第一章:End of Vacation

第1話

 バティスタ共和国の空の玄関口「フルヘンシオ・バティスタ国際空港」はかつてキューバと呼ばれたこの国を統治していた独裁者の名前から取られ、19世紀末のキューバ革命独立の英雄から取られたホセ・マルティ国際空港の名称を変更した物だ。国名の「バティスタ」も前述の独裁者の名前からであるが、当の人物はお世辞にも優秀な政治家であるとは言えなかった。にも拘らず、その名前が国名と空港の名前に利用されているのは、長く窮屈な共産主義政権が打倒された時、それらの掲げていたシンボルに変わるめぼしい物が無かったからではないかと、そうヨハンナは推測していたが、実情は後世の歴史家に任せるとしてそれ以上深く考察する気は無かった。

 というのも、そんな事よりヨハンナにとってはこの薄汚い拘置所からいつ出られるのかという事の方が大きな関心事であった。深く柔らかな座り心地のファーストクラスのシートから一変、機を降りバティスタの地に降り立ってからはあっと言う間に国家警察に連行され、気付けばこの硬く若干湿っぽいマットレスが敷かれたベッドに座っている。数々の犯罪者達の汗や垢が染みついたこのマットレスは多少洗濯をしたとて匂っており、これがヨハンナは我慢ならなかった。戦場ならばともかく、今はバカンス中だ。

 理解はできる。いくらハイジャック犯を制圧し、乗客百数名を救った英雄的活躍をしたといえど、治安当局からしてみれば、航空保安官でもない一般人が銃を用いてハイジャックを制圧するなど有り得ない。でなくとも、武装し、発砲し、人間を殺傷したというならば拘束するなりして取り調べをするのはなんら不自然ではない。


「出ろ」


 気付けば檻の向こうに立っていた看守が呼ぶ。看守はただヨハンナを連れて廊下を歩き、釈放とは言わなかった。となれば今日三度目の取り調べだろう。最初は国家警察、次は国家憲兵隊、二回とも同じ内容を喋った。「ただの旅行客だ」「死にたくは無かったから抵抗した」「殺したのはやむを得なかった」「銃の扱いは軍隊で習った」警察も憲兵もどうにも腑に落ちない顔をしたが、こちらとしてもそれ以外に答えようが無いのだから仕方がない。幸い、彼らの望むような答えが出ないからといって裸に剝かれ、宙吊りにされた挙句、鞭打ちに処されるという事は無かっただけ有難い話である。

 とは言えいい加減取り調べも飽きて来た所で、予約していたホテルのチェックイン時間はとうに過ぎているし、腹も空けてきた頃合いだ。もしかしたら、二度の取り調べで痺れを切らした当局が過激な手法に訴えるつもりではあるまいな…等と、思考が悪い方向に向くのをこらえ、気付けば取調室の前に立っていた。扉をくぐれば二回入っただけで覚えられる程度の間取り、ラテン・アメリカらしいボロの取調室と不愛想な尋問官が待っている。そう思っていたが、今回は少しだけ違った。


「ハンナ」


 取調室にはヨハンナの事を「ハンナ」と呼ぶ、見知った銀髪が椅子に座っている。テーブルを挟む対面には、鍛えた体を確りとアイロンがけのされた制服に押し込んだ、端正な顔立ちの男が腰かけていた。警察や憲兵の紺色ではなく、ややクリームがかった白色の制服に目立つ赤色の肩章はそれまで対面した相手とは違う異様な迫力を醸し出している。


「ヨハンナ・クリーブランド?」


 ラテン系特有の浅黒い肌の男は人懐っこい笑みを浮かべて問う。肌の張りなどから男性として一番脂の乗っている年齢と見受けるが、その顔立ちはやや若く、いわゆる童顔であり、それが初対面であっても相手に好印象を持たせるのに一役買っていた。が、男に興味の無いヨハンナにとっては意味をなさない物であった。


