第5話 花園みくの宇宙

 通学はバスだ。

 定期券でもいいけど、ぼくは交通系ICカードに最低限の金額をチャージして、帰り道は歩くことが多かった。

 少し昔なら、スマホアプリの何たらペイってのが流行ったみたいだけど、ぼくが端末を買ってもらう頃にはほとんど廃れてた。

 結局この非接触式ICカードが最強なんだよな。

 ぼくとしては、本当は現金がいい。

 でも、これだと少しだけ値引きされるんだ。

 月々にすればそれなりの金額になるからね。

 うーん、財テクもいいけど、バイトでも探した方がいいかな。

 でも、さすがに病み上がりの今はバスに乗ることにする。

 無理はよくない。

 この時間帯に乗る事はほとんど無いから、最初のうちは混雑に目をくらったものだけど、慣れれば何ということはない。……こともない!

 車内はギュウギュウだ。

 なんだこりゃ。朝と大して変わらないじゃないか。

 前後左右を女生徒に挟まれると、なんとも言えない良い匂いがして頭がクラクラする。

 ああそうか、だからみんなわざわざお金を払ってバスに乗るのか。

 あー柔らかい。朝は地獄、帰りは天国。

 途中でぼくも入院していた病院の前を通る。

 道路には歩道橋が架かっていて、そこを一人の女の子が渡っているのが見えた。

 あれ、斉藤さんじゃないか?


「次、停まりま~っす」


 ぼくの指は、ぼくの意思とまるで無関係に動いて、降車ボタンを押していた。

 指が機械の一部になって自動的に動くってのは、よくあることだ。

 よくあることなんだから、仕方がない。

 仕方がないったら仕方がない。


「え~、バスが完全に停止してから前の方へお進みくだっさ~い」


 運転手の言うことなどまるで聞かずに、どんどんと前に出て、停車と同時にバスを降りる。

 運転手は諦めたような顔で、何も言わなかった。

 そりゃそうだ、もともとお年寄り向けの注意喚起なんだから。まあ、今のぼくもお年寄り並の体力しか無いんだけど。

 まあ、そんなことはどうだっていい。

 ぼくは走って――端から見れば歩いているようにしか見えないだろうけど――風に揺れる黒髪に追いつく。


「斉藤さん!」


 ぼくの息が切れ切れになっていたのは、走ったからだけじゃないと思う。

 驚いたような顔で振り向いた斉藤さんは、声を掛けたのがぼくだと気付くと、名前どおり花のような笑顔を浮かべた。ようにぼくには見えた。


「あら、山田くん。どうしたの? こんなところで」


 そう言われて、ぼくは困った。

 理由なんて無い。ただ、斉藤さんの姿が見えて気がついたらボタンを押してました、気がついたら後を追って声を掛けました、なんて言えるはずがない。

 理由なんて無いのだ! 身体が勝手に動いた、ただそれだけ。


「そ、それは……」


 ぼくは言いよどんだ。思わず地面を見つめると、アスファルトの上だというのにダンゴムシが丸まっている。

 近くの花壇から落ちたらしい。


 ――よお、俺と一緒に背中を丸めて転がろうぜ! 俺たちがいつもやってることじゃねーか!


 ……なんて言われた気がする。


「あ~あ、喉が渇いたわねぇ。病院あそこ、けっこう乾燥するのよね」


 信号を渡った先に、オシャンティでナウなヤングにバカウケ~な――簡単に言えば、昭和の昔からやっていそうな古めかしい喫茶店があった。

 鍵のマークの青い行灯の下に、白地に黒で『喫茶メトセラ』とある。


「お、おおお!」


 ぼくは震える指で喫茶店を指さした。

 声も震えて、上手く物が言えない。

 どうして。どうして斉藤さんの前でだけ、こんな挙動不審になっちゃうんだ!


「オール・ストーリー?」


 ぼくはかぶりを振る。


「ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション?」


 ぼくはかぶりを振る。


「ウィアード・テイルズ?」


 ばくはかぶりを振る。何の話だよ!


