第14話 la noche anterior

 アウグストの邸宅から脱出したナナカとマルシオは、一路シエナガ・デ・サパタのキャンプへ戻ろうと車を飛ばしていたが、現在進行中のゲリラ達による陽動の影響で各所で渋滞が発生し、邸宅へ向かう道中同様に渋滞に引っ掛かっていた。邸宅を出た時分には陽が多少傾いた程度であったが、のろのろとした車列に混じって移動していると、気付けばすでに夕暮れ時、美しいカリブの西日が地平線に隠れようとしていた。


「襲撃が迫ってるなら、やっぱり連絡入れた方が良いんじゃないの?」


「駄目だ。作戦規定通り、無線その他此方からの連絡は絶たなきゃならん。下手な連絡はそれこそ政府連中にキャンプの位置を察知されてしまう」


 クラウディオ達が国立公園内の司令部キャンプから発した陽動作戦の通信はSSG社に傍受されており、憲兵隊やSSG社の戦闘員による迎撃を受けたゲリラは少なくない損害を被っていた。それにより司令部の所在が露見する事を恐れたクラウディオによる指令で、連携こそできなくなってしまうが、無線や携帯電話などによる通信を断つことで通信傍受を防ぐことが下命された。ナナカ達は重要な情報を入手はしたが、その命令によって連絡を入れる事が出来ていなかった。

 しかし、本当に司令部襲撃が迫っているのならばその無線封止は無意味であり、命令を無視してでも通達するのが妥当であるが、この襲撃に関する情報はあくまでもナナカとマルシオの憶測に過ぎず、まして手練れと言えどたった二人での襲撃など、それを伝えた所で誰が重要視するだろうか。二人が連絡を入れる事を強く決断できないのは、そういった理由もあったからだった。


「くそ、渋滞、渋滞、何処も渋滞だ。グリンゴ共め、そんなに道を塞ぐのが好きなのか」


 豊かな顎鬚を弄りながら忌々しそうに呟くマルシオを横目に、ナナカは周辺の事件や事故などを国内ネットを介して情報収集する。ハナから詳細な情報は期待していなかったが、ナナカが思った通りに情報統制が敷かれ、ゲリラ絡みの掃討戦で生じた銃撃戦や爆発、殺人案件は事故などとして処理されていた。一方でゲリラが行った破壊活動は脚色され大きく報じられていた。政府施設への放火、爆弾テロ、路上襲撃、狙撃など枚挙に暇がない。政府広報はこれを国家の危機として主張し、断固としてテロリストを殲滅すると語っていた。

 政府に情報発信の手段を握られている以上こうなる事は予測済みであり、一方的に悪し様に醜聞を並べ立てられたとして、それに腹を立ててもどうしようもない。肝心なのはそういった限られた情報の中から有益な情報を抜き出す事なのだ。


「情報収集の結果は?」


「相変わらず悪辣な物言いと、不確かな物だけ。分かってるのはこの先数キロ渋滞って事」


「くそ」


 待つしかない。そのもどかしさに苛立ちを募らせるマルシオだったが、ここで焦って路外に飛び出し渋滞をパスしようとすれば、その途端に周囲を張っている余所者グリンゴ共や憲兵連中の集中砲火を浴びてしまう。

 渋滞の原因は爆破や狙撃など、ゲリラ達の陽動だけでは無かった。アウグストの邸宅を脱出して数時間、マルシオ達が副知事を殺害した情報は広く伝わっており、犯人を探し出す為に検問はより多く厳しくなっていた。つまり、ある意味で渋滞の原因はマルシオとナナカの二人にもあった。


 設営された簡易的なゲートが間近に迫る頃には既に日は暮れ、夜の闇が周囲を包み込もうとしていた。しかし検問ゲート周辺はゲート自体の簡素さに見合わない量の照明器具が設置されており、周囲はまるで昼間のように明るかった。ゲートの上に設置された見張り台に立ったSSG社のオペレーターが、拡声器を使ってイタリア訛りのスペイン語で渋滞車列に対してを指示に従うよう繰り返し叫び、ぶら下げたライフルを見せつけるかのように見張り台の端から端までを行ったり来たりしていた。

 やっと自分達の番が来たか。一日中渋滞に巻き込まれっぱなしだったナナカとマルシオは、最悪では無いがさほど快適でも無いシートの上で草臥れ切っており、終わりが見えてきた渋滞に安堵の溜息を漏らした。