「そうだ、アンタは?」


「ドロテオ・アバスガル大佐だ。バティスタ共和国大統領親衛隊に所属している」


 大佐。これにはヨハンナも驚いた。二度の取り調べでは多少威勢を張ってはいても、どうにもうだつの上がらない下っ端の雰囲気が拭えない木っ端役人が相手であったが、それが急に大佐とは。それも大統領親衛隊と来たものだ。

 ヨハンナは平静を装いながら頭を搔く。もしかしたら唯のハイジャックでは無かったのかもしれない。まさかハイジャック犯がバティスタの要人の息子であったとか、何か相当まずい事を知らない内にやらかしていたのではないか。とはいえ、まずは話を聞いてみない事には話は始まらない。


「それで、私はいつ此処から出て、バラデロのビーチで肌を焼けるんだい?」


「申し訳ないと思っているよ、私もこの小汚い尋問室は好きじゃない。だがこれは言わば通過儀礼のような物さ」


 ドロテオはデスクに肘を突きながら、大佐という階級に似つかわしくないフランクさで続ける。


「テロリストから銃を奪って、全員殺害。それをやろうとした時点で、こうなる事ぐらい考えなかった訳じゃないだろう? だから、カタチだけでも調書を取って、上に提出しなきゃならない。お役所というのはいつの時代だって面倒なものだ。俺だって隣に座ってるお嬢さんと一緒にビーチでバカンスと洒落込みたいモノさ」


 ヨハンナはドロテオの些か不躾な物言いに咳払いを一つする。この程度の事でサキが機嫌を悪くする事は無いが、ヨハンナはどうしてもサキの事となると過敏に反応してしまう。

 その反応を見てかドロテオは「おっと」というような素振りを見せながら、デスクに書類の挟まれたバインダーとペンを放る。書面にはこれまで二回の取り調べで答えた内容が──恐らくはドロテオの手書き――で記されており、ご丁寧に署名欄には「本人記名」と付箋を貼られていた。後はこの署名欄にヨハンナとサキが署名すれば良いだけの状態であり、そんな事は下っ端にでも任せれば事足りる。わざわざ「大佐」が出向くような用事でもないのだ。つまりはこの調書を取るというのは建前に過ぎず、何か別の用向きがあるのだと、書類を一瞥しただけでヨハンナは感づいた。


「ホテルの心配はしなくていい、こちらで手配しよう。いつまでもこんな小汚い所に押し込めていたのでは、我々の心証を悪くしてしまうからね。警察や憲兵隊は良い顔をしないだろうが、なに、気にしなくていい」


「そりゃそうだ、なんたって私たちはテロリストをとっちめた英雄だ。感謝こそされても、こんな豚小屋にぶち込まれるいわれは無いんだ」


「そう、まぁ気付いてるだろうけど、その件で来たんだ」


 記名の終わったバインダーを受け取り、しげしげと眺めながらドロテオは話し始める。


「知っているだろうが、この国には反社会的な勢力が度々厄介事を起こしてね。御多分に漏れず、君達が制圧した連中もその類、しかも大物なんだ。とは言えお世辞にも腕っぷしが良いとは言えないのだけどね、口が達者なだけで」


 ヨハンナの予想は当たらずも遠からずと言ったところだ。少なくとも生きていて褒められる相手ではなかった事は幸運であった。ドロテオの話を続けて聞けば、例の三人はバティスタの反政府勢力の幹部で国外逃亡していたのだが、何を思ったのだか旅客機をハイジャックして刑務所に収監されている政治犯を釈放しろと要求したのだという。ドロテオら当局側からしてみれば、確かに始末する手間を省いてくれたのは良い事であるが、本心から言えば生かして捕え、幹部にしてはあまりにもお粗末な計画を実行に移した背景や、背後関係やらを洗い出したい所であったのだ。


