邂逅、あるいは紫の花について

空烏 有架(カラクロアリカ)

運命の糸は緑色

 シトトゥの村には言い伝えがある。


『森の奥には行くな、恐ろしい魔物が棲んでいる。見つかれば喰われる』


 もちろん嘘だ。

 魔物なんていないけれど、森は深く入り組んでいて、大人でも迷うことがある。もし森でいなくなったら容易には探せない。だから危険に近づかないように、そう言い聞かせて子どもを制御したいだけ。

 ――そんな大人のエゴを理解できるような歳ではあったが、シトトゥは人一倍冒険心が強かった。


 革の鞄にあれこれ詰め込んで、シトトゥはたった一人で森の入り口に立った。

 彼には策がある。家から一番長いロープを持ってきていた。それを適当な樹や岩に結んで端を持っていれば、ちゃんと村に帰ってこられるという算段だ。

 結んだのを誰かに見つかって解かれたりしないよう、あらかじめ深い緑色に塗ってある。森と同じ色ならぱっと見ただけではわからないだろう。


 そうして意気揚々と歩き出した少年は、およそ三時間後には途方に暮れていた。


 ロープはあっという間に終わってしまった。もちろん、そんなこともあろうかと予備を持ってきていたから、それを繋いで延長した。あー……持ってきたのは全部繋いだから、三回は繰り返した計算だ。

 けれども今シトトゥの手の中にロープの端はない。空の両手には赤く切り傷が滲んでいるだけだった。


 なにもかも順調に行くはずだったシトトゥの冒険計画には穴があった。歩き慣れない森の中、彼は何度も草や岩に足を取られて転び、果ては大きな獣に追いかけられ、気づけばロープを手放してめちゃくちゃに走り回っていたのだ。

 曖昧な記憶を頼りにおろおろとロープを探すけれど、念入りに塗った緑色のせいか、いくら歩いても見つけられない。


 ――ああ、完全に迷っちゃった。もう終わりだ。僕はここで獣の餌になって死ぬんだ。


 あれだけの長さのロープを使い果たしたほどの距離を進んだのだから、大人だってとても探しに来られないだろう。

 シトトゥは絶望した。なまじ少しばかり頭が良かったせいで、自分の置かれた状況の悲惨さを正しくはっきりと理解できてしまった。


 項垂れ、地面にへたり込むようにして腰を下ろし、なすすべなく鞄を漁る。荷物のほとんどはロープだったから食糧もわずか。

 こんな小さな果物ひとつで、シトトゥの心はいつまで持つか。

 涙が溢れてきて、果実の上にぽとりと落ちる。透明な雫は赤い果皮の上をつるりと滑り落ちた。


 ――ぴちゃん。


 そのとき、遠くから何かが聞こえた。

 水の滴る音。いや、あれは人の声のようでもある。獣にしては柔らかく、子どもを寝かしつける母の歌のように優しく、熟れた果物のように甘くみずみずしい――女の子の歌声が。


 あおは はのいろ みどりいろ

 あかは みのいろ あまくなる

 きいろ はのいろ かれおちた

 なんにもない えだは くろ

 そらから ふるふる しろ しろ しろ


 メロディには聞き覚えがあったが、歌詞はシトトゥの知るそれとまったく違う。

 しかも声の主はゆっくり近づいてきているようだった。少年は思わず立ち上がり、奥歯を鳴らして傍の木に張り付く。

 ――魔物が、いるんだ。本当に。嘘じゃなかった。

 隠れたいけれど、どうしてか、声がどこから寄ってくるのかわからない。右でもない、左でもない、前でも、後ろからでもない……。


「ばあ」

「~ッ!!!」


 それは上から来た。さかさまの顔。ちょうどシトトゥが縋っていた樹の、枝にぶら下がるようにして現れた。

 少年は悲鳴も上げられずにその場にへたり込み、魔物を見上げる。長い髪がばさりと垂れ下がってシトトゥの額を擽っていた。陰になって暗い顔の中で、薄紫色の瞳だけがきらきらと輝いている。


 魔物はけたけた笑いながら、ひょいとシトトゥの前に降り立った。

 姿はほとんど人間と同じだった。顔の形も眼の数も、手足の感じもシトトゥと同じ。髪はおばあさんのように真っ白で、服も意外と布でできたきれいなのを着ている。

 顔立ちは優しく、大きな瞳は宝石のように美しかった。そう、――出逢った場所が森の中ではなかったら、もしここが太陽に照らされた村の広場だったとしたら、一目で恋に落ちてしまうくらいには可憐な少女だった。


「めずらしい、にんげんのこどもだ。まいご?」

「……、……」


 恐ろしくて声が出ない。魔物と口を聞いていいかどうかもわからないけれど、無視するのはもっと怖かったので、シトトゥは黙ったままがくがくと頷いた。

 魔物の少女はそんな彼に眼を細めて「そんなにこわがらないでよ」と笑う。


「だいじょうぶ、あんたをたべたりしないよ。まものじゃないから」

「……ち、がうの?」

「わかんないけど、『にんげんのこどもをたべるヤツ』がまものなら、ちがうねえ」

「じゃ、じゃあ、だれ?」

「さあ。わかんないの。みんな、まものだー!、しかいわないんだもん」


 だからあたしもわかんないんだ、と言って、彼女はシトトゥの顔を覗き込んだ。


「あんたは、あたし、なんだとおもう?」


 紫水晶アメシストの瞳に魅入られて、少年はごくりと息を呑む。なんて恐ろしいのだろう。なんて美しいのだろう。この中に閉じ込められたい。

 ろくに恋も知らなかった幼い少年の中に、そんな想いが花開くように広がった。

 この子が欲しい。いいや、……この子に、求められたい。


 シトトゥのからからに乾いた唇がかすかに動いて、知らず知らずのうちにこう答えた。


「……かみ、さま」


 僕の女神様。


 後から思えばそれは彼女の魔力の為せる業だったろう。ある意味、魔物で間違いなかったのだ。一瞬で少年を魅了して魂を虜にしてしまう、邪悪で恐ろしく蠱惑的な存在だった。

 シトトゥは思った。――僕はこの子に出逢うために森に入ったんだ。

 最初の決意などどこかに消え去っていた。冒険がしたいとか、森に詳しくなりたいとか、大人たちを驚かせてやりたいとか、色々あったはずなのに。

 今はそのどれもが、少女の魅力に及ばない。


 魔物はたぶんシトトゥの返答を意外に思ったのだろう。ちょっと小首をかしげて「おもしろい」と評したが、その仕草さえも神話の一場面のようだった。



 それから魔物はシトトゥの手を引いて、村まで送ってくれた。

 彼女は村の大人たちの何倍もこの森について詳しいらしい。たまに人間とも会うので、それで言葉がわかるのだと言っていた。


 彼女は長年独りぼっちだったそうで、ゆえに名前がないのだという。呼んでくれる人がいないから、と言う横顔が少し寂しげで、堪らなくなったシトトゥは、それを最初の贈り物にした。

 美しい紫の瞳を花になぞらえて、紫露草リューヴァリール、ちぢめてルルと。

 ルルは最初きょとんとしていたが、シトトゥが愛情込めて彼女をそう呼ぶと、花が綻ぶように笑った。




 二人は十年後に結婚する。

 そのころすでにルルは村の一員になっていたから、誰も反対しなかったそうだ。


 (終)

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