 しかし、事態は二人が思っている程簡単に終わる話では無かった。いま通り抜けようとしている検問の警戒態勢は午前中にナナカ達が通った時とは比べ物にならず、車両一台一台をしっかりと簡単ではあるがX線検査機で調査し、爆発物その他火器類を隠匿していないかを調べていた。急ぎで逃げ出してきたナナカ達はグローブボックスに警備員から奪った物を含め拳銃が入れっぱなしで、二人は完全にそれを失念していた。そして、二人に迫る危機はそれだけに留まらなかった。


「次!……ん?」


「どうした、早く行かせてくれよ。待たされっぱなしで身体が痛い」


「待て。…ユーピテル、こちらセプター4‐1、手配中の人物のデータを要請する。Hの、6654番。今すぐだ」


 二人の乗る車を検査しようとしたSSG社のオペレーターはマルシオの顔を見るなりその場から少し離れ、小声で司令本部へ連絡を取り、現在指名手配中の人物の顔写真付きデータを寄越すように通達する。つまり、マルシオの顔にどこかで見覚えがあるか、何か気付く事があるからで、しかしまだ確証が無かったため念のために本部に照会を要請した。しかし、その素振りがマズかった。マルシオ達に聞こえぬ様に小声で話したまでは良かったが、車を待たせ背後を向き、何処かと連絡を取るような仕草はナナカとマルシオの二人を警戒心を抱かせるには充分であった。

 片側二車線、車の右側は他の車で塞がれ、見張り台はちょうどナナカ達の車の真上で真下は完全な死角である。グローブボックスから拳銃を抜いてマルシオに手渡すナナカの動作は、その場にいる誰にも気づかれなかった。


《セプター4-1、こちらユーピテル。そちらのリンクしている映像で確認した。貴官らが現在対処中の人物は副知事殺害の容疑者、優先検挙対象のマルシオ・シスネロスとナナカ・オリヒラだ。検挙せよ》


 オペレーターの拡張現実ARゴーグルにマルシオとナナカの顔写真、名前や経歴が映し出される。アウグストの邸宅に踏み込んだ際にナナカ達は、修復が済んでいた警備・監視システムにしっかりと顔や姿が捉えられており、警報ボタンを押された時点で監視カメラが捉えた映像などは全て自動で憲兵隊や警察に送信されていたのだ。警備員の即応班を始末し、首尾よく脱出したつもりの二人は既に重要指名手配犯としてバティスタの警察機構のデータベースに登録されており、それはSSG社にも共有され、現地で活動するオペレーター達にまで周知されていた。


 情報を受け取ったオペレーターは、軽く舌を鳴らして近くの仲間に合図を送り、振り向く仲間に顎でナナカ達の方向を示す。合図を受けたオペレーター達は安全装置を指で弾き、他の車両を止めたりナナカ達を取り囲む様に動き始めた。

 不穏な様子に気付いた他の一般車両の乗員たちも俄かにざわつき始め、夜になっても暑さが残るとあって開けっぱなしの窓からは、そのざわめきがナナカ達にも届いてくる。此方を向き、ゆっくりと歩み寄るオペレーターの持つライフルのセレクターは連発の位置に置かれており、その姿を一瞥したマルシオも拳銃の安全装置を解除する。初弾は薬室に送り込まれている。奴か、此方のどちらが早いか。一瞬の勝負だ。


「マルシオ・シスネロスだな」


 初対面、見ず知らずの相手が知る筈も無い自分の名前を呼んだ瞬間、マルシオの拳銃を握る手が迷いなく上がり、次の瞬間、オペレーターの頭部がスイカの如く弾けて飛んだ。


「なにっ!?」


 驚きの声を上げたのはその様子を見ていた他の仲間達だけではなく、マルシオとナナカもだった。マルシオはまだ引き金を引いていなかったのだ。



「命中、トマトペーストだ。ざまぁみろイタリア野郎」


「あの車の運転手、ちょっと不幸だったな。顔面血まみれだ」


 検問から凡そ数百メートル、小高い丘の上で伏せながら双眼鏡を覗く男が呟いた。脇に伏せるもう一人の男はライフルのボルトを引いて薬室から空になった薬莢を排出、雨に濡れて未だ乾かぬ草に薬莢が落ち、ジュゥと音を立てるのを聞きながら男は次弾を薬室に送り込む。慌てふためく検問所のオペレーター達を遠くから眺め、ゲリラの狙撃手二人は下卑た笑みを浮かべる。

