硝煙香るロング・バケーション

@HawkerTyphoon

プロローグ

 飛行機が地面から飛び立つ為に機を加速し、その際に発生するGが乗客をシートに押し付けるのは、エコノミークラスでもファーストクラスでも左程変わりは無い。ヨハンナ・クリーブランドはファーストクラスの上等なシートに身体をやんわりと押し付けられながら、機が地上を離れる際の浮遊感に不快感を覚えつつ、身体を縛り付けるこの窮屈なシートベルトを外せるのを今かと待っていた。この席より遥かに乗り心地が悪く、古く信用の無い飛行機で数え切れないほど離陸を経験したというのに、どうにも、この瞬間だけは慣れない物だと心で独り言ち、肘掛けに預けた腕につい力が入ってしまう。これではまるで自分が飛行機が苦手で、怖気づいていると言わんばかりの情けなさを感じ、それもまたヨハンナを酷く不愉快にさせるのであった。


「どうしたの」


 通路を挟んだ隣の席からヨハンナを気遣う声が飛ぶ。その静かだが、何処かあどけなさの残る声の方向に目をやれば、左右で色の違う青と金色の瞳が、これもまた左右で色の違うヨハンナの瞳を覗き込んでいた。こちらの思う所を見透かしたような瞳を向ける、白銀のショートヘアを機内空調で微かに靡かせた、白磁…とまでは言い過ぎだが白く透き通る肌の女性、旅の同行者であるサキ・イライアスの整った顔に一瞬だが見惚れてしまう。


「いや、何も。何もない」


「慣れないんでしょ、顔に出てる」


 やはり見透かされていたか。ヨハンナは眉間に皺を寄せながら視線を前に戻し、鼻で溜息をつく。折角のバカンス、それもカリブの島国への長期旅行というのに、仏頂面などしていては声も掛けたくなるという物だ。それでなくともサキとの付き合いは長く、眉や瞼の動き一つ、声のトーン一つで機嫌や体調まで察知するのだから末恐ろしい。だがそんなサキに対しヨハンナは全幅の信頼を置き、その逆もまた然りで、その関係を念押しするように二人は揃いのリングを首から下げていた。


 やがて機が旋回し、斜め方向に地面に体を引っ張られる感覚が続き、暫しの後に体の感覚が機が水平飛行に移行したことを告げる。と同時にベルト着用と禁煙ランプが消え、乗客たちは揃ってシートをリクライニングさせ、ゆったりくつろぐ体勢に移行する。時刻は午後7時、日はだいぶ傾き、右側の窓からは西日が差し込み、ヨハンナの座る左側の窓からはこれから訪れる夜の闇が見て取れた。

 その頃になるとヨハンナの感じていた不快感は消え、折角のバカンスなのだからもっと楽しい事を考えようという余裕も出てきた。カリブの透き通るような青い海と白い砂浜、小麦色に焼けた健康的な肌を惜しげも無く曝す水着の美女達…とまで考えた所で再びサキと目が合う。じっとりと睨むような瞳、内心のスケベ心を完璧に見透かした瞳だった。ヨハンナはばつが悪そうな素振りをするだけして、フライトアテンダントが運んできた赤ワインをちびりとやる。この一連のやり取りも二人にとっては茶飯事で、遊び好きのヨハンナはどれだけ遊びまわろうが最終的にサキが一番だとし確認し、サキ自身はヨハンナはどうせ自分の所に戻ってくるのだと、そう確信していた。

 機内雑誌を手に取り、中をぱらぱらと捲って流し読みすれば、大体の内容などは地上の街角で売られている大衆雑誌と大差ないような物で、大戦終結後の国際情勢の推移であるとか、戦中に使用された兵器による環境破壊と異常気象についてのコラムが三分の一を占め、機能不全の国際連合に取って代わった地球連邦と、それらを構成する主要自治政府による国家再統合と、一新された勢力図に基づいた新世界秩序が、どれだけ戦前の腐敗した国家制度より優れているかと説く記事が残りの紙面を占めていた。


《ただいま当機はクラークソン・クレーター上空を通過しております。規定により、飛行禁止区域を迂回するため機が旋回します。》


 フライトアテンダントのアナウンスが聞こえてから数秒の後、機は旋回を開始し左方向へと傾く。ヨハンナが窓から眼下へ目をやれば、荒涼とした大地に穿たれた巨大なクレーターが夕日に照らされ、そのガラス化した地表が陽光を反射し、さながらステンドグラスのような輝きを放っていた。大戦中この地には南米同盟の前哨基地が存在したが、合衆国軍によるポリ窒素弾頭による集中爆撃を受け壊滅、結果として南米同盟は合衆国本土侵攻を無期限延期し、跡地である直径10㎞にも及ぶこの巨大なクレーターは作戦指揮を執った合衆国軍准将の名を取り、クラークソン・クレーターと名付けられたのである。

 大戦中はこのクレーターを作り出したポリ窒素弾頭が方々で集中投入され、結果として異常気象を引き起こし、また大陸の主要な食糧生産地の約四分の一がこれらの兵器による土壌破壊と先述の異常気象により、全世界の食糧生産率は戦前の半分以下に低下、現在も復興の進まない地域では餓死者すら出る始末であった。

