面の貌が水央を捉え、巨体に似合わない軽やかな動きで水央に刀を振り下ろす。
水央は駆け抜けて初撃をかわした。
――戦える!
その勢いは水央自身を鼓舞した。
攻撃でできた隙を刀で打つ。が、大鎧に阻まれて鬼神の体にまで刃が届かない。
二撃目は鬼神の刀に遮られた。そのまま鬼神の剛力に押され、刀を弾かれてしまう。鬼神がそのまま反撃に移る。
突き出された鬼神の攻撃を刀で遮っても防ぎきれないかもしれない。水央は咄嗟に身を逸らした。薙ぎ払われた刀が耳を掠めかけた。鬼神はそのまま水央を追い詰めようと迫ってきた。
大柄な敵の肉薄に思わず気が怯む。怯みが体に伝わる。大量の雨でぬかるんだ芝生に足を取られて態勢を崩してしまった。
やばい、と思ったとき、鬼神はすぐ目の前に迫っていた。
雨に濡れた銀の刀が水央の視界いっぱいに広がる。
死ぬと思ったのと、腹部に激しい痛みが走ったのは同時だった。一気に力の抜けた体が、白桜の前に投げ出される。
背を打った衝撃より、腹に広がる痛みが激しい。
呻くと同時に、口の中に血の味が広がる。口から溢れた血が顎を伝った。
左手で腹を押さえると、生温かい血が手のひらを伝って溢れるのを感じた。立ち上がろうとする。流れる血とともに体温も体の力も流れて、とても動けそうになかった。霞みかけた視界に、鬼神がとどめを刺そうとこちらへ来るのが見えた。次の攻撃は避けられない。
――死ぬのかな……。
生きていること自体が罪だと、ずっと思って生きてきた。
子供の頃から強い武士に憧れていたから鍛錬も続けてこられたし、友人が増えるにつれ、楽しいと思えることはいくらでもあったのだけれど。
いつだって、あの雨の日の記憶が積み重ねたものを塗り潰してきた。
これ以上、何を積み重ねれば生きる意味が見つかるだろう。
もうわからない。
苦しいだけなら。
――厭だ。
厳しいだけなら。
――もう、厭だ。
それならもう、いいじゃないか。
死んでも。
「――違うよ、水央」
常盤の声が頭の中に響く。
距離は離れているのに、常盤の声が不思議と水央の傍で聞こえてきた。
「お前が今生きていることは、どうしたって変わらない。死からは誰も逃げられないように、――生きることからも、誰も逃げることはできない」
どうして常盤の声が聞こえるのだろう。
今目の前には、鬼神が迫っているというのに。
「どれだけ生きることに苦しんだとしても、その苦しみは、お前が生きているから感じられるんだ。お前が生かされたから感じるものなんだ」
突然、水央の周囲で真っ白な光が弾けた。
腹部がじんわりと熱を持つ。体から力を奪っていた痛みが一瞬で消えた。
「跳べ!」
常盤のかけ声で、反射的に横へ跳んだ。
背後で刀を振り下ろす音が聞こえた。
受け身を取って瞬時に身構える。水央を狙った鬼神は、刀を振り下ろした格好のまま固まっていた。
鬼神の体が、地面から伸びるいくつもの草木の蔓によって拘束されていたのだ。
丘の下方では、常盤が刀を手にこちらを見上げていた。
彼の術が鬼神を捕えているのだ。
「忘れるな、水央。お前は生きている。今、ここで生きているんだ! ――だから、覚悟を決めろ!」
常盤の叱責が水央の背中を強く打った。全身が震えた。
常盤の術で鬼神の体は拘束されたままだ。
水央は駆け、無防備な鬼神の腕に飛び乗った。
丸太のような鬼神の太い腕の上をそのまま駆け上がり、肩口で刀を突き出した。鎧で覆われていない首元を狙う。
――覚悟を決めろ、か。
本当は、わかっている。
――俺は、色んなものに真っ向からぶつかって、傷つくのが恐ろしいんだ。
――生きているからできる傷が、これ以上増えるのが厭なんだ。
――ただ生きるそれだけのことが、とてつもなく怖いんだ。
けれど。
水央は勢いのまま、肉薄した鬼神の太い首を貫いた。
覆い被さるように力をかける。鬼神を拘束していた蔓が鬼神から離れた。
鬼神が仰向けに倒れる。水央は刀に力を込めたまま、鬼神とともに地面に倒れ込む。鬼神が倒れた衝撃とともに刀を抜く。刀の構えは解かずに一度離れた。
まだ生きていることを警戒したが、起き上がる気配はない。
「若様!」
雨の中、白桜の武士たちが駆け寄ってくる。彼らはそれぞれに怪我をしていたが、そのほとんどが動けるようだった。
「戻ってきてくれたのですか!」
「若、大丈夫ですか!」
「水央様、さっき、怪我していませんでした? 傷は?」