 この射手と観測手のコンビは日中から各所を転々と巡りながら主要な標的に対して狙撃を繰り返し、それをスコアとして記録していた。既に弾薬残り少なく、日も暮れたこの時間だが、煌々と照明に照らし出された検問所は二人にとっては絶好の狩場であった。明るすぎる検問所からは此方が見えないため反撃は難しく、逆に此方からは暗視装備が無くとも十分な光量で照らし出される検問所は撃ちたい放題なのだ。


「丸見えだぜ余所者グリンゴめ。次、見張り台の上。距離変わらず。修正なし、好きに撃て」


 射手の男はナナカ達の車から照準をずらし、見張り台の上で周囲を見回すオペレーターをレティクルの中心に合わせる。一拍、呼吸を落ち着けたのちに男は構えたロシア製ライフルの引き金を絞る。大仰な銃声が轟き発砲炎が闇を一瞬切り裂き、強かな反動と共に吐き出された9.6x53㎜の弾頭を送り込んだ。


 弾丸は見張り台のオペレーターの首筋を貫き、被弾により首から激しく出血した彼は声を出す事も叶わずヨタヨタと後ずさり、見張り台の上から落下してアスファルトの上に沈む。そうしてようやく狙撃だと確信した他のオペレーター達は一斉に身を低くし、口々に狙撃を周知するように叫びたてた。

 血濡れの死体が地面に沈むとほぼ同時にマルシオはアクセルを踏み込み、ハンドルを切って車両停止用の障害物をよけながら車を急発進させた。甲高いスキール音が響き、気付いたオペレーター数名がカービンとSMGの銃口を向けるが、それより早く突進したマルシオのSUVはオペレーターを跳ね飛ばす。防弾装備に身を包み、訓練された屈強な戦闘員と言えど数トンにもなる車体の突進を受けてはいとも簡単に跳ね飛ばされてしまう。


「コイツ!!」


 検問を走り抜けるマルシオの車に数人のオペレーター達が銃撃を浴びせ、放たれるライフル弾が車体に穴を穿っていく。ガラスが割れて車内に飛び散り、銃弾に抜かれた車体と金属部品が火花を散らすが、奇跡的にナナカとマルシオは銃弾を受ける事は無かった。


「ひぃ! 危なかった、無茶するねホント!!」


「ハバナの時よりはマシだったろ!」


 道を外れ、路外の起伏で数度車体をバウンドさせたのちに道へと戻り、追いすがりなおも弾丸を撃ち込んでくるオペレーター達を後に残してナナカ達を乗せたSUVは走り去っていく。

 容疑者を取り逃がしたことに舌打ちし、オペレーターの一人が司令本部に車両のナンバーを告げようとした瞬間、その側頭に飛来した弾丸がめり込み、頭蓋の内容物をアスファルト上にぶちまけた。

 ナナカ達が闘争を始めたのを皮切りに、連続した銃声と狙撃によって場の制御を失った検問は一気に混乱に陥った。散々待たされた苛立ちと、突如鳴り響く銃声に車列の運転手たちは皆アクセルを踏み込み、一斉に検問を突破し始める。暴走した車両同士の衝突、それによって弾かれた車両がオペレーター達を跳ね飛ばし、状況を掌握する為の人員は次々に脱落していく。そして辛うじて難を逃れたオペレーターも、足を止めれば狙撃の餌食となった。


「あの運転手、ガッツがあるな」


「運が良かったな、あいつ、何かヤバそうだったしな。俺達がいて幸運って奴」


「あと何人かハジいたら、撤収するぞ」


 流石に朝から晩まで移動と射撃を繰り返しては疲れが出たか、観測手の男は笑いながら双眼鏡から目を離し、一日中酷使した目を擦る。瞬間、僅かに聞こえた擦過音の後に湿った破裂音が男の隣で響く。続けて銃声がしない事と、その湿った破裂音を不審に思った男は射手の方を向けば、そこには顎から上が弾けて無くなっている射手の姿があった。


「ハァ?」


 検問所からは此方の姿は見えない筈、反撃のしようも無い筈と、高を括っていた観測手には何が起きたかすぐには理解できなかった。そして、それを理解した時には既に遅く、次の瞬間には射手の頭を弾き飛ばした時と同じ擦過音が彼の耳に届き、雨露に濡れたままの草が赤く染まった。


 検問所を挟んだ対岸の丘に伏せたSSG社の狙撃手は深く息を吸い込み、スコープ越しの灰色の視界の中に浮かぶ熱源が沈黙したのを確かめ、フィンランド製狙撃銃のボルトを引き.338ラプア・マグナムの大柄な薬莢を薬室から弾き飛ばす。