 この機内雑誌が喧伝するほど世界は良くはなっていないのだと、ヨハンナは身に染みて知っている。中東でガラスのクレーターの端を歩き、雪と氷に閉ざされた極東の街角で銃火を潜り、復興進まぬ東欧では戦災により住む場所を追われ、貧困と飢餓に喘ぐ多くの難民を見送った。旧世界の大国からの管理を外れ、未だ新世界の管理行き届かぬ無法のさばる地では、剥き出しになった人間の悪意が暴虐の限りを尽くすのも目の当たりにした。自分自身、そう言った事に手を貸した事も無い訳では無かった。

 硝煙に塗れ、両の手を血にどっぷり浸けて、汚れた金を懐に収めた自分が、贅沢の限りであるファーストクラスのシートに収まり、硝煙の香りなど思い起こせもしない南国でバカンス等と、全く烏滸がましい物だとヨハンナは自嘲気味に溜息をまた漏らそうとして、やめた。

 だからどうだというのだ、自分が命を的に稼いだ金で贅沢して何が悪い。血に汚れていようが金は金で、1ドルは逆立ちしたって1ドル以外の価値を持たないのだ。だから、このバカンスに際して余計な事を考えるだけ無粋と言うもので、サキの軽蔑の眼差しを余所に、ヨハンナは水着の美女を夢見てニヤけ顔を浮かべるのだった。


 ディナーも流石にファーストクラス、上々である。確かにステーキは300度に熱々に熱せられた皿に乗せて提供される本場のステーキハウスには劣るが、それでも其処らのダイナーで供される物とは比べ物にもならない。比べるだけ機内食のメニューを考案し、より良い食事を提供しようと努力する航空会社に失礼と言うものだ。離陸してからチビチビとやっている赤ワインも、スーパーマーケットで山積みにされている一本10ドル程度の物とは比較にならない。相当にお高いのであろうが、値段を気にしては味も分からなくなるとヨハンナは考えない事にしていた。

 最近ではエコノミークラスでさえシートに備え付けの端末から機内食のメニューをオーダー可能で、一々フライトアテンダントが客室を回り「ビーフorチキン?」等と尋ねて回らなくともよくなっているのは、果たして良い事なのだろうかとヨハンナは思案する。いや、当然サービスの質が上がっていたり、面倒が省けて良い事には間違いないが、どうしても昔ながらのやり取りが無いのは寂しく感じてしまうのだ。今頃は機体最後尾の席まで配膳が終わった頃であろう。お決まりのやり取りも無く、スムーズに。

 フライト時間はおよそ11時間、ディナーが終わる頃には機外はすっかり夜の闇の中であった。晴れてさえいれば高度3万3千フィート上空からでも、人々の営みを、地上の星を拝むことが出来たであろうが、眼下に広がるのは一面の雲海。時折、月の明かりを反射するのをぽつりぽつりと認めるだけで、窓の外は暗黒ばかりで、こうなると景色を眺めるであるとか、そう言った楽しみも無いので、ヨハンナもサキも他の乗客と同じくシートを倒し、一眠りしようと瞼を閉じた。



 ヨハンナが目を覚ましたのは、まだ夜が明ける直前の現地時間午前4時の事だった。伏せていた頭頂の耳が、静かに、それでいて素早く席の間を通り抜けて此方に近付く音を聴き取った。ヨハンナは狐の亜人種で、狐の耳は犬の数倍の聴力を持つ。

 それを聴き取ったのはその足音がまだビジネスクラスを通り抜ける最中で、寝ぼけ眼が幾分かハッキリした視界に戻る頃に、ヨハンナの脇だけでなく、機の両側の通路を数人の人影が早足に機首方向へ向かうのを確認した。

 これはマズい、アレは客室乗務員では無かった。首筋を冷たいナイフで撫で付けられるような感覚を覚えたヨハンナは、シートをゆっくりと起こし、通路を挟んだサキに目をやる。サキも異変に気付いていたようで、まだ微睡んでいるという風に目を擦りながら周囲を見回し、ヨハンナに視線を向ける。頭を掻くような仕草で右手を側頭部に持ってくると、人差し指だけを立て、引き金を引く動作を数度。「銃」の合図をサキに送る。サキもゆっくり瞬きを2回、了解の合図を送ると、ゆっくりとシートに身を埋めた。

 ヨハンナは人影が横を通り抜けて行く際に、その手に持っていた物を見逃さなかった。低く構え、しっかり握られた白色のシルエットは、機内のシートや内壁が白系統の色であるので見逃しかけたが、間違いなく欧州製の軍用拳銃だった。恐らくはフレームとスライドを3Dプリンターで出力し、白色の成形色そのままで持ち込んだのであろう。

 それは不意に見付かった際に誤魔化せる確率を僅かでも増やす為であろうが、現代の保安検査では一度でも疑いが掛かれば誤魔化すのは容易い事では無い。基幹部位である銃身や引金等は手荷物の中に何某かの擬装をして忍ばせる他、アクセサリーを装う等すれば持ち込むのもリスクはあるが出来ないでも無い。3Dプリンターでフレームとスライドを作った事は無いにしても、ヨハンナもほぼ同様の手段で旅客機に銃器を持ち込んだ経験はあった。では弾薬は。銃弾に限らず火薬類は保安検査で見付かりやすく、手荷物として持ち込むのはほぼ不可能。となれば、客室乗務員に協力者が居たのであろう。