彼らは口々に水央を労う。
「みんな、無事なんだな?」
水央は確かめるように武士たちを見回した。無事な姿を確認すると、深い息が零れて戦いの緊張が抜けた。
「怪我人を早く手当てしてやってくれ。後の始末は俺がやっておく。急いで屋敷へ」
武士たちはそれぞれ、比較的大きな怪我を負った者に手を貸し、自力で下れる者は先に行き、まばらに丘を下っていった。
水央がひとりになったところで、常盤が水央の傍へやって来る。傘をどこかに放ったせいか彼まで雨に濡れていた。
おそらくいつでも加勢できるよう身構えていたのだろう。
白鷹は常盤の傍を離れ、周囲の木へ降り立った。
倒れた鬼神の姿を再確認すると、途端に水央の全身から力が抜けた。その場にへたり込んでしまう。
「ここ最近で、一番疲れたぜ」
常盤は呆れたような顔をして腕を組んだ。
「どうして鎧部分を狙うかな。攻撃が通らないに決まっているだろ。あと、足を取られたのはよくない。どこで戦っても構えを崩さないようにしろ。敵の前で隙を作るな。戦場であんな怪我をしたら、普通生きて戻れないよ」
死にかけた後で戦いの粗をこんなにあげつらってくるとは、容赦がない。
「そういえば、術で助けてくれたよな。ありがとう」
傷を受けたとき、白い光が走って一瞬で怪我が治った。
傷や病を一瞬で癒す、
そして鬼神を留めた蔓。あれも常盤の植物を操る術だろう。
常盤の力がなければ全員無事に済ませることはできなかった。
命を、救ってもらったのだ。
「まあいい。初めての実戦にしてはまあまあかな」
常盤が表情を和らげる。
「もっと鍛えろ。お前なら、強くなれるはずだ」
――もっと強く、大きくなれよ、水央。
ずっと昔に聞いた父の言葉が水央の頭に中に蘇った。
――昔父上に直接鍛錬してもらった頃も、こんな感じで泥まみれになったっけ。
子供の頃は、泥と痣だらけになるまで父に直接鍛錬をつけてもらっていた。この家の跡継ぎとして、毎日毎日。
それが途切れたのは、あの八年前の雨の日から。
以来、水央は他の武士に付き合ってもらうかひとりで鍛錬をしてきた。屋敷で父と会わないように都で遊び歩くようになってからも、鍛錬自体は毎日続けてきた。
いつか父が水央を見てくれたとき、今度こそ勝つために。
結局、父に勝てたことは一度もなかった。
もう二度と勝てない。
越えたいと思った人は、もうずっと遠くに行ってしまった。
水央はその場に仰向けになった。もう全身が濡れているので、ぬかるんだ泥水を背に受けるのも気にならない。
髪や頬に、とめどなく雨が降りかかってくる。
――一回だけでも、勝ちたかったな。
目尻に雨粒がかかって、そのまま流れた。
水央が生まれたせいで母は死んだ。
水央は父から母を奪った。家族は壊れた。
だから父の姿を見るたびにとても後ろめたくて、疎まれるのが怖くて、真っ直ぐ父の顔を見られなくなった。
ここにいてはいけないような気がずっとしていた。
自分さえ生まれていなければと、今も思っている。
生まれてきたことがいけないのなら、何故自分はここで生きているのだろう。何故この世に生まれてきたのだろう。
あの日。
倒れる前、父は水央に何を伝えようとしていたのだろう。
どれだけ考えても、もうわからない。
――父上は死んだ。もう、死んでしまったんだ。
現実感が希薄だった心の内に、初めて胸に穴が開くような気持ちが込み上げてきた。
唐突に悲しいと思えた。
もっと話をすればよかった。
もう和解することも、昔のように笑い合うことすらできない。
父は水央のことが、きっと好きではなかった。
それでもいい。水央は昔の優しかった父を憶えていて、そしてその父のことが好きだったから。
水央の
仰向けになったまま、腕で軽く目元を覆って、水央は雨に混じって静かに泣いた。
それを、常盤がずっと見守っていてくれた。
その日の午後、雨は突然上がった。
厚い雨雲を割るように眩い日差しがあちこちから差し込み、何日かぶりの晴れ空を見せた。
白桜の枝や白い花は雨粒を滴らせ、白桜の丘を覆う芝や樹木についた雨粒が日差しを照り返してきらきらと輝いていた。
武士たちの中には重い怪我を負った者もいたが、命にかかわる怪我をした者はいない。彼らの怪我は常盤が、手持ちの薬で手当てをしてくれた。
