あの夏への扉は見つかったかい?

おこばち妙見

第1話 猫よ! 猫よ!

 猫のピートが新聞紙を汚れた足で横切った。

 ぼくは叱るけど、まるで堪えた様子はない。

 縁側をゴロゴロと転がりながら、飛び込んできた蝶を追いかけている。

 仕方がないやつだ。

 ぼくは新聞を拾って、泥汚れを軽く払った。

 月面基地を建てる時代に、紙の新聞かって?

 料金は高いけど、いちおうあるにはあるんだ。

 電子版はどうも苦手でね。

 それにほら、古新聞には色々使い道があるだろう。

 物を包んだり、薪のたき付けにしたり。

 見出しにはこうある。


『竜宮院博士の医療用ナノロボット、量産化に成功』


『あらゆる病魔の克服なるか』


 竜宮院博士といえば、ナノロボットに関する世界的な権威だ。

 遠い昔、ぼくが生まれるずっと前。

 人々がまだ科学というものに絶対の信頼を置いていた頃。

 世界を東西に分割し、互いに睨み合う二つの超大国があった。

 人類の全てを抹殺することもできる終末兵器を競うようにして作り、世界は常に緊張を強いられた。

 相手よりも、より優れた武器を作るために湯水のように資金と人員がつぎ込まれ、科学は比類なき発展を遂げた。

 ついには人類を夜空に浮かぶ月にまで至らせたんだ。

 しかし刃を突きつけ合う緊張の時代は終わりを迎える。

 仕えるべき党を失ってもなお、彼らの戦いは終わることがなかった。

 彼らを人は、放浪者――ドリフターと呼んだ。

 歴史の影に埋もれ、彼らとその遺産を継ぐ誰かは今でもきっと、世界のどこかにいるのだろう。

 そんな彼らの力が、かつて一人の少女の命を救った。

 彼女と初めて出会ったのは、それほど遠くはない昔。

 それでも、一人の人間にとっては遠い昔だ。

 世界的な異常気象は深刻化し、不安定な経済は格差の拡大と治安の悪化を招いていた。

 暗い時代。

 かつて豊かだったこの国も、すっかり落ちぶれたと周りの大人たちは嘆いていた。

 でも、ぼくにしてみれば生まれたときからそんな調子だったから、まったく実感が沸かない。

 これは、そんな時代の物語。

 あれ、いつだっけ。ああそうそう、たしか元号が令和の一桁くらいだ。

 最近物忘れが激しくてね。

 いやまてよ、平成の末期だったかも。

 さすがに大正や昭和じゃない。

 あれ、文久二年の春だったかな? いや慶応三年?

 計算機はどこだ。

 新聞の日付からぼくの年齢を引いて一七を足せば……見つからない。

 二一世紀初頭なのは間違いないんだけどな。

 まあいい、たいした問題じゃない。

 そう、ぼくがこれからする話では、時間は問題にならない。

 時間なんてものは、縦横高さの三次元にもう一軸加えた、ただの座標に過ぎないからだ。

 きっかけは、歴史的には些細なこと。

 でも、ぼくにしてみれば生きるか死ぬかの大事件だったんだ。

 ぼくの腹には今もあの時の傷が残っている。一生消えない傷だ。

 えっ? 盲腸だけど、それが何か?

 バカにしないでもらおうか。盲腸炎を放置すれば普通に死ぬからね。

 異常を感じたらすぐに病院へ行きましょう。

 

 *


 腹が痛い。それも、猛烈に。

 ただの食あたり? 違う。こんな痛みなんて今まで経験したこともない。

 なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ!

 へその斜め下、右側の骨盤寄り。

 痛みはそこから来ているらしい。

 ノートに汗の染みが広がる。

 脂汗をこんなに流した事なんて、一度もない。

 変だ。変だ。変だ。

 こんな事ってあり得ない。どうしたんだよ、いったい何があったんだよ――。

 シャープペンシルを握る手の感覚がない。

 まるで他人の手みたいにぼくの意思に反して震える。

 汗だくになった手のひらの中で買ったばかりの――一本百円、プラス消費税の――高級ブランドは軋みながら砕け散った。

 おいおい、有機ガラス――ようはアクリルだけど、こう呼んだ方が硬そう――の高級百円シャープペンを握りつぶすような怪力がぼくに?