 厄介な。心中で毒づきながらヨハンナは、コクピット付近でフライトアテンダントと話す「推定ハイジャック犯」に悟られぬように、自然な動きで周囲の様子を探る。トイレを装って席を立ち、様子を更に探っても良かったが、流石にリスクが大きい。目を付けられると厄介だし、彼等が不出来なハイジャック犯で、簡単に暴力を振るう類であった場合は尚更厄介な事になりかねない。

 顔を青ざめさせ、信じられないという表情のフライトアテンダントにハイジャック犯が小声で何某かを告げている。「コクピットのドアを開けろ」「出来ません、機長でなければ」「では機長に開けさせろ」小声ではあるが、ヨハンナの耳にはしっかりと届いていた。ハイジャック犯はその短いやり取りの後、ドア横のパネルのボタンを押しながら、静かにラテン訛りの英語でドアの向こうの機長に対し語りかけた。


「此方にはコクピットのドアを破壊するに足る爆薬がある、我々が爆破するまでの間、乗客を一人ずつ殺して回っても良いんだぞ。時間はある、ゆっくり考えろ」


 厄介の度合いが急激に跳ね上がった。ヨハンナの良く聞こえる耳が機長とハイジャック犯の会話を捉える。客室とコクピットを隔てるドア付近にはマイクが備えてあり、厳重なコクピットドアを開けずとも機長と直接会話が出来るようになっている。もちろんこれはテロ対策の為で、かつて世界を大きく変えた2001年のあのテロ以降、どんな格安航空やローカル航空路線の運用する機材でも徹底されている。

 ハイジャックを成功させるには──大抵の場合成功などしないのだが──コクピットを掌握するのは必須であり、現代に於いて「開けて下さい」等と素直に頼んだ所でドアを馬鹿正直に開けてくれる訳では無い。機長も副機長も、そう訓練されているからだ。だがハイジャック犯がドアをこじ開ける何らかの手段を持ち、加えて乗客に危害を加えるとなれば話は変わってくる。結果としてコクピットに乗り込まれるのであれば、客室を無意味に血の池地獄に変える必要は無い。ハイジャック犯も恐らくはその気は無い、本気ならば既に誰彼かがドア前に引き立てられ、頭を撃ち抜かれているだろう。

 機長は機を譲る決断を下したのだろう、コクピットのドアは程なくして開け放たれ、ハイジャック犯の一人が滑り込み、再び固く閉ざされる。


 斯くして彼等はこの旅客機の乗っ取りに成功し、多少安堵したであろうが、一方ヨハンナはまだ何も知らないと言う表情を浮かべながら、快適なフライトを台無しにされ、バカンスの出鼻を挫かれた事に尋常では無い苛立ちを覚えていた。どんな目的があるにせよ、ヨハンナにとっては、成功の見込みも無い馬鹿な行いに巻き込まれる位ならば戦地で砲撃を喰らう方がマシ、まだそちらの方が納得できた。


 しかしファーストクラスの、それもコクピットドアを視界に入れておける位置に居るのは怪我の功名とも言うべきだろう。コクピットの1人を含めてハイジャック犯は3人。声と体格から察するに全員男。まだ潜んでいる者や客室乗務員の協力者も現状不明である以上、人数に考慮するべきだろうが、其れ等が潜んでいる可能性は薄い。

 乗務員も協力し、乗っ取りに加わっているのであれば協力者に銃器その物を持ち込ませれば良く、乗客側がリスクを冒して持ち込む必要は無いし、乗務員に不審な動きは見えないし聞こえない。乗務員の協力者は袖の下を受け取っただけと判断出来る。勿論、確定では無いが。

 他のハイジャック犯が潜んでいる可能性も、コクピットドアの前に居る2人の様子を見るに、居ないと仮定できる。2人だけで言葉を交わし、機内後方へ視線を向け、遠くを見る素振りが無い。機長との会話中も客室を気にする素振りが無かったので、人数は確定だろう。

 目下の問題は武装の方で、全員が自動拳銃を所持し、少なくとも弾倉一本、多ければ各人3本は持っている。そして爆薬、ドアを爆破すると宣言しているので、警察特殊部隊が使用するような紐状爆薬、もしくはブリーチングチャージか。流石にドアをまるごと吹き飛ばす量は無いだろうと思うが、もし彼等が「最後の手段」を想定しているなら、相当量の爆薬が持ち込まれている可能性も考慮に入れるべきだ。

 ヨハンナとサキはベルトのバックルに手を這わせる。如何に飛行機に武器の持ち込みは出来ないと言えど、丸腰は避けたい二人は常に金属製のバックルに小型のプッシュダガーを忍ばせていた。ほんの少し抜き、確りと何時でも抜けることを確かめ、再び収める。まだ刃を抜くときでは無い。

