第2話 異性の客

 地獄というのはこのことだ。

 尿道にカテーテルが入っている間は、どれだけ点滴を受けようともおしっこは勝手に出て行く。

 しかしカテーテルが抜かれると、自力で歩いてトイレまで行かなければならない。


「先生、車椅子は……」


「ダメだ」


 残酷だなあ。

 食事ができないので点滴をどんどん打たれる。

 空調が効いた病室でじっとしていると、大して汗もかかない。

 つまり、トイレが近くなる。

 トイレまではおよそ三〇メートル。

 普段であれば何てことのない距離だが、今は違う。

 七~八センチほどの手術跡は糸で縫われ、もう一つ近くには膿を絞り出すためのチューブが埋め込まれている。

 つまり、切腹して筒を刺されているのと同じだ。

 切腹を縫い合わせた違和感ゴリゴリの身体で、点滴を吊すスタンドを杖代わりに一歩、また一歩と歩かなければならない。

 足を持ち上げるだけでも激痛が走る。

 それでもここで漏らすわけにはいかない。

 ぼくはもう高校生なんだし、お漏らしなんて恥ずかしすぎる。

 あと五メートル……四メートル……くそっ、ここから先が長いんだ。

 ようやっとトイレに来たと思えば、すごく重たい――ただし、普段であれば何の重さも感じない――引き戸を引いて、中に入る。

 試練はまだまだ続く。

 カップでおしっこを汲み、壁に吊られたビニール袋に入れなければならないのだ!

 もちろん名前が書いてあるぞ!

 検査にも使うし、どの程度おしっこを出したか病院側で把握したいかららしい。

 それがまた大変だ。

 こぼすと洒落にならないくらい大変なことになる……。


「……ふう」


 どうやら今回は間に合ったみたいだ。

 ぼくは男だから立ってするけど、女の人は大変だろうな。

 一度座ると立ち上がるのがまた地獄なんだ。

 問題は、帰りもまた同じ距離を歩いて病室に戻らなければいけない、ってことだ。

 痛み止めの注射は、やたらめったら打ってもらえるわけじゃない。

 一種の麻薬だから当然だよね。

 それでもどうしてもキツいときは打ってくれるけど、効き目が切れるとやっぱり痛い。

 痛みを消すってことは、それだけ負荷に気付かないってことだから、後でツケが回ってくるんだ。

 長い長い旅を終えて、ぼくはようやくベッドに戻る。

 足を載せるのだって一苦労だ。

 腹筋というものがまるで役に立たないんだから。

 軽く目を閉じると、フワリと浮かぶような感覚がして……気がつけば、ぼくは浅い眠りの海に沈んでいた。


 ――何か夢を見ていた気がする。


 穏やかな花の香りと、何だろう、柔らかな感触があったような。

 とはいえ、夢の話だ。

 目が覚めると、すでに夕方になっていた。

 トイレに行く、ただそれだけでぼくの一日は終わりを告げたことになる。


「ん?」


 棚の上に見慣れない花瓶と、花が生けられている。

 ピンクのガーベラと、チューリップがいくつか。

 バラと、トルコキキョウがそれっぽく組み合わされている。

 良い匂いは花の香りだったらしい。

 ファンシーなカードが添えられているのに気付いた。


『早くよくなってください。P・S お休みでしたので今日は帰ります。園芸部一同』


 P・S。パーフェクト・ソルジャー? プレイステーション?

 いやわかってるよ。追伸ね。

 手紙なんて書いたこともないからね。仕方ないね。

 一同ってあるけど、本当かなあ?

 部員の九割は幽霊部員なのに。

 まあ、来そうなのは一人くらいしか思い浮かばない。

 でも、ぼくはそれどころじゃなかった。

 またトイレに行きたくなったからだ。

 長い長い冒険の旅が、また始まろうとしていた。


 *


 ぼくの腹には七センチほどの傷と、その近くに飛び出したプラスチックのパイプがある。

 この虫垂炎という病気の手術も、最近は内視鏡というカメラ付きマジックハンドでやることが多いみたい。


「腹腔鏡……つまり内視鏡なんて、ちょっと前まではSFの話だったんだけどね」


「だったらぼくも、その未来技術で治してくれればよかったのに」


「ものには限度ってものがある。君はそれだけ重症だったということだ。あそこまで重症じゃあ、開けなきゃだめだよ。君、けっこう痛みとか我慢しちゃうタイプだろ。医者としてはちょっと困るかなぁ」