「憲兵隊連中はテロ狩りにご執心でね、君達が何か件のテロリスト連中について知る事なんて何もないだろうに、モンタルボの奴…あぁ、憲兵隊の長の事だが、これが随分と頭の固い奴で、君らが何か知っているだろうから何か話すまで出さないと言ってきかないんだ。だから、彼らが何か変な気を起こす前に我々が介入したという訳さ」


「そいつはご親切にどうも。で、こんな話、私たちに関係ないだろう。そろそろ本題に入ってくれないかな」


 ヨハンナは頬杖をついてペンを回しながら問う。実際テロリストの素性や、治安当局の内部事情などヨハンナ達にとっては関係の無い話だ。ドロテオはそのフランクさは悪い事ではないが、喋り過ぎるきらいがあるようで、ヨハンナの指摘に再びばつが悪そうな素振りを見せた。


「あぁ、済まないね。実際どうでもいい話だ。ただ上が君たちの手並みに感心していてね。つまり、上というのは…」


「大統領」


「そう、大統領閣下がね、旅客機が落っこちてくると一報があって急ぎ逃げ支度をしてる最中、君らが制圧したと来たものだから。手際にいたく感心されていてね。君らをアドバイザーに招きたいというんだ」


 アドバイザーと来た。無意味に余計な思案を巡らすヨハンナでも流石にこれは予想外であった。いくらハイジャックを鮮やかな手並みで制圧したとして、ただの民間人――傍目にはという但し書きが付くが――を国軍の軍事顧問になどと、真っ当な国ではまず有り得ない話だ。この国が真っ当であるという保証は無いが。


「待て待て、流石にそれはおかしな話だろ、私らはただの民間人だぞ。一国の軍隊に訓練つけるってのは流石に突飛な話過ぎやしないか」


「それは私も承知している。だがね、知っての通りこの国は前政権から全てが変わって間もない。革命軍時代からの組織改革のあおりで、組織形態だけは出来ていても実情は烏合の衆に過ぎない」


 バティスタ共和国は社会主義を掲げていた前政権を打倒して成立した国で、現在は民主共和制を敷いている。政治改革に伴いかつて共産党の元で稼働していた全ての物を再構築するにあたり、かつてキューバ革命軍と呼ばれた軍隊は解体・再編成された。それに伴い共産主義的思想を人物は追放され、当然ながら上層部などは総入れ替え。それが指揮系統の混乱や、兵站供給や警備、訓練を含む日常業務が十全に機能していなかったのだ。それが再びの共産革命を目論む反政府勢力に付け入る隙を生み、頻発するテロ行為を許していた。加えて冷戦終結、大戦後の中露からの支援停止による財政悪化が軍事費用の削減に拍車をかけ、主要都市の警備業務を安い海外資本の「民間企業」に任せているという有様であった。

 この「民間企業」が厄介極まりなく、軍や憲兵を動かして街頭警備させるより諸経費が安く済むのは良い事だが、市民生活に対する敬意という物が見られない上に、この手の企業が必ずと言って良い程手を付けている業務の「訓練」を行っていないと来たのだ。軍には手持ちの兵隊に訓練を付ける要員が十分におらず、バティスタ側としてはなりふり構わず、多少腕の立つ人間であれば猫の手でも借りたい状況なのだ。


「特に、今回のような事件に対処する『特別』な人間が不足していてね」


「この国にだって特殊部隊ぐらいあるだろう」


「アヴィスパス・ネグラスは解体されたよ、思想的に問題のある隊員が多くてね。バラグアの特殊部隊学校も真っ先に閉鎖されたよ」


 「私は問題なしの部類だが」とドロテオは懐かしむように言う。


「それに君は自分を唯の一般人だというが、乗務員やパイロットの言う事には随分手馴れていたそうじゃないか。少なくとも軍隊の飯を食った事ぐらいはあるだろう?」


 ヨハンナは顎を掻く、確かに多少は軍隊の飯を食っていたが、教練指導官を務めていた訳でも無く、せいぜい教えられたとして銃器の安全講習程度が関の山だ。その程度であればわざわざヨハンナ達が教えてやる必要もなく、寧ろ自前でその程度を教えられぬではどうしようもない。