「馬鹿が、同じ位置でパカパカ撃ちやがって。良いカモだ。セプター、こちらストリクス。スナイパーは排除した。逃走車両については此方で追跡する」


《こちらセプター4-2、感謝する! こっちは負傷者の収容と状況の鎮静化で手一杯だ、頼むぞ》


「了解、任された。ストリクス・アウト。…よし、移動するぞ」


 灰色の髭を生やし灰色の瞳をした観測手は、野球帽を逆向きに被った射手の肩を叩くとスポッティングスコープの三脚を畳み、後方に待機しているMRAPの方へと歩きだす。それに遅れて射手も狙撃銃の二脚を畳み、スコープの蓋を閉じて後に続いた。


「よし、逃げたゲリラの車が奴らの巣まで案内してくれるぞ。UAVが監視を継続してるが燃料がもう少ない、さっさと追いついて、絶対逃がすな。行くぞ」






「偵察の結果は」


 司令部キャンプのやや東、合流地点で再び顔を合わせたヨハンナ達は、偵察を終えたゴヨの成果を聞く。彼らの隠密行動能力は脱帽もので、ゴヨが撮影したキャンプの写真の中にはゲリラ達のテントまで数メートルといった場所で撮った物まであった。曰く「ちょっと危なかった」との事だが、それでも見つからずに戻ってくるのだから大した物である。ヨハンナはおろか、サキですらこうはいかない。


「流石の成果だ、コイツは助かるぞ」


「それで、どう攻める」


 ヨハンナは小さく唸りながら考え込む。司令部キャンプの兵員数は思っていた通りそれなりの規模で、武装と味方が増え、火力も戦術も増えるとは言え、やはりこの少人数で攻めるのが難しい事に変わりは無い。地図を照らす懐中電灯の光が漏れないようポンチョで覆いを作っているので蒸し暑く、頬から顎へと伝う汗をヨハンナは片手で拭う。暫しの思考の後、ヨハンナはペンを取り出し、アデラがメモに記した大まかなキャンプのテントや物資などの配置図に何事かを書き込み始めた。


 会議所を兼ねた広場を中心に、キャンプは大まかに四つの区画に分ける事が出来、ヨハンナはアデラのスケッチに線を引いて区画を明確に分けた。北西には司令部関連のテントが集中し、南西には調理場や食堂など糧食や生活などに関連するテントがある。北東にはキャンプ外へと続く道がある関係からか武器弾薬、燃料などの物資が集積されており、目下撤収作業中の為かトラックやコンテナ類が散見された。そして最後に南東、ここはゲリラの構成員たちが寝泊まりする兵舎であった。


「プラン変更だ、アデラはゴヨと一緒に援護に回ってくれ。サキはライフルで狙撃、私が一人で侵入する」


「大丈夫なのか」


「最初だけだ。サキが狙撃で敵を漸減・誘引して、兵舎から出てきた連中の無防備な横っ腹をアンタらの機銃とライフルで掃射してくれ。その間に私は北東から侵入して物資と移動手段を破壊する。奴らは一匹も逃がさん」


 サキは専ら北西・南西の範囲内を射撃区域とし、その中で動く目標は何であれ撃って構わないと指示を出した。ゴヨとアデラは南西・南東を射撃区域として、頃合いを見計らってヨハンナに合流、キャンプ内の掃討を行う事にした。


「外から狙撃に徹するのは構わないけど、私のライフルは弾が少ない。全弾必中でも24人しか倒せないよ」


「じゃあじっくり狙って、24人倒してくれ。それまでにはコッチが掻き回して数は減らしてる」


「本当に一人で大丈夫なの」


 ゲリラ達の武装状況は防弾装備無し、AKなどのライフルや散弾銃、旧式のサブマシンガン程度の物ではあるが、防弾装備が無いのはヨハンナも同条件であり、寧ろ全体の装備を見比べれば些か見劣りする。その状況で数の不利まで重なれば、如何にヨハンナの経験が豊富であったとしても苦戦は必至、最悪命取りとなりかねない。しかしヨハンナはそのような事は当初から承知の上であり、そもそもサキと二人で襲撃を実行していた場合、どう足掻いても一人で突入せねばならなかったのだから、危険は最初から織り込み済みなのである。