 確かに丸腰で、武器が無いよりはずっとマシではあるが、刃渡り5㎝にも満たない薄いプッシュダガーで銃を持ったハイジャック犯相手に立ち向かうのは現実的では無い。それに、まだ事は始まったばかりだ、もしかしたら彼等はそのままフライトの当初の目的地に向かい、着陸し、案外早く事件は片付くかも知れない。まずは出方を窺おうではないか。ヨハンナはそう結論付け、所在なさげに立つ二人の男を注視しつつ、色付き始めた窓の外に視線を移した。


どれ程経っただろうか、コクピットにハイジャック犯が乗り込んでから随分経つが動きが無く、いい加減ヨハンナも若干眠気が忍び寄り始めていた。腕時計に目をやれば朝の5時半を回り、ヨハンナやサキ以外のファーストクラスの乗客も目を覚まし始めていた。日は昇り始め、機はメキシコ湾の上空を飛んでいる。もうじき目的地であるバティスタ共和国の領空に入る頃合いだ。ファーストクラスの乗客たちはコクピットの前で佇む男二人に気付き、その不穏な佇まいにざわつき始めていた。それを察知してか、二人いる男の片方がフライトアテンダントに顎で指示を出し、アテンダントはファーストクラスの客に静かに、落ち着くよう丁寧に状況を説明していった。勿論、ヨハンナとサキにも説明される。席を立たず、じっとしているようにと、ただそれだけ。

 しかしハイジャックの目的が分からない。なぜ離陸後の早い段階で乗っ取りを実行せず、この夜明け前の段階で実行に移したか。これは何となく理解できる、乗客が眠っていれば機体前方へと移動する最中に余計な騒ぎを起こさずに済むからだ。それならば猶更夜明け前ではなく深夜帯に実行しても良いものだ。そしてコクピット侵入から一切の動きがない、地上管制やら機長との交渉が上手く行って居ないだけなのか。何よりもうじき空の国境を超えるのだから、交信する地上の相手だって変わってくるだろう。

 もしや素人か。それも、特大のド素人。見れば客室を監視する役目があるだろう二人の男は客席に目を光らせるでもなく、本当に暇そうに立っている。まさか目的がハッキリしていない等という事もあるまいな。だとしたら、事態はこの先どうなるか本当に見当もつかない。唐突にこの男達が銃を乱射し始めたって不思議ではなかった。


 中央の列に座るサキは気付かなかったが、ヨハンナはある事に気付く。窓から見える外の景色、つい先程までは外が暗く判らなかったが、メキシコ湾の海面が通常より近いのだ。ヨハンナはバティスタ共和国への渡航は今回が初めてではなく、過去に数度同じ航空路線で訪れた事があるが、飛行高度を落とすにはまだ早すぎる。高度が落ちている感覚は無かったという事は、凡そ1時間半かけてゆっくり高度を落としたのだろうが、しかしなぜ高度を落としたか、これがわからない。だがその答えは直ぐに出た。


「どうだ」


「駄目だ、交渉は決裂だ。覚悟を決めろ。」


 コクピットドアのインターフォンで会話をしていた男がもう一人にそう告げる。「覚悟を決めろ。」最悪の言葉だ。この時点でこの素人共が生還を企図していない事が確定した。交渉が何の事を言っているのかはわからないが、どうせろくでもない事であったのだろう。だから突っぱねられ、逆上してかプランBとしてかは不明だが乗客乗員を巻き込んで何らかの結末を迎えるつもりなのだ。まさかただ単に海上に落っこちるつもりもあるまい、だとするならば。此処から向かえる大都市と言えば、フロリダ州はマイアミか、バティスタ共和国首都のどちらかだ。ツインタワーに飛び込む旅客機の映像がヨハンナの脳裏に浮かぶ。

 冗談ではない。最終的な解決は何処か陸地に着陸さえすれば治安部隊なり軍特殊部隊なりが解決してくれるだろう、ヨハンナはそう考えていたが、このままでは生きてバティスタの大地を踏むのも怪しい。不本意だがヨハンナも覚悟を決めるしかなかった。この素人共を制圧する方法は練ってあるが、不確定要素は多く、仕掛けるタイミングも難しい。プッシュダガー一本で勝負に出るのは危険な賭けではあるが、やらぬよりは遥かにマシだ。


《ご搭乗のお客様にご案内申し上げます、現在、小さな気流の乱れがございます。シートベルトを着用し、席をお立ちにならないよう、今しばらくお願い申し上げます。》


 機長のアナウンスが機内に流れる。このタイミングでのアナウンスは実に良い、日が昇らぬ内にまだ寝ている乗客を叩き起こすよりはずっと良い。寝ぼけたままアナウンスの内容が頭に入らないよりはずっと良い。これで乗客達が不用意に立ち上がって歩き回る事も無くなり、トラブルの原因は減った。寝起きにトイレに行きたい者には非常に困った事であろうが。また、ファーストクラスとビジネスクラスの間がカーテンで仕切られているのも良かった。下手に視界が通り、ビジネスクラスの客が銃に気付き大声を上げるなどあれば厄介極まりない。そうやって混乱が生まれれば乗っ取り犯の神経を苛立たせ、余計な行動に出る確率を上げてしまう。特に、このような素人共なら猶更だ。