 城医師の言うとおりぼくはかなり重傷だったらしく、お腹の中に膿が溜まってそれを洗い流すために、思い切りズバッと切らなきゃいけなかったそうだ。

 ザブザブと特別な水、つまり生理食塩水で洗浄され、傷口を縫い、余った水や新しく出た膿は横のパイプからチョロチョロと出ていく。

 まるでサイボーグになった気分。

 父さんが後生大事に持ってるビデオ――もちろんベータマックスだ。おかげで今では観ることもできない――の特撮ヒーローも、きっとこんなゴリゴリした身体で頑張っていたんだろうな。

 ぼくが物心ついた頃はすでに、サイボーグのヒーローはあんまりテレビに出なくなった。

 現実の医療技術がSFに追いつきそうだからかな。

 いやいや、これは大変だ。

 戦うどころか普通に暮らすのがまずハードルが高いだろ。

 トイレが近くて遠いんだよ。

 点滴でおしっこの回数はやたら多いのに、トイレは三〇メートルもの長旅だ。


「サイボーグってのも、昔はそりゃSFの題材でしかなかった。アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』は読んだかい?」


「いいえ」


「じゃあ『サイボーグ009』は?」


「それなら知ってます。父さんがビデオ持ってて」


「名作だよね。ん? ビデオ?」


「ビデオはビデオですよ。ベータのほうがVHSより高画質なんですよ。ぼくの家はブラウン管のハイビジョンが現役ですよ」


「そ、そう……。サブスクで観てるニワカのくせに、偉そうなこと言ってごめんよ」


 城先生はハンカチで額の汗を拭いた。

 なあに、気にしなくていいさ。

 ぼくだってサブスクのアニメを自作パソコンで観ているんだから。

 ブラウン管テレビは父さん専用なんだ。

 母さんは邪魔だっていつも言うけど、父さんは捨てたがらない。


「話を戻そう。医療技術はどんどん進歩しているし、これからも進歩し続ける。そりゃあ009みたいな戦闘用は無理にしろ、かなりの部分実用化されているんだよ。ブレイン・マシン・インターフェイスでカメラの画像を脳に投影し、失った視力を補う、なんて実験も進んでいる。パラスポーツでは義足の選手が一〇〇メートルを一〇秒台で走る。君よりずっと速い」