常盤のことは昨晩世話になった友人で、腕のいい薬師だと家中の者には説明した。朝早くに水央を屋敷まで送り届けてくれたということにしておいた。
常盤が重傷者を含めた怪我人全員の手当てもこなしたうえ、唐突に白桜の丘に襲撃者が出たという件もあったから、彼のことはあまり不審に思われずに済んだようだ。
常盤の手当てのおかげで皆早々に白桜の花守に戻れるようになったのでひと安心だった。
常盤は鬼神と思しき襲撃者の遺体をこっそり持って帰った。
気になることがあるので詳しく調べたいらしい。
そちらの調査のことを常盤に任せているうちに、水央は正式にこの家の跡取りとなった。
宮廷で帝から直々に白桜の武家当主の座に任じられたのだ。そのお役目を拝領し、水央は武家の棟梁として郎党たちを率い、守っていく立場になった。
今までとそう大きく何かが変わるわけではない。
だが、今の水央の立場では、きっと鬼神と戦ったときみたいな命の使い方はできない。
白桜を守るため。
そしてともに白桜を守り、水央に仕えてくれている一族郎党の武士たちの命と生活を守るため、水央は行動していくことになるだろう。
水央の命は、もう自分ひとりだけのものではない。
生きてやらなければならないことができてしまった。
生きる理由がわからなくても、生きることだけはできる。自分はそのまま真っ直ぐ前を向いて進んでいけるだろうか。
まだ水央には、生きている意味なんてわからない。それでも自分が生きていることは変わらない。
わからないままでも進むことしかできないから、あのとき常盤は言ったのだ。
覚悟を決めろ、と。
それが今の水央にできることなら、やれるだけやってみようと、今は腹を括っている。
今の自分にできるのは、父の跡を継いで白桜を守り続けることだ。
もう父に勝つ術はない。それなら、父よりも立派な花守になってやろう。
そういう気概でいる。
最近は日差しのあたたかい晴れた天気が続いていた。
梅雨はもう明けて、これから本格的に夏が始まる。
白桜は、周囲の桜が青々とした葉を夏の風に揺らしていても白い花をつけている。鎮守の白桜は年間を通して花をつけ、休む間もなく都全域を守っているのだ。
白桜の丘は都の景色を一望できる。初夏の風が吹き抜ける都を眺めながら、水央は花守を務めた。
そうして日々をしばらく過ごしていると、常盤が客人として水央を訪ねてきた。
白桜の丘に入れるわけにもいかず、水央は花守を他の者に任せて応接間で待つ常盤に会いに行った。
「花守の仕事には慣れた?」
仕事は昔から手伝っていたので苦ではない。花守にかける時間が少し長くなったくらいだ。
水央はわざと冗談を言って笑った。
「これがずっとだと、することがなくってなあ」
冗談だとわかってはいるだろうが、常盤は水央を非難するように睨んだ。
「当主として初めて白桜の丘に立って、花守がどれだけ大切なものかが実感としてわかった気がする」
白い花は、咲いている土地一帯を守護する土地神。
だからこの地の人は花を大切に扱い、花に手を合わせる。
敬い奉れば、白い花は自分が根を張る土地を守ってくれる。
この白桜は都全体の鎮守。都の中央に根を張っている立派な塞ノ神だ。
父はこの木を守ることで都を守ってきた。
そして今度からは、水央が守る。
今まで白桜の傍には何度も立ってきた。だが、当主という責任を背負って、ようやく父が背負っていたものが実感として重たくのしかかってきた。
この大木に何かがあれば、都に災いが訪れても守ってくれるものはなくなる。この白桜の木があるからこそ、都は豊穣を得、平穏なときを過ごしていけるのだ。
「でも、父上よりも、立派に白桜を守るよ」
水央はその日の天気と同じくらい、晴れやかに笑った。
八年前のあの日から、ずっと花菖蒲が咲く梅雨の日に囚われていた。あの日見たもの聞いたものは今も水央に深い影を落としているのだけれど。
一歩だけ前へ踏み出した今、あの日の梅雨の景色は昨日の天気のように少しずつ遠ざかっていく。
水央の心の中の花菖蒲も、今は揺れずにただ静かに花を咲かせている。そしていつか、水央が自分の生の意味に気づく頃に、ようやく枯れるのだろう。
常盤は水央の笑顔を受けて、少しだけ目を細めて笑った。
試読「新版 水のゆくえ」 葛野鹿乃子 @tonakaiforest
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