 なにより、ヨハンナもサキも仕事をしに此処に来た訳ではないのだ。多少報酬が相場より上積みされようがお断りと言ったところである。


「悪いが今はただの『雇われ』だよ。インストラクターをやってる訳じゃないし、バカンスで来たんだ。仕事じゃあない」


 暫しの沈黙が取調室に満ちる。ドロテオの甘いマスクがコロコロと表情を変え、最後に困ったように眉間に皺を寄せた。それもそうだ、調書のサインにしろ、教官のリクルートにしろ、本来なら大佐という階級の人間がやる仕事ではない。それだけに訓練教官を確保するのに必死なのか、それとも別の意図があるのか。どんな理由があるにせよヨハンナ達に関係ない話で、二人ともドロテオの胃が痛もうが一切気に留める事はしなかった。


「うーん、仕方ない。まぁ、そうだな、いや無理を言って済まなかった。ありがとう。ホテルまで車で送るよ。それと、気が変わったら此処に連絡を」


 ドロテオは席を立ち、思い出したように懐から名刺をデスクに置き指先でヨハンナにスライドさせる。バティスタ共和国の国章と陸軍の紋章、そして大統領親衛隊の紋章が記され、よく見れば厚めの紙に掘られた文字は光沢の抑えられた金色、フォントはビジネスシーンでよく見られるヘルベチカ。更には透かし彫りまでしてある。そもそも名刺を持ち歩くこと自体が上流階級のステータスと言える時代に、贅を尽くしたこの代物を出されては本当に財政難に困窮し、軍隊の訓練や兵站維持もままならない国なのかと、ヨハンナは内心呆れてしまう。とは言え古今東西どのような国であれ、こういった仕立ての良い制服に身を包んでいる連中が見栄を張るというのは別に珍しい話ではない。分かってはいても、呆れてしまうのだ。


「歩くよ、名前さえ教えてくれれば。荷物も多い訳じゃないし、タクシーを捕まえれば行けるさ」


「お勧めはしないな、この時間帯からは混み合うし、何より政府が雇った警備会社の連中がちょっかいを出して来たら厄介だ。帰りの方角も同じだから、乗っていくと良い」


 ここは素直にご高配に預かる方が得策だろう、ヨハンナはそう思った。この街への渡航は初めてで無いにしても片手の指で足りる回数であるし、今は丸腰で無防備そのものであり、話題に出た『警備会社』とトラブルになりでもしたら目も当てられない。やたら自分を気に掛けるドロテオの態度を訝しむヨハンナではあったが、それこそ下衆の勘繰りという物で、自身の品位を落とし、他人の好意を頑なに拒んで無下にするのは相手の面目を潰す事となり、あまり褒められた物ではない。しげしげと眺めていた名刺を懐にしまい、ヨハンナは溜息をつく。

 先程から言葉を発さないサキに視線を移せば、長旅とこの環境が影響してか、表には出さぬ様に努めてはいるが疲れが見て取れる。自分は良いが、サキに苦労を強いるのはヨハンナの望まない事であった。「歩く」などと言ったが、パートナーへの気遣いを忘れた自分にヨハンナは心の内で悪態をついた。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 見つめていた名刺を懐にしまい、晴れて釈放となった二人はドロテオに続き取調室を後にする。入国手続きや荷物その他受け取りに関わる手続きは既に手が回してあり、そこで一々窓口を行ったり来たり、文字が判らなくなるほど名前を記入して回る必要も無いのはありがたい事であった。だが荷物の中身は確実に改められたであろう。貧乏な国の事であるし、もしかしたら財布から紙幣やらが数枚か、もしかしたら全て抜き取られているかもしれなかったが、それを確かめる術は今の所ない。今ここで中身をぶちまけて片端から確認し、ここに居る誰よりも大きいサイズの下着を見せびらかすのも実に馬鹿らしい話だ。