 しかしどのタイミングで仕掛けたものだろうか、男達はコクピットドアの前、仕掛けるにはやや遠い。いかに素人とはいえ銃を持った相手に席を立ち斬り掛かろうなど、あっさりと返り討ちに合うのが目に見えている。となれば相手から接近するのを待つしかないが、手を叩いて呼べば素直に来てくれる訳でも無いだろうし、ビジネスクラスとの境目にあるトイレに行くのを期待するのも不確実にも程がある。待ちすぎて彼等が馬鹿を起こすのが先だったとしたら、それはあまりにも間抜けが過ぎる。

 「交渉」が失敗してからというもの、暇そうに立っていた二人の男達の様子は僅かに変化を見せていた。僅かながら彼らの立ち振る舞いに苛立ちの色が見て取れ、片割れの男は右に左にとうろついては窓の外を見たり、もう片方の男と険しい顔で小声のやり取りをしている。ヨハンナはそこにチャンスを見出していた。苛立ちや焦りが募ればそれだけ判断を誤り、こちらに有利なミスを犯してくれる。ただし、これには危険も当然含まれている。判断を誤ったり苛立ちに身を任せ急に馬鹿な真似を始めるとも限らないからだ。フライトアテンダントや一部の乗客に暴力を振るうならまだ良い方で、最悪持てる弾全てを用いて処刑を始めたりする恐れだってある。ヨハンナは男たちを注意深く観察しながら次の一手を思案した。


 数十分が過ぎ、男達の苛立ちも随分と目立ってきた。頻繁にコクピットを占拠する男と何らかのやり取りを繰り返してはファーストクラスの客室を見まわし、あからさまに落ち着きの無い様子を見せる。そろそろ仕掛けるべきか、ヨハンナはサキに目配せすると、片方の眉をピクリと動かして「いつでも」と応答する。こういった声を出せない状況下において、声を発さずとも身振りをせずとも意思疎通ができるのは本当に便利なものだと、ヨハンナは満足しながら窓の外に目を移した。窓の外は既に日が昇り、美しいメキシコ湾上空の朝焼けが眼前に広がっていた。

 ヨハンナはふと、その赤く焼けた空の中に影を認める。鳥か、そう一瞬考えたがそんな筈はない。時速数百キロで飛べる鳥など居る筈も無く、それは小型の航空機、流線型を基調としたシルエットから察するに戦闘機だろう。目を凝らせば旧ソビエト製のミグ戦闘機だと見て取れた。今の時代では骨董品も良い所であるが、旅の行く先バティスタ共和国では最新鋭の機体で、共食い整備とサードパーティー製の部品で細々と維持していたのだろうと考えると整備員たちの苦労が涙を誘う。

 だがそんな感傷に浸っている場合ではない、当然ながら合衆国はMIGなど運用しておらず、それがエスコートか要撃かはわからぬが上がって来たという事はバティスタ共和国の領空に入ったことを意味していた。もし本当にこの素人共が市街地に機体を落とそうというのなら、この機と並行して飛ぶ戦闘機が受けているに指令は間違いなくこの旅客機の撃墜であろう。人口密集地や大統領府などに墜落させて数千人規模の死者を出すことに比べれば旅客機の乗員乗客合わせて百数名の犠牲は安いものである。当然国際問題にはなるだろうが、バティスタ政府がその点を気にするとも思えなかった。合衆国の国境を跨いで南にある国家群は人命を軽視する傾向にある。特に政府役人が危機に曝されるとあれば猶更だ。


 まったくツイていない、折角の休暇が台無し、それだけでなく命の危険まで。なんだってこんな目に、いったい自分が何をしたというのかとヨハンナは思う。しかしシナトラが歌うように「これが人生さ」などと諦観する気も無いし、そのまま撃ち落されて気分だけでなく身体までメキシコ湾に沈められるのは御免被りたかった。海にスカイダイビングするのは一度や二度では無いにしても、落下傘無しでは流石に無理がある。

 ヨハンナは思案する、飛行時間はもう長くない、これまでの飛行が順調ならばあと1時間以内には陸が見えてくるはずだ。そうなれば陸の管制塔からミグ戦闘機に指令が飛び、パイロットは安全装置を解除、自分達の乗る双発旅客機にロックオンして…そこまで考えてからヨハンナは一旦止めた。撃墜までのプロセスを考える必要は無い。必要なのはこんな事態を招いたあの忌々しい素人ハイジャック犯どもをどう始末するか、それだけである。

 時間は無いが焦ってはいけない。焦りは思考を鈍らせ必ずミスを引き起こす。最早なりふり構ってはいられないが強引な手段に出ればやられるのは間違いなく此方なのだ。何か使える手は、と再度思案を巡らせれば、やはり思い当たる突破口は一つだけ。ビジネスクラスとファーストクラスの境目のトイレ。ヨハンナの座る通路の後方に位置し、通路を挟んだ機体中央にはギャレーも併設されている。ここだ、此処しかないだろう。一人ここに連れて仕留めれば勝機はある。よし、それで行こう。ヨハンナはサキに一瞬目配せし、僅かなアイコンタクトのみで「仕掛ける」旨を伝えた。


「すいません、ちょっと」


 ヨハンナはばつが悪そうな表情を取り繕いながらゆっくりと立ち上がり、片手をあげる。ファーストクラスを見張る男二人の視線がヨハンナに集中し、銃口がするりと胴を捉える。あからさまに男たちは苛立っている、些か強引であるし状況は芳しくないが、この手しかない。