 これが秘められし力、ってやつかい?

 ぼくも漫画やアニメのヒーローみたいに偉大な父親の息子だったりする?

 いやいや、ぼくの父親は中小企業で血反吐を吐きながら、家族を支えるために泥臭く戦うBLACK企業戦士だ。

 目の前の景色が回り始める。

 体が熱い。焼けるように暑い。カラカラの喉が張り付いて、声も出ない。

 いやそれどころか息ができない!

 ぼくの苦しみなんてどこ吹く風、崩れゆく世界に全く何の興味も持たない教師の声が遠くなっていく。

 代わりに近づいてきたのは、リノリウムのくすんだ緑。

 ワックスも禄にかけられていない。

 埃が綿になっているのが見えた。汚い床だなあ。


「どうし――、しっかり――山田!」


 誰かがぼくを呼ぶ声がするけど、まるで太鼓の中に入ったみたいに歪んで聞こえる。

 呼吸。呼吸ってどうするんだっけ?

 口だけがパクパクと瀕死の金魚みたいに動くけど、酸素はまるっきり入ってこない。

 だめだ。呼吸の仕方を思い出せない。

 ざわめくクラスメート。

 サイレンの甲高い音。

 赤い光。

 ぼくは運が良い。消防署のすぐ近くの学校に通っているんだから。

 保健室より先に病院送りだ。

 白衣を着て、ヘルメットをかぶったお兄さんたちがぼくを持ち上げ、ストレッチャーに乗せる。

 女子の声がいくつか耳に届いた。


「ねえねえあの人、格好よくない?」


「いや~ん、素敵ぃ!」


 イケメン見られて良かったな、ぼくに感謝しろよクソ女ども。

 つか、なんでぼくの心配しないの。

 ハンサムで逞しい救急救命士のお兄さんも、女子高生にキャーキャー言われるのは悪い気しないだろ?

 だから早く何とかしてくれ。


「あっ」


 あっ、じゃないだろ。


「おい、何やってる。ヤバいぞ」


「す、すいません!」


「しーっ! 患者に聞こえる! 黙っておいてやるから早くしろ!」


 いやいやいや! 待ってくれ、いったい何がおこってるんだ。

 はっきり言ってくれ!

 待ってくれ。

 ぼくは……死ぬのか?


「い、今マスクをつけますからね~。何でもありませんからね~。本当ですからね~」


 呼吸が楽になる。

 おお、これは酸素マスク。

 本気でありがたい。

 本当に助かるんだろうな。

 ガラガラとストレッチャーに乗って救急車へ。

 サイレンの音が、ずっと同じ高さで続く。

 ぼくが自分で乗っているからドップラー効果が働かないんだ。

 ドップラー効果が何なのかよく知らないけど。

 ガラガラとやかましいストレッチャーの車輪。

 顔にかけられた透明な呼吸器。

 やたらにギラギラとしたレンコンみたいな照明。

 消毒液の匂いと、緑色の手術衣を来た医者や看護師らしき影。


「バイタルは?」


「オーケーです」


「よし。緊急手術だ」


 暗くなる世界。

 遠くなっていく音。

 考えられない寒さ。

 その中で孤独感だけがひときわに強く――。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 死にたくない。死にたくない。死にたくない!

 どうして。

 なぜ。

 ぼくがこんな目に。

 やりたいことはたくさんあった。

 読んでない本もいっぱいあるし、クリアしてないゲームだってある。

 いつも楽しみに観ているアニメだって、あと二回で最終回なのに。

 母さん。どこ?

