門出

白河夜船

門出

 父さん。

 貴方はあの人を木偶のように思っていましたけれど、僕にしてみれば家中ここで人間と呼ぶべき存在は母と兄――ただ、この二人だけでした。

 貴方は気に留めもしませんでしたが、僕と母はずっと針のむしろだったのですよ。奥様が病臥されてから間もなく、貴方は女中であった母を後妻のように扱い始めた。奥様が闘病中であったにも関わらず、何の遠慮も、葛藤もなく。どうなるかなど、分かりきっていたでしょうに。

 母は優しい人でした。

 優しくて温和しい人でした。

 色々なことを我慢して、我慢して、我慢して、弱音も零さず死んでしまった。どうして母を………貴方に云っても、仕様がないことですね。ああ。まだ。僕の話を聞いて下さい。

 それから、それから、僕は独りになりました。この屋敷に本当の味方など誰も居なくて。それでも僕の存在が許されたのは、奥様の子――兄の身体が弱かったからです。病気がちで、いつも臥せっていて、肉体的脆さを補うだけの長所があるわけでもない。ですから皆、明に暗に思っていました。

「あれは出来損ないの、穀潰しだ」って。

 父さん。貴方もそうだったのでしょう?

 まだ。まだ、聞いて下さい。

 初めて会ったのは、いつだったかな。もう随分昔なので、細かいことはあんまり覚えていないんですけど、その瞬間の情景と感情は今でもはっきり思い出せます。

 母が死んでから、ずっと悲しくて、痛くて、苦しくて、でも情けないところを見られると、視線に混ざる悪意を感じて、余計辛くなってしまって。泣きたい時は、いつも隠れて泣いていました。あの時も、そう。泣き場所を探してたんです。物陰に潜むようにして庭を歩いていたら、小さな離れ家を見つけました。

 母屋から遠い、樹々に埋もれたその場所は、どこか浮世離れした雰囲気で。寝物語に母が語った迷い家とはこれかしら、と幼い僕は真面目に考えていたような気がします。

 迷い家は無人らしいのですが、目前の家には子供がいました。僕より少し年上の、でも年上だということ以外、見た目からは何も判じられない奇妙な子供。

 戸惑うままに佇んでいたら、縁側でぼんやり空を眺めていたその子供が、兄が、僕に気づいて笑った――笑ったんです。一切他意のない相好でした。嬉しかったな。久しぶりに、本当に久しぶりに、人の笑顔を見たような気がして。

 それからです。あの場所へ通うようになったのは。貴方も、屋敷の者も、あまりいい顔はしませんでしたが、そんなことどうでも良かった。だって、彼処でだけ、僕は真面に息を吸えたんですから。

 まだ。まだです。まだ、聞いて下さい。

 どうにか小康を得た奥様は、子供を作れない身体になっていました。それでも跡継は必要です。

 父さんは僕に、医者になれと仰いましたね。医者になって医院を継げ、と。事によっては堕ろされていてもおかしくなかった、妾腹の身の上で、上等な勉学の機会を与えられ、あまつさえ将来まで約束される。これが非常な幸運であることは、当時の僕にも分かっていました。でも正直、気乗りはしなかったんです。

 母同様、良いように使われている気がして。でも医者になれば、臥せりがちな兄を治してやれるかもしれない。そう思えばこそ、僕は、


 今になって考えると莫迦ばかでした。

 最も質が悪い病根は、別の場所にあったというのに。


 大学へ入った頃でしたね。あの人が肺を病んだのは。未熟者ながら、僕は一所懸命兄を診ました。症状が軽い内に病気を見つけられたから、丁寧に治療すれば存外長く保つかもしれない。そう、希望的なことを話して……

 坂を転がるように。とは、ああいう状態を云うんでしょう。一度体調を崩してからは、あっという間だった。

 まだ、聞いて下さい。

 父さん。

 気づいていないとお思いでしたか。僕は兄を見てたんです。この家の、誰よりもよく見てたんです。今際の様子と死体を観察すれば、直ぐ分かりましたよ。あの人は、兄は、病死じゃなかった。これでも医学生です。使ったものの見当は、概ね付いてる。

「穀潰しだ」

 そう、思ってらしたんでしょう。

 奥様がなってからは、たがが外れた。今度の情人ひとには一体幾ら出しました。体面を捨てきれないから無碍にも出来ない。金の掛かる長患いは、さぞ、―――――



 人でなし。



 呟いたところで青年は、畳の上に転がる男がいつの間にか事切れているのに気がついた。無表情のまま、血濡れた肉塊を思い切り蹴る。

 終わってみると、虚しさばかりが身に沁みる。

 刃物を置いて、汚れた着物を剥ぎ取りながら、庭に降りた。ポンプ式井戸の傍にあった木桶に水を汲み、返り血を雪ぐ。冬夜の水は痛いほど冷たかったが、穢れた身で兄に触るわけにもいかない。

 予て用意していた旅装に着替えてから、自室へ向かった。月がよく冴えている。洋燈ランプを使う必要はなさそうだ。

 仄白い月光が射し込む窓辺に寄って、青年は机上の兄を抱き上げた。

「終わったよ」

 と、囁き掛ける。藍染めの風呂敷に包まれた壷中から返事が聞こえるはずもなく、半分は己に向けた独り言だ。兄を抱く手に力を込めると、胸を苛む殺伐とした寂寥感が和らいだ。

 包みには、母の位牌と骨片も収まっている。本当は全てを連れて行きたいのだが、まだ家に居た兄と違って、母は納骨堂に入って久しかった。壺ごと連れ出すには、相応の手間が掛かる。

 連れ出せたところで、だ。骨壺二つは嵩張るし、流石に目立ってしまうだろう。長い旅にはならないと思うが、捕まるのも本意ではない。悪目立ちしない程度の旅姿が望ましかった。

 最低限の荷物を持って、家を出る。

 夜道を進みながら、青年はこれからどこへ行こう、と考えた。事前に下調べをして、幾らか候補は絞っている。しかし、道すがら心惹かれる場所があるかもしれない。目的地はあってないようなものであり、最後の瞬間まで青年は真実自由なのだった。

 自由。

 口の中で、呟いてみる。抱えた骨壺をそっと撫でた。自由。楽しいような心地になりかけている自分に気づいて、苦笑する。旅というのは、こんな面白いものだったのか。

 なぁんだ。行き着く先が同じなら、とっとと一緒に家出してれば良かった。

 足取りは軽く、道はどこへでも続いているような気がする。母と兄に手を引かれ、青年は晴れやかに月影溢れる薄墨色の黄泉路を歩いた。

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門出 白河夜船 @sirakawayohune

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