 キャリーバッグを転がしてエントランスへと向かう最中、纏わりつく様な警官達の視線を浴びるのを二人は感じた。無理もない話で、ファーストクラスから降りてきた金髪と銀髪の『グリンゴ』の話題など、この狭い署内ならばインフルエンザが蔓延するより早く伝播する。おまけに軍隊の中でも異質極まる、大統領の私兵とも呼べる親衛隊が警察組織の頭を押さえて強引に釈放させてしまったのだから猶更である。


 エントランスから一歩踏み出せば、南国特有の強烈な夕陽が立ち並ぶ建物の隙間から浴びせられ、ヨハンナもサキも思わず目を細めてしまう。サングラスを掛けて陽光を和らげれば、広くも狭くも無い駐車場の片隅でドロテオが手招きをしているのが見えた。


「おい、嘘だろう」


 大佐ともなれば運転手付きで軍の車で訪れている物だろうと想像していたヨハンナであったが、そこにあったのは凡そ100年ほど昔に販売されていたであろうクラシックカーであった。車に興味の無いヨハンナはそれが何年式の何というモデルかというのは知り得なかったが、特徴的な流線形のボディ、丸いヘッドライト、全体的なシルエットがいかにもミッドセンチュリーのレトロな時代の雰囲気を醸し出していた。なによりオープンカーであるのが驚きであった。いかに警備が万全と言えどテロの危険がある国で、軍の高級将校が自分で運転など、不用心にも程がある。格納している幌を被せれば日差しは避けられるが、そんな物は銃弾や火炎瓶を相手に何の役にも立ちはしない。まったく、この国の人間というのはどうしてこうも「おおらか」なのか、ラテン系によく見られるこの気質にヨハンナは度々うんざりさせられていた。勿論全員がそういう訳ではなく、仕事で行動を共にしたブラジル特殊警察作戦大隊の元隊員など私生活でも常に目を見張り、油断ならない雰囲気を纏っていたものだ。少なくとも、屋根の無いクルマには絶対乗らなかった。


「自分で運転するのか?」


「あぁ、そうだよ。普通は運転手付きだが、大した用事でも無いしね。それに、仕事じゃ一日中デスクと書類に向き合っているんだ、こんな機会でも無ければコイツを運転してやれないんでね」


「なるほど、運転する口実という訳だ」


 ヨハンナは鼻で笑う。こと傭兵という稼業は国境を跨いでの移動も多く、一所に留まる事も少ないので自分の両手に抱えきれぬ財産を持つ事は無いのだ。例外もいるが、ヨハンナはそうしなかった。それ故に馬鹿にしたりはしないが、車を趣味にしている事に対しイマイチ理解を示さず、日ごろ移動に使う車も何の変哲もない中古のセダンか格安のレンタカーであった。が、サキはと言うとそうではなく、ヨハンナと同じ理由で自分で所有こそしないが車やバイク、それだけに留まらず乗り物に興味があるようだった。ドロテオの愛車の周りを歩き、物珍しそうな視線を投げかけているのが見て取れた。

 この古い車を乗り回す趣味はドロテオに限らず、キューバ時代から続く国民性の一つであった。合衆国との国交が断絶された共産革命以降、貧困に喘ぐ国民は新車に乗り換える事も難しく、丁寧に修理して代々乗り継いでいるのだ。それ故バティスタ共和国は自動車マニア垂涎の代物がさも当然の如く走り回り、環境保護団体が卒倒しそうな量の排気ガスを街路に充満させている。悪環境に慣れているヨハンナもオープンカーでこのガスの中を走るのは辟易するが、それでも歩くよりはずっとマシであったため、普段ならすぐにでも飛び出す文句は喉元より上には出てこなかった。