「なんだ、座ってろ」


「あの、ちょっと、トイレに行っても? 眠る前にちょっとワインをやりすぎたみたいで」


 男たちは顔を見合わせ、大きなため息と舌打ち一つすると、片割れの男は銃口を上下に揺らして座れとジェスチャーを送りながらつかつかと歩み寄り、遂にヨハンナのその豊かな胸元に銃口が突き付けられる。が、ヨハンナは尚も食い下がる。ワインを飲んでいたのは事実であるし、ともすれば演技をせずとも尿意も感じて来る。良い歳をした大人の女が、男二人の目の前や他の乗客がいる中で失禁するなど恥どころの話ではない。どうか、頼む、お願いだ。と、情けない声で頼み込んだ。


「わかった、わかった。行け」


 情けない声と顔に折れた男はウンザリしたような表情をしながら銃を振って「さっさと行け」と機の後方を指す。片割れは動く気配が無い、これは僥倖だ。トイレは片割れの位置からは死角となって此方の動向を窺うことは出来ず、通路のカーテンは閉められビジネスクラスからも見えない。つまり完璧なキルゾーンであった。

 ヨハンナが女と言う事もあるのか、それともファーストクラスの乗客に反抗する根性があると思っていないのか、監視の為に着いてくる男は油断しきって当初向いていた銃口は下がり、何時でも撃てるような構えすらしていなかった。しまいにはトイレの扉を閉めてしまっても警戒どころかさも当然といった反応であった。さすがに開けたままではヨハンナも嫌ではあるが、あまりの不用心さに些か肩透かしを食らってしまう。

 ヨハンナは用を足しながら扉の向こうに立つ男が此方を向いているか、逆を向いているかを想像し、無力化のシミュレートを繰り返す。数度プッシュダガーを抜き、動作を確認するとバックルの鞘に納めて息を吐く。鉄火場は幾度も経験し、ナイフや素手での白兵戦も幾度も経験しているが、やはり実際にやり合うとなると何が起きるかはわからない物であるし、特に今回はたった一発の発砲もさせてはいけない上に声を出させてもいけない状況だ。こちらが何某かの抵抗をした事を悟られては、残りを排除する事が非常に難しくなってしまう。だが相手は素人、いつも通り、ただ殺すだけ。ヨハンナは心で反芻し、扉を開けた。


「いやぁ、ありがとう、助かったよ」


 男はギャレーの方を向いていた。水が流れる音の後、扉が開く音とヨハンナの心底安心したような声に振り向くと、銃を握った右の手首に鋭い痛みを感じた。手に力が入らず、声を出そうにも出ず、代わりに喉から熱い物が溢れ出す。男は信じられないという顔で眼前のヘテロクロミアの女を見る。つい先程のあの怯えた瞳とおどおどした態度は何処へ行ったのか、冷徹で、殺意すら感じない。まるで敵対する者の命を刈り取るのは当然の事だと言わんばかりの、相手の生命に対し全く頓着の無い顔であった。

喉を斬り裂かれた男は脚をもつれさせ、ギャレーへと押し込まれて仰向けに押し倒されると、胸、顎、側頭に連続して刃を突き立てられる。男はもがきながらゴボゴボと血と吐息を混ぜた濁った悲鳴を微かにあげるが、その断末魔は帰りを待つ相棒には届かない。ヨハンナはダメ押しに後頭部に刃を押し込み掻き回すように数度捻ると、遂に男は事切れ、糸が切れた人形の如く動かなくなった。

 すぐさま自動拳銃を腱を切り裂かれ力を失った右手からもぎ取り、スライドを引いて薬室、次に弾倉の順に装填されている弾を確認する。真鍮の先端に収まるのは濁った鉛色。それを見てヨハンナは安堵する。しかし同時に些か奇妙な疑問も感じた。

 機内で発砲した際に二次被害を最小限に留めようとする努力は素人の考えではない。偶然かも知れないが、敢えてこの弾を選択したのであればある程度の銃火器への知識が垣間見える。銃器の持ち込み方法と言い、此処まで周到な人間がこの男共が晒す様な醜態を見せるとは思えなかった。が、その疑問は一先ずは機外に投げ捨ててしまおう。ヨハンナは顔を青くするアテンダントの視線に気付き、思考を切り替えた。

 一連の凶行を目の当たりにしていたアテンダントに対し、ヨハンナは血塗れの人差し指を口に当て「静かに」とジェスチャーを送ると軽く周囲を見回す。朝食の準備中であったか、ギャレー内にはサンドイッチやコーヒーが用意されており、まだ暖めていない状態で、コーヒーは湯気も立っていないが少々空腹を覚える。だが、食事は全て片付いてからにしよう。ヨハンナはそう心で呟くと、アテンダントに紙エプロンとタオルをくれないかと頼んだ。


 コクピット付近で相棒が戻るのを待つ片割れの男は苛立っていた。たかが小便に時間を掛けすぎではないか? そう苛立ちと疑問とが綯い交ぜになった男は、ヨハンナが機体後方へと消えた通路側に移動する。すると男の眼がコーヒーとサンドイッチを載せたプレートを持ち、ギャレーからゆったりと現れるヨハンナを捉えた。