「すごいんですね」


「すごいのさ。今日はSFな技術も、明日には現実だ」


 なのにぼくには関係がない。

 二〇世紀さながらの開腹手術。くそ。


「……よし、もういいよ。しまって」


 城医師が抜糸を済ますと、嬉しいことを言ってくれた。


「山田君、明日から食事が出るからね」


「えっ、本当!?」


「本当だとも。まあ、最初は流動食みたいなものだけどね」


 ぼくは嬉しくなって、夜眠れるかどうか心配になるほどだ。

 なにせ、朝から晩まで昇る朝日と沈む夕日を眺めるだけの一日を過ごすんだ。

 とにかく変化が欲しかった。

 実際病人にしてはかなり遅くまで起きていたけど、どうにか眠ることができて、翌日の夕方を迎えた。

 病室がかすかにざわめき、食事を載せたステンレスのワゴンが入り口前に止まる。


「あのっ、山田ですけど」


「は~い、今日からお食事ですね~」


 食事係のおばさんがドンッ! と勢いよくそれをベッドテーブルに置いた。


「これだけ……ですか?」


「これだけ!」


 おばさんはワゴンを押し、次の病室に向かった。


「これだけ……かよお……」


 缶だ。どこからどう見ても缶だ。

 大きさは普通の缶ジュースよりも少し小さくて、紅茶の缶くらい。

 上はもちろんプルトップが付いていて、普通にそこから開けて飲むらしい。

 シンプルな、あまりにもシンプルなアイボリー一色の印刷に、ゴシック体で製品名が書かれているだけ。

 デザインもへったくれもない。


「…………」


 流動食みたいなもの、っていうから、水気のやたら多いおかゆをイメージしたんだけどさ。

 おかゆですら今のぼくには手が届かないらしい。

 というかこれ、飲み物じゃん。

 食べ物って言わないよ。

 それでもプルトップを起こし、匂いを嗅ぐ。

 どこかで嗅いだような匂いだ。

 カロリーなんとかとか、バランスなんとかみたいな栄養食品。

 一口飲んでみると味もまさにそれで、待ちに待った食事がこれとあっては、泣くに泣けない。


「くそう……早く治りてえなあ……」


 全身をサイボーグ化されたヒーローも、こんなのを飲んでるのかな。

 どうせならもっとすごい技術で強化してくれてもよさそうなものだよね。

 トイレまで加速装置で一瞬で移動できるような。

 だからトイレが遠いんだって!


 *


 良い天気だ。

 それはもう、ただ空を見ているだけで誰もが笑顔になるような。

 でも、ぼくには関係ない。

 一切の関係がない。

 太陽がなんだ! 春の風がなんだ! 土の香りがなんだ! 知るかバカ!

 そんな爽やかな春の午後。

 病院の談話室には、棚に古雑誌や文庫本が並んでいる。

 退院した患者が置いていったものらしく、自由に読むことができる。

 あまりにも、そうあまりにも暇な日が続くので、本を読むくらいしかする事がない。

 古い雑誌を読んでも仕方がないので、文化人を気取って小説を読むことにする。

 ぼくは文化人だからね!

 いや、学校の部活は園芸部だけど。いちおう文系の部活だ。

 毎日ジャージか作業服で汗と泥にまみれる、かなり腰に来る体力勝負の文化系。

 とはいえ、よく見ればシリーズものの途中の巻ばかりだ。

 こういうのを読んでも仕方がないので、青い背表紙の一冊を手に取る。

 特に理由は無い。何となく目に着いたからだ。

 タイトルは『われはロボット』。

 巨大ロボが咆吼をあげながら暴れ回る内容……ではなさそう。

 なんか難しそうな外国人作家の本だ。

 やめておこうかな。

 そもそもぼくは活字が苦手なんだ。


「アシモフね。初心者にはおすすめよ」


「うおっ!?」


 後ろから声をかけてきたのは、ぼくと同じ患者服に身を包んだ女の子。

 長い黒髪をゴムでひとまとめにして、左側から胸に垂らしている。

 年はたぶん、ぼくと同じくらいだろう。

 特別に美人、という訳ではないけど、決して不細工という訳ではない。

 いやむしろ、普通の服装と髪型をしていれば、かなりの美人に化けそうだ。

 スタイルだって決して悪くはない。

 いやごめん、やっぱり美人だ。


「どうしたの?」


「い、いや……」


 彼女は小首をかしげ、ぼくを上目遣いに見つめてきた。

 距離が近い。吐息がかかりそうだ。

 ぱっと見は美人に見えなかったけど、近くで見ると整ってる。


「とっても素敵なお話ばかりよ。わたし、大好き。中でもわたしは『嘘つき!』が好きね。人を傷つけないために嘘をついた優しいロボットが、その嘘で逆に人を傷つけてしまう話」


「えっと、読んだの?」


「ええ。読んだら今度、感想を聞かせてね、山田くん。ポイント一」


「えっ? ポイント?」


 どうしてぼくの名前を知っているんだろう。

 というか、ポイントってなんだ?


「じゃあ、またね。そうそう、気に入った本があれば好きに持って行っていいそうよ」


 女の子はきびすを返し、スタスタと去って行く。ぼくは一人残された。


「…………誰?」


 彼女が誰かは、その時は大した問題じゃなかった。

 でも、ベッドの上でも、検温の時も、相変わらず遠いトイレでも、毎日入りたいけどそうはいかない風呂でも。

 気まぐれに見舞いに来た母さんがリンゴをむいてくれている時でも、彼女の顔と声が頭から離れなくなった。

 流れる黒髪、儚げな瞳、華奢だけどバランスの取れたスタイル、清流のせせらぎのような声が、いつもまぶたの裏に浮かぶ。

 じつに不可解な現象だ。

 例の本は……というと、元々活字が苦手だったから、どうしても読み切れないままだった。

 よくもまあ、こんな細かい文字を延々と読めるものだよ。

 やっぱ文化人を気取ろうなんて間違いだったな。

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