「ホテルは、そりゃあ良いのを取ってくれてるんだろうね」


 折角のバカンスなのだからと、ヨハンナは宿泊予定のホテルは良いホテルを取っていた。だが旅路の初手から出鼻を挫かれ、今頃はホテルのバルコニーで夕陽を肴にハバナクラブと洒落込んでいるはずが、チェックインの時間はとうに過ぎ、未だに喧騒と排ガスに塗れている。いかに大統領親衛隊大佐のエスコートとはいえ、お役所仕事の接待なのだから、ホテルも大した物でないだろう事は予測がついていた。それでもヨハンナは自身の希望を孕んだ言葉を、皮肉とも取れるそのセリフを口から漏らしていた。


「それに関しては心配しなくてもいい、君は我が政府の危機を救った英雄だ。ぞんざいな扱いはするなとのお達しだよ。君達が本来泊まる予定のホテルには連絡済み、既に返金処理がされているはずだ。後で確認しておくのをお勧めする」


 言われずとも。ヨハンナは心の中で呟きながら後部座席に収まると携帯端末を取り出し、複数保有する自身の口座の中から、今回の旅行費用を引き出した口座を確認する。画面には支払い以前の金額が表示されており、1セントの間違いも無く返金されていることが見て取れた。ラテンのくせに真っ当な仕事をしている事にヨハンナは感心する。ラテン系の人間の特徴と言えば、おおらかで大雑把で横柄で横暴なイメージがあったが、考えを改める必要があるなと、頭の中でメモを取った。


 建物の窓から漏れる音楽や、ストリートミュージシャンの爪弾くギターの音色、通りの両側に隙間なく立ち並ぶコロニアル調建築が夕日で赤く染め上げられる様子が、この国に降り立った事を今更実感させる。

 しかし今のヨハンナとサキは、観光客ほどに情景を楽しむ余裕は無く、頭に浮かぶのは熱いシャワーと腹一杯の食事であった。ヨハンナの場合、要求されるリストに上等な酒が追加される。こんな足止めさえ無ければ今頃は沈む夕日を見ながらモヒートをやって、プエルコ・アサードを頬張っていた事だろう。腹の虫が鳴き胃の中が空になっていく度に、頭の中が食事の事で満たされていく。

 ふと車の速度が落ち、ゆっくりとした速度で交差点に差し掛かる。信号は青、だが、どうやら交通整理で流れを制御されているようだった。交通整理の為に立っているのは件の民間企業の『警備員』らしかった。バティスタの警察や憲兵隊の古めかしい装具類とは違い、メーカーなどは知らないが海外製のコンバットシャツやパンツを纏い、これまた海外製の防弾装具類を身に着けている。その体躯も国軍とは違って随分と良い食事をしているのであろう、栄養とトレーニングの行き届いた逞しい身体をしていた。


「アレが、か」


「そうだ、随分良い装備をしているだろう。うちの国軍とは大違いだ」


 交差点の片隅では、市民数名が地面に這いつくばり、それを警備員一個分隊が監視し、同時に身体を改めていた。その脇には水平二連の猟銃やら手頃なサイズの拳銃に、ビニールテープの巻かれた短い鉄パイプが転がっている。パイプからはコードが伸びており、お手製のパイプ爆弾だと判別できた。つまりこの市民達は所謂「反政府勢力のテロリスト」の一員という奴で、何某かのミスをやらかして達成するべき目標を達する事も無く、こうしてお縄を頂戴したという訳だ。

 警備員は突っ伏しているテロリストの脇腹を鉄芯入りのブーツで蹴飛ばし、襟首を引っ掴んで立たせると護送用のトラックに詰め込んでいき、その中の一人とヨハンナの目が合った。白く染めればサンタクロースとしてやっていけそうな立派な髭を蓄え、目尻に皺の刻まれた顔に嵌め込まれたグレーの瞳がじっとヨハンナを見つめ、やがて興味を失ったかのように背けられる。嫌な野郎だと、ヨハンナは小声で呟く。話した訳でも無いが、あのグレーの瞳がどうにも嫌な雰囲気を醸し出していた。