 ぼくを、ぼくを一人にしないでよ――。


「意識レベル低下。麻酔が効いて――」


「よし」


 *


 夢を見ていた。猫がヘルメットを被ってぼくを指さしている。


「バイタルヨシ! 今日も一日ご安全に!」


 ぼくはその猫に言ってやった。

 だってぼくは全身が血まみれになっていたんだから。


「何見てヨシって言ったんですか!」


 夢は無意識に沈む記憶や潜在意識がイメージとして現れるのだという。

 猫が喋るくらいは普通だ。夢なんだから。

 とにかくぼくは現実に帰ってきた。

 最初に戻ったのは、聴覚。

 ピッ、ピッ、ピッ、とリズミカルに電子音が鳴る。

 ドラマや映画で知っている、心臓の鼓動を図る機械だ。

 たしか、心電図と言っただろうか。

 この電子音は、ぼくの心臓の鼓動らしい。

 つまり、生きてる。


「おはよう。ここ、どこだかわかる?」


「――ッ!!」


 マスクをした白衣の女性に声をかけられ、反射的に起き上がろうとしたら、右腹に鈍い痛みが走った。

 声にならないうめき声は、まるで他人の声みたいにひどいものだった。


「動いちゃだめ。あなたは手術を終えて、麻酔から覚めたばかりなんだから。絶対安静。いいわね?」


 ぼくは視線だけで頷く。

 絶対安静もなにも、動きたくても動けない。

 声も出せない。

 いったい、ぼくの身体はどうなってしまったんだろうか。

 マスクから送り込まれる酸素を心持ち深めに吸い込むと、周囲の様子がどうやら見えてくる。

 ぼくは細いベッドに寝かされ、酸素マスクと点滴が繋がれているらしい。

 たぶん、集中治療室というやつだ。

 他にも同じようなベッドが二つばかり並んでいるけど、誰も寝ていない。


「あ、先生が来たわ」


 視界に入ってきたのは、白衣を着て首に聴診器を提げた――たぶん、三十台半ばくらいの――スマートで背の高い男だった。

 無造作に髪をなでつけ、少し無精髭が伸びているけど、こんなのが担任だったら女子の人気を集めまくって男子から恨まれるだろうな、という程度には整った顔立ちをしている。


「やあ。ええと、山田太郎やまだたろう君。僕は城一郎じょう いちろう。君の主治医だ。専門は外科」


「……あ……う……」


 ぼくは何かを――よろしくとか、そういった月並みな挨拶――をしようとしたけど、どうしてもろれつが回らなかった。

 舌もピリピリと痺れているもんな。


「ああ、無理はしなくていいよ、黙って聞いてくれれば。ここは裏戸市民病院。きみは授業中に倒れ、救急車でここに運ばれてきたんだよ。覚えてるかな?」


 ぼくは視線だけでかぶりを振る。


「君の病名は急性虫垂炎……つまり、盲腸だ。いやいや、バカにしちゃいけない。苦しいのは君も知っての通りだし、放っておけば普通に死ぬ。だが安心したまえ、手術は成功だ。榊田くん。例のモノを」


「はい先生」


 看護師がステンレスのトレイに何かを載せてきた。かすかに傾けてくれるので、中が見える。


「ほら、これ見て」


「――!」


 心電図の音が乱れる。

 載っていたのは、赤黒い肉塊だった。

 大きさは親指ほどで、血にまみれててらてらと光っている。


「これが君の虫垂だ。どうだ、すごく腫れているだろう、これじゃあ倒れるのも仕方がないよなあ。前兆とか無かった? 少し前から違和感とかあったと思うけど」


 病人になんてモノを見せるんだ、と抗議したくなったが、トレイはすぐに片付けられた。


「驚いたかい? だが君の身体の一部だし、見せておいたほうがいいかな、と思ってね。ほら、歯医者だって抜いた歯を見せてくれるだろう?」


 城先生だっけ? あなたは外科医でしょう。歯と内臓を同列に……ああ、同じようなものか。なんか納得しちゃったよ。


「まあ、一週間ないし十日ほど入院してもらう事になるだろうね。若いからすぐ退院できると思うよ。じゃ、僕はこれで。また来るから」


 心電図の音が収まるのを確認して、城医師は部屋を出て行った。

 ぼくは呼気で白く曇るマスクを視界の隅に捉えながら、ぼんやりと天井を見上げた。

 一時はどうなることがと思ったけど、どうやら死ぬことはないらしい。

 安心すると途端に眠気が襲ってきて、ぼくは再び闇の底へと沈んでいった。

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