 量こそ少ないがしっかり血に濡れてしまった着衣をエプロンで隠し、コーヒーとサンドの載ったプレートを持ち、ぎこちない笑みを浮かべたヨハンナがゆっくりとした足取りで通路を機首方向へと歩いていく。


「おい、何だそれは。アルトゥーロはどうした。」


 男は聞く。アルトゥーロとは先程仕留めた男の名前だろうか。名前を出すとは本当に素人丸出しだな、とヨハンナは内心溜息をつく。今日日コンビニ強盗ですら名前では無くイニシャルや何某かの符号で呼び合うというのに。服に散った血糊を隠す為に苦し紛れで着けたエプロンに何の反応も無いのも警戒心の無さを示している。


「アルトゥーロ? あぁ、彼ならギャレーでコーヒー飲んでるよ。これを君とコクピットのもう一人に持って行けって、その…アルトゥーロが。」


 カタカタとプレートに載ったカップを揺らし、怯えた雰囲気を演出する。ヨハンナは銃でも突き付けられたか、断れずに持って行かされたのだという風に演技をして見せる。苛立つ男は溜息とともに首を左右に振りながら、ゆっくりとした足取りでヨハンナに歩み寄る。良いぞ、そのまま、あと数歩で「射程内」だ。ヨハンナの視界の端で、シートの背からサキの銀髪がちらと覗く。


「おいアルトゥーロ!」


 男がヨハンナの脇へと身を乗り出す。瞬間、サキの左腕が蛇のような裊さで男の首を捉え、自身の席へと引き摺りこむ。膝の上に倒れ込む男の後頭部に右手に握った刃が深々と突き刺さり、二、三度捻りを加え刃の届く範囲の脳組織を断ち切り掻き混ぜ破壊すると、男は目を見開いて暫しの痙攣の後、サキの腕の中で息絶える。溢れ出す血は膝に敷いた毛布に吸収され、着衣を血糊で汚すような失態は起こさずに済んでいた。

 一瞬の出来事、コクピットの一人には勿論の事、ファーストクラスの乗客達も何が起こったか理解していない。せいぜい隣や後ろの乗客が「男が転んだ」様に見えた程度であった。サキは男の頭部を毛布で包み通路に転がすと、ヨハンナがギャレーでやったのと同様に拳銃を確認する。同型の3Dプリンター拳銃、弾もヨハンナの確保した物と同様だ。

 男二人を無力化し、客室は制圧されヨハンナとサキは自由に動けるようになった。直ぐにアテンダントを呼び付けると、俄に騒がしくなる客室を静かにさせるよう要請し、二人は通路に転がした男の持ち物を検分し始める。コクピット制圧前の会話から察するに爆薬を隠し持っているはずで、それはコクピットの最後の一人を無力化する際に役に立つ。当然、飛行中の旅客機内で爆薬を使用するのは正気の沙汰では無いが、リミットが迫る中ではなり振りなど構っては居られない。用法用量さえ間違わなければ空中分解や急減圧と急降下で海面にダイブという事態は避けられる筈だ。恐らくは。

 だが困った事にこの男達はその用法用量については心得が無かったようだ。推測通り爆薬とお手製の起爆装置が懐から現れるが、その紐状爆薬は確かに施錠されたコクピットドアを破るには充分、いや、充分すぎる量だ。この量の爆薬を起爆すれば弾けたドアがコクピット内に飛び込み計器類を破壊し、パイロットを死傷させ、最悪窓を破損させて様々な物を機外に吸い出させる事となっただろう。結果論ではあるが、コクピットを明け渡した機長の判断は正しかったと言える。


「全く、素人め。」


 あまりの杜撰さに悪態をつきながら、ヨハンナは爆薬を適切な分量に切り分け、起爆装置を繋ぎ直す。爆薬量は五分の一、これでドアのロックのみを破壊することが可能だ。あくまでも過去の経験に則った物でしかないので、出来る事ならば使いたくは無かった。起爆装置が正常に動作してくれるとも限らない。

 左の窓から陽光が機内に差し込む中、ヨハンナとサキはコクピットドアまで向かう。ファーストクラスは俄にざわめき、上流層の客達はアテンダントに口々に質問を投げ掛ける。ハイジャック犯は死んだのか、あの二人──ヨハンナとサキは──何者なのか? とアテンダントさえ知り得ない答えを求め、それまで黙っていた反動の如く、乗客は言葉を溢れさせている。

ドアの前に立ち、アテンダントから一通りコクピットとのやり取りの仕方について教えてもらった後、ヨハンナは手に持ったトレーをアテンダントに差し出した。


「一つ、お手伝い頂けるかな?」


 ヨハンナは緑と橙の瞳でアテンダントを見据えて言った。


 機長は左の窓に見える戦闘機にこの先どのような結末が訪れるかを予見していた。自分の後ろで銃を手に苛立つ男もそれを見て自分達の未来がどうなるかを予測できぬほど馬鹿ではなく、それ故に行き場の無い憤りが所作となって表れていた。何から何まで首尾よく運ばない、畜生。そんな罵り声が口から漏れようとしたその時、男が手の内で弄ぶ拳銃のプラスチックの音だけが聞こえるコクピットにブザー音が響く。客室からのコールであった。コクピットドアの前を映し出すモニターに皆が視線を向け、ブザーに続く声に耳を傾けた。