 何はともあれ、この民間企業の警備員は些かやりすぎな面はあるが職務の怠慢も無く、しっかり仕事はしている様であり、ハバナに居る間は安全かつ快適にバカンスを楽しめそうだとヨハンナは安堵する。今日という日はテロリストと爆弾に随分と縁があったが、それももう無いだろう。


「それにしても、今更ながら亜人種二人のペアというのは珍しい。いや、そもそも観光客だってこの国で亜人種を見るのは珍しい話だが」


「前の政権だったら、アンタみたいなポジションの人間は私等を監獄にぶち込んでおくだろうね」


 今でこそ黒人やアジア系の差別と同様、亜人種の国際的な差別は下火であるが、共産主義国家であったキューバはソビエト同様、少数民族や異人種に対する国を挙げての排斥運動は盛んであった。おかげで、この国には亜人種の住民は極端に少なく、居住しているのも鬱蒼とした密林地帯の奥深くに隠れるように暮らしている。フィデル・カストロの掲げた「平等主義」という言葉が聞いて呆れるものだが、しかし、民間人も揃って国のキャンペーンに乗っていたかと言うとそうではない。共産主義・社会主義という政体の下では医療や教育、食料の配給など、生存に最低限度は平等であるが、そうした政体の常であるのは「皆が豊かに」ではなく「皆が貧しく」なるのが実情であった。国家に対する批判は封殺される閉塞感は貧しい人々の結びつきを強め、そこに亜人種であるとか、そういった事は関係など無かったのだ。元々共に助け合って暮らしていた隣人を、急に追い払うなど、そんな余裕は国民達には無かったのだ。国民もそうした半世紀以上に渡る国家の締め付けにウンザリしていたのだろう、鬱憤が積もり積もって武力革命へと発展、革命を達成した政権は民主化の名の元に、かつての共産政権が行っていた文化統制や少数民族の排斥などの一切を廃止、あらゆる面での政治改革を実行に移した。

 しかし、それが冷戦終結以降の自由経済への移行同様、望んだ形で推移していない事は誰の目にも明らかであった。観光資源以外での外貨獲得を目的に多数誘致した海外企業は外貨獲得に一定の成果は上げているが、本来国民の所有物で、彼らに還元されるはずの資源は海外へと流出し、国際市場の適正価格で買い叩かれ、利益は国民に還元される事なく政権と国体を最低限維持するのに活用されるに留まっていた。結局自由経済に移行したところで富を持つ者と持たざる者の差は縮まらず、見掛けだけは陽気なラテンの国家から脱出できぬまま今日を迎えていたのだ。


 そんな貧富の差を象徴するように聳え立つ高級ホテルが眼前に現れる。ハバナのコロニアル調の町並みは殆どが一定した高さの建造物であり、街並みから突き出すように建つ建造物と言えば大抵は観光客向けの高級ホテルであり、この「ハバナ・ヒルトン・グランドホテル」もその一つであった。

 ホテルの建物自体はフルヘンシオ・バティスタの統治時代に建設・開業したもので、キューバ革命以後は国有化されフィデル・カストロの居宅にもなるなど、興味深い歴史をたどっていた。しかしソ連崩壊以降はスペインの観光チェーンなどに売却されるなどした末、現在のバティスタ政権成立に伴い流入した米国資本の企業に買い取られ、現在に至っている。

 宿泊客は無料で利用できる広々としたプールを備え、最上階にはハバナを一望できる五つ星レストランと、文句の付けようのないホテルであった。おまけに旅行代理店のオフィスも直近にあり、予定が狂い放題のバカンスを調整するにも最適だった。


