18:夜更かし

 部屋に戻ってからも、頭の芯が痺れたような興奮は続いていた。

 それは、ローワンさんも同じだったようだ。


 明かりを灯して、向かい合って、どちらからともなく手帳や帳面を開く。

 最初のうちは二人、そのまま黙々と自分たちの手元に集中していた。


 人よりも大きな細長い体。

 白い鱗の輝き。

 滝の音。

 その中を遡り、やがて空の中に消えていった光。


 目を閉じれば思い出せるのに、紙の上に再現しきれないことがもどかしい。


「美しい光景でしたね」


 ローワンさんが、わたしの手元を眺めて呟いた。

 その視線に込められた熱は、わたしの拙い線を通して、さっきの光景を思い出しているみたいだった。


「はい。あの……うまく描けなくて、すみません」

「そんなことはないですよ」


 ローワンさんが身を乗り出す。

 その指先が、わたしが描いた蛇の姿を辿る。

 体をくねらせながら、滝壺に飛び込む姿。


「よく……描けていると思います。こうして見ていると先ほどの光景の素晴らしさが、ちゃんと思い出せますよ」

「それでも、実際に見たあの光景を表現しきれている気がしなくて」

「それは僕も同じです。どれだけ言葉を尽くしても、あの光景を表現できない」


 視線をあげれば、深い緑の瞳と目が合う。

 そのまま、優しく微笑まれる。


「ローワンさんでも、うまく書けないことがあるのですか?」


 わたしの質問に、ローワンさんは大げさなくらいに頷いた。


「それはもちろん。この世界には面白いものがたくさんあります。それを全て書き留めたい。でも、僕が言葉にしてしまうと、その端から面白さがわからなくなるような、そんな気分ばかり味わっていますよ」


 ローワンさんには申し訳ないけれど、それはわたしにとっては、とても勇気づけられる言葉だった。

 うまくいかないと悩んでいるのは、わたしだけじゃない。ローワンさんも悩んでいる。悩んで、それでも書いているんだ。


「それでも……いや、だからかもしれません。僕は見たいのです。その神秘の全てを。そして、それを記録したい」


 ローワンさんの視線が、またわたしが描いた蛇に向けられる。


「そのためには、イリスさん、あなたのスケッチが、僕には必要なんです。あなたが必要なんですよ」

「……は、い」


 まっすぐな言葉に頷きを返す。


「イリスさん」

「はい……?」


 熱のこもったローワンさんの呼びかけ。

 視線をあげれば、ローワンさんの顔が思いがけず近くにあった。

 その近さに息を止めて体を固くする。


 ごく近い距離で言葉もなく見つめ合う。

 わたしをまっすぐに見る緑色の瞳が、何かに驚いたように見開かれて──。


「あ、すみません。話に夢中で」


 ローワンさんは乗り出していた体を引っ込めて、大きな手で口元を覆った。

 そばかすの浮いた頬に赤みがさして見えるのは、灯りのせいかもしれない。


「いえ、あの……」


 何を言えば良いのかもわからなくて、でもローワンさんの慌てぶりが申し訳なくて、わたしはとにかく思いついた言葉をそのまま伝えた。


「嫌、ではなかった、です」


 ローワンさんは口元を覆ったまま、深く、溜息をついた。


「なら良いのですが。いえ、良くはないのですけど。ああ、いえ、駄目という意味ではなくてですね」


 わたしは瞬きをして首を傾けた。

 ローワンさんが何を言おうとしているのか、わからない。


「あの、ローワンさん……?」

「いいえ、なんでもありません」


 ローワンさんはもう一度溜息をついて、ようやく口元を覆っていた手を外した。


「それよりも、今は先ほどの記録を。それとも、疲れたなら今日はもう休んで明日にしましょうか?」


 わたしを気遣うような言葉に、大きく首を振った。


「いえ、わたしも……描いていたい、です」


 ほっとしたようにローワンさんが目を細める。


「それなら良かった。いくつか気になるところがあって、確認したいとも思っていたんです」

「はい……あの、わたしが覚えている、ところなら」

「巫女が着ていた服なんですけど、どのくらい見えましたか?」


 ローワンさんの言葉に応えるために、わたしはペンを動かす。


 岩場の様子。

 最初に上がった女の人の姿。

 三人の女の子──巫女たち。

 女の人が手にしていた器。

 そこから水をかける様子。


 ちゃんと見えなかった部分もあるし、うまく描けないところもある。

 それでも、言葉を補いながら描いてゆく。

 ローワンさんは頷いて、わたしのスケッチの隣に言葉を足してゆく。


 そうやってローワンさんが言葉を足してゆくのがなんだかくすぐったくて、嬉しくて、わたしは笑ってしまった。

 ローワンさんが視線をあげて、わたしの表情を見て、同じように笑う。

 夜中、二人で帳面を挟んで、わたしは絵をローワンさんは言葉を残して、そうやってお互いに笑いあっていた。


 もちろん、静かな夜に遠慮して、声は忍ばせていたけれど。


「そうだ、イリスさん、サインを書いたらどうでしょう」


 わたしの帳面と自分の手帳を見比べながらメモを取っていたローワンさんが、突然そう言って視線をあげた。


「サイン……ですか?」

「はい、せっかく名前が書けるようになったわけですし。こうしてスケッチした脇に名前を書いておけば、これがイリスさんの作品になります」

「作品なんて……わたし、そんな、ちゃんとしたものじゃ、なくて」

「いいえ。これはイリスさんの作品です。ですから、サインを書きましょう」


 ほらここに、と白い蛇の姿を描いた、その右下辺りを指さされる。

 困ってローワンさんを見たけど、その表情に引くつもりは感じられなかった。


 仕方なしにペンを持ち上げる。

 練習で何度か書いた名前、ちゃんと書けるだろうか。


 頭の中で、ローワンさんが書いてくれたお手本を思い出す。

 ローワンさんは、イリス、と普段の文字よりもずっと時間をかけて、丁寧に書いてくれた。


 一回深呼吸。

 それから、その空白部分にペンを走らせる。

 少し緊張しながらイリスと綴れば、ローワンさんが満足そうに頷いた。


「これで、この絵はイリスさんの作品になりました。これからも、ぜひサインを入れてくださいね」


 わたしは瞬きをして、自分で書いた自分の名前を見る。

 こうやって見れば、それはなんだかとても誇らしいものだった。


 そうしてローワンさんとわたしはすっかり夜更かししてしまい、翌日あくびをしながら目を覚ましたときにはもうほとんどお昼と言ってもいい頃だった。

 食事を運んでくれた村の人に、なんだか呆れたように笑われている気がする。

 ローワンさんと顔を見合わせて、なんだか気恥ずかしかったのだけど、夜中にそうしていたみたいに二人で笑い合った。




『滝と巫女と神様』 完




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学者さまのスケッチ係 くれは @kurehaa

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