 「コーヒーとサンドを」声の主はアテンダント、30代後半で、多少の怯えあるが落ち着いた様子でトレーを持つ彼女の様子がモニターに映し出されている。それ以外に人影は無い。少なくともコクピットを占拠する男の目には彼女しか映っていなかった。


「二人はどうした」


「え?」


「そこに居た俺の仲間はどうしたと聞いているんだ」


 男は問いただす。当然の事だ。本来ならば客室の仲間がカメラの画角に収まっているはずであるし、なにより仲間が一人ぐらい付いていてもおかしくは無いからだ。両手がトレーで塞がっているアテンダントが一人で反抗を試みる等とは思わないし、もし乗客が反乱を起こしたというならば余程の事でもない限り銃声の一つだってしてもおかしくは無い。今の所、その手の類の音は聞こえてこなかった。それでも、男の首筋には何かピリついた、嫌な感触がして、それがドアを開けるなと警告している様に感じていた。


「お二人は、その、後ろの様子を見に行って、ギャレーでコーヒーと朝食を。それで、貴方にも持って行けと」


 なるほど、もっともらしい理由だ。確かに喉も乾くし腹も空けて来る頃合いで、なによりこれから派手に散ってやろうというのだ、空腹のまま死ぬよりは最後に何か口にしておきたい気分になるのも判らないでもなかった。

 そうと思えば、客室の二人の善意を無下にするのも悪いだろうという気持ちが湧き、「わかった、ドアを開ける」と告げてインターホンを切ると、男は暗転したモニターから機長の方へと向き直り、ドアの開錠を指示した。機長が手元のスイッチを操作し、ドアのノブ付近で施錠が解除された音がする。内開きのドアが開け放たれ、男はそちらへと顔を向ける。


 銃声が二発、機内に轟いた。機が三人の男達に乗っ取られてから約二時間後の事だった。

 胸に二発の弾丸を浴びた男は仰け反り、力を失ってその場に尻もちを突くように崩れ落ちる。


「ブラック!ブラック!」


 コクピットドアの影から身を乗り出し銃を構えていたヨハンナが叫び、素早く身を翻して開いたドアの前から体を退ける。ヨハンナの拳銃はスライドに薬莢が噛んで排莢不良を引き起こし射撃不能となり、ヨハンナが叫び終わるよりも早くポジションを入れ替わったサキがコクピット内に踏み込んだ。

 再び銃声、拳銃を取り落し胸元で両手を眺めるようにしていた男にサキがとどめの二発を撃ち込んだ。胸に一発、額に一発。腹ごしらえをする間もなく、男は確実に息の根を止められた。


「クリア!」


 サキが叫び、落ちた拳銃を背後に蹴り飛ばす。故障排除した拳銃を手にヨハンナがコクピットに入り仰向けに倒れる男を覗き込む。男は計四発撃ち込まれた形であるが、そのいずれもが体内で停弾しており、コクピット周辺や計器類を傷つける事は無かったようであった。

 機体後部から騒めく声が聞こえてくる。「銃声だ」「何が起きているんだ」お決まりの言葉は想定内。あまりの出来事に機長も副機長も呆然としているが、そんな暇はない。


「あなた達は」


「ただのおせっかいだ。話してる暇はないぞ。隣りを飛んでる戦闘機にハイジャックは制圧したと伝えろ。でなきゃ全員揃って海水浴だぞ」

 

 戦々恐々としている機長らを尻目にヨハンナは親指と顎で機外を指す。こうしている間にいつ戦闘機のパイロットが兵装の安全装置を解除するか分かったものではない。生憎と外部との交信は操縦桿を握る二人に任されている。促されるままに機長はヘッドセットのマイクを直し外部との無線通信を始める。どこと交信するのか、ヨハンナにはわからなかったが大方バティスタの治安当局か空軍かはたまた…合衆国や欧州といった古くは西側と呼ばれた場所であればFBIであるとかICPOだと見当もつく。

 ふと、ある疑念が浮かぶ。ハイジャック犯を制圧したことで当面の脅威は去ったわけであるが、いざ地上に降り立った後、自分達の処遇はどうなるのか。間違いなく警察、バティスタの場合は国家警察といったか、とにかく西側文明社会のような待遇は望めないだろう事は想像に難くない。まったく、何度頭の中で廻った悪態だかわからないが、この馬鹿共のおかげで折角のバカンスが台無しである。ヨハンナは大きくため息をつき、機外に目を向ける。先程まで横を飛んでいた戦闘機が機の前方へと位置を変え、翼を振って「誘導に従え」の合図をしていた。

 アテンダントの乗客を宥める声が遠く聴こえ、事態が一先ずは収束した事を実感すると途端に喉の渇きを覚える。ヨハンナは粗末な3Dプリンター製の拳銃から弾を抜くとアテンダントを呼びつけて告げた。


「済まないがサンドイッチと、うんと熱いコーヒーを二杯。砂糖とミルクをたっぷり入れて」




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