「こいつは驚いた」

「羽振りが良いね」


 ヨハンナとサキは25階建てのビルを見上げ、揃って驚きを口にする。此処まで待遇が良いとなると、やはり裏に潜む物を勘ぐってしまうが、せっかく人の金で良い部屋に泊まれるのだから、今だけはそう言った雑念を脇へ退かす事にした。こうして遊び惚けている内に丸め込まれ仕事を振られなどした所で、自分達は巻き込まれた側で、やはり仕事で渡航した訳では無いし、バティスタ側が勝手に持て成しただけであるから、のらりくらりと躱してハバナが居辛くなれば東のサンティアゴにでも逃げてしまえば良いだろう。などとヨハンナは軽く見ていた。

 この手の軍事色の強い政府が一度目を付けた人間に対してしつこいのは定番であるが、ヨハンナもそういった者達から逃げた経験は一度や二度では無い。つい一年前にヨハンナはコロンビアの麻薬組織が保有する島に呼びつけられ、大いに持て成された後、高級幹部から仕事の依頼をされたが余りにも割に合わぬ内容であったためコッソリ逃げ出してきたばかりであった。それに比べれば、バティスタの土地は広く、国外へと出る方法も多数存在する。旅行カバンの隠しポケットにはいつも別名義のパスポートや現金、キャッシュカードが忍ばせてあるし、目立つ風体(特に耳)をしているので、逆にそれを隠すように変装をすれば大抵は出国できてしまう。アメリカのような先進諸国ならいざ知らず、こういった後進国では姿を消したまま出入国する事は朝飯前である。

 車は車寄せへと滑り込み、エントランス前で停止する。気怠そうな表情のボーイがちらと此方を見て、ドロテオの制服と肩章を視界に入れた途端、背筋を伸ばし早足に駆けてきた。なるほど、国家親衛隊の制服は一般にも知られていて、なおかつ背筋を伸ばさせる様な何らかの効果があるらしい。拘置所での対応と言い、どうにも唯の「親衛隊」止まりでは無さそうである。それとも単純にこのドロテオという男が何某かの権力を持っているのか。こういった国であるから、軍高官だとしても「副業」をしていてもおかしくは無い。


「さて、私はここまでだ。明日の午前中にもう一度調書を取りたい。此方の者が尋ねるが構わないね?」


「それに関しちゃ問題ない、部屋かプールでのんびりさせて貰ってると思う」


 ヨハンナは言うが、正直な所としては役人の顔を拝むのは御免被りたかった。しかしバカンス中の自身の身の潔白を担保する為とあっては断る訳にもいかない。不本意であったが承諾し、ひらと手を振りながら排気ガスをまき散らしながら走り去るドロテオを見送る。ドロテオの車は街路を行き交う旧車の群れに交じり、すぐに見えなくなった。


「聞いちゃいたが、古臭い車の多い事よな」


「良いでしょ、私は好きだね」


「私には分からん世界だ」


 ホテルのロビーは当然であるが拘置所のそれとは違い、清潔感のある広々とした空間が広がっていた。丸一日、旅客機から拘置所ときて、やっと得た自由を味わうのも束の間、ここに来てヨハンナとサキの身体を耐えがたい疲労感が襲う。一杯の酒と軽い食事、等と言う余裕もなく、二人はチェックインもそこそこに部屋へと直行。上層階へと向かうエレベーターで数度意識を飛ばしかけ、這う這うの体で部屋へとたどり着く。

 部屋はスイート、白を基調とした床や壁、シンプルな調度品は何処かシックな雰囲気を漂わせ、大きな窓から見渡せるカリブ海の眺望との組み合わせは疲れた心身を癒すにはうってつけであった。が、今しがた部屋に転がり込んできた二人にとっては景色を楽しむ余裕もなく、赤いシーツで彩られたベッドへ倒れ込めば、沈む夕日を浴びながら半ば意識を失うかの如く眠りに落ちた。

 

 斯くして波乱に満ちたバカンスの一日目は幕を閉じたのだった。



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