 どう考えても分が悪い勝負、博打とも言って良い襲撃を敢行するに至り、やけっぱちな突撃や殴りこみでも無く、切れるカードを用いて可能な限り成功に至る道筋を模索するヨハンナに、サキは小さく溜息をつく。襲撃を実行する理由からして正気の沙汰ではないが、それでもあくまで理性的に準備を重ねるその姿勢は、まるで理性を保ったまま狂気に飲まれているか、ヨハンナの正気が他人の狂気その物であるのか。長年連れ添ってはいるが、サキにも推し量る事が出来なかった。


「何か質問は?」


「ゲリラが降伏したらどうする、武器を持っていない奴らはどうする」


「捕虜なんて捕ってどうするんだ。投降しようが非武装だろうが始末しろ」


「本気か、そこまでやるのか」


 やや驚きを隠せないゴヨとアデラに、ヨハンナは顔色一つ変えず、さも当然といった風に皆殺しにしろと告げる。たしかにゲリラはかつてゴヨ達先住民族を排斥した共産政権の残党で、そして現在進行形で生活を脅かしている敵である事に違いは無かったが、それでも非武装の相手を、まして降参して戦闘の意思が無い相手を殺す事に二人は忌避感を覚えていた。

 が、出来ないのであれば此方で全員始末するとまでヨハンナは言ってのけ、その様子に気圧された二人はそれ以上何かを言う事は無かった。ヨハンナ達は総勢四名で捕虜を管理する余裕は無く、捕虜を取った所で何某か情報が得られる訳でも無い。情報を得たいのであれば司令部テントから電子機器や書類の類を収奪すれば良いだけであり、人質にして交換条件として要求する何かも無い。むしろ纏まった数の捕虜が出たり、戦闘中に放置して逆襲される危険がある以上、武装を解いて放逐するか全員殺すしか選択肢はなかった。


「上手く行ったら、村の仲間を呼んでいいか。焼け残った物資を回収したい」


「別に構わんが、上手く行ったらな」


 ヨハンナは干し肉を一切れ齧り、ライトを消してブリーフィングを切り上げた。明るさに慣れ、暗さに順応していない瞳では月明かりの届かない夜のジャングルはタールの様な真っ暗闇で、目を開けていても感じる物は瑞々しい樹木と土の匂い、風で靡く葉の擦れる音と虫の鳴き声だけだった。

 夜明けまで約6時間、眠りにつくには丁度いい暗さと静けさで、ヨハンナは戦いを前に英気を養うために寝具に包まり瞳を閉じた。






「畜生、奴らしつこいな」


 検問所から辛くも逃げ去ったナナカ達だったが、騒ぎを聞きつけた警官や情報共有された憲兵、そしてSSG社の追手を相手取った逃走劇の果てに複数台を巻き込む大事故を引き起こした。フロントは大破、数回転がって逆さまになるほどの事故にも拘わらず、二人は車内より這い出してその場を立ち去る事が出来た。

 車を失った二人は事故現場より離れた場所に隠れ、傷の手当てをしつつ遠巻きに現場を観察する。漏れ出したガソリンに引火して炎上している事故現場には、消防や救急とは違った風体の、ライフルを携えた男達が照らすフラッシュライトの明かりがちらつき、それがナナカ達をつけ狙う追跡者である事を如実に表している。


「あと少し、あと少しなんだ」


 事故の衝撃と割れたガラスで頭を切ったマルシオは、流れる血で顔を濡らしながらうわごとの様に呟く。アウグスト邸からキャンプまでは距離にしてみれば一日かかる物でも無い。しかし、不運に不運が重なり、一向にキャンプに帰りつく事が出来なかった。苛立ち、焦り、あらゆる負の感情を負傷による出血と痛みが増幅させる。


「動かないでよ、包帯が巻けないでしょ」


 マルシオの手当てをするナナカの腕にも血が滲む。いつまでも此処には居られない。あの事故現場で逃げる自分達を誰かが見ていたかもしれず、そうすると追手は直ぐにでも自分達を狩りにここまで来るだろう。それでなくとも、当初の目的を達する為には移動手段を調達しなければならない。見つからず逃げ延びる、その為には一刻も早くここから遠くへ向かわなければならなかった。


「さ、立って。早く行かないと」


 力の抜けているマルシオに肩を貸して立ち上がらせ歩き出す。ナナカはマルシオ程仲間の敵討ちに執着していないが、それでもあの地獄のハバナ旧市街から脱出させてくれた恩義はある。それを果たすべく痛む体に鞭を打って進むのだ。此処で立ち止まっている暇はない。


 遠く響く消防と救急、そして警察のサイレンを聞きながら、ナナカとマルシオは痛む体を引き摺り重い足取りで夜の闇に溶け込むように消えていった。


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