「昔のパルプ雑誌の話じゃないの?」


「違うよ! お茶! 一緒にどう?」


「ダメよ」


 がっくりとうなだれてしまう。でも。


「お医者様にカフェインを止められているの。ノンカフェインなら、いいわ」


 *


 内開きのドアを開けると、ドアベルが軽快に鳴り響いた。

 コーヒーの香ばしい香りが心地よい。

 出窓には目隠しのように背の高い観葉植物が並び、外が気にならないようになっている。

 レコードがぎっしりの棚と、難しそうな本がいっぱいの本棚が目に付く。

 マボガニーのテーブルとカウンターが並ぶ店内には、他に客はいないようだ。

 こういう店に入るのは初めてで、どうしたらいいのかまるで見当も付かない、


「いらっしゃい」


 年齢不詳な――たぶん三十かそこらくらいの女性が、読んでいた本から顔を上げる。

 新書サイズの古びた本で、背表紙の色は銀色。

 お洒落っぽい店だから気負っちゃったけど、なんかいい具合にやる気がなさそう。

 やる気に満ちあふれた店員さんがいると、ちょっと落ち着かないよね。

 斉藤さんがぼくの袖を引っ張ると、窓際の席を指さした。

 慌てて席に着く。

 テーブルの上にはメニューと灰皿、シュガーポットが並んでいた。


「すっごくきれいな人ね。ああいうベリーショートの髪型は、顔の形をごまかせないのよ。だから、本当の美人にしか似合わないの」


 斉藤さんのほうが美人だよ、と言えたら良かったんだけど、ぼくははっきり言ってヘタレだった。


「ははは、その、何にする?」


「そうねぇ……わたし、レモネード」


「じゃあぼくは――」


 格好を付けてコーヒーを頼んでしまった。

 それも、なんだか妙に高いジャマイカ産の。

 バカッ! ぼくのバカッ! 一番安いコーヒーなら同じ値段で五杯は頼めたのに!

 出てきたコーヒーは、香りだけでもとんでもない高級感だ。

 ぼくはシュガーポットに手を伸ばす。


「ちょ、ちょっと! 何やってんの!?」


 斉藤さんは僕の手を押さえた。

 柔らかくて、すべすべの細い指だ。

 いいやいや、指の感触を堪能している場合じゃないぞ。


「ど、どうしたの?」


「ああその、いや、なんでもないわ。どう飲もうとあなたの勝手だものね。ただ、ブルーマウンテンを頼んでいきなり砂糖を入れるなんて、豪快にもほどがあるわ」


「そ、そうなんだ。ははは……」


 変に見栄を張るからこうやって恥をかくんだ。くそう。

 ぼくは素直にコーヒーカップに口を付ける。

 月並みな表現だけど、芳醇な香りと苦み、甘み、コクも何もかも、普段の缶コーヒーとはまるっきり次元が違う。


「う、美味いッ……! 圧倒的……なんだっけ、そう青山ッ……!」


「何バカ言ってんの」


 斉藤さんの表情は明らかに呆れていたけど、口許は笑っていた。

 いや、コーヒーはどうでもいいんだ。

 財布的には大問題だけど。

 斉藤さんがレモネードをストローで吸う、ただそれだけの動きでぼくを釘付けにしてくれたんだから。

 黄色の液体がクリアなストローを駆け上がって、少し薄めの、それでいて柔らかそうな唇に吸い込まれていく。

 ストローになりたい。え? 脱プラスチック? 知らんよ。

 ぼくはどうして人間なんて下等生物に生まれてしまったんだ。

 レモンに生まれたかった。

 いやいや。今はそれどころじゃない。

 ぼくは、生まれて初めて女の子と差し向かいでお茶をしている。

 つい半月前まで楽しそうなカップルを、呪詛と羨望と絶望の入り交じった視線を向けていたのに、だ。


「あの、斉藤さんは、その。どうして病院に?」


「経過観察。あなたも行くでしょ。同じよ」


「そ、そうなんだ。ぼくは城っていう先生に診てもらってる」


「わたしもよ、評判いいみたいね、あのひと」


「そうだね。やる気なさそうな顔してる割には」


 斉藤さんは小さく微笑んだ。

 あ、この顔すごくいいぞ。

 今更だけど、やっぱりかわいいなあ。


「手術そのものは怖くないのよね。麻酔があるもの。怖いのは術後の傷。あれは痛いわ」


「うん、ぼくもそうだった。あれは二度とやりたくない」


「ええ、わたしも。何度やっても慣れないものね」


 そう言うと、斉藤さんは目を細めてぼくに笑いかけてくれた。

 ストローを心なげに回すと、氷が楽しそうに音を立てる。


「ねえ、斉藤さんはなんで入院してたの?」


「内緒よ、恥ずかしいもの」


「そうかなあ?」


「乙女には秘密の一つや二つ、付きものだと思わない?」


 そう言われては、それ以上聞きようがない。

 去年叔父さんが入院したときも理由は隠してた。結局、痔だったんだけど。

 べつにぼくは斉藤さんが痔でも何とも思わない。


「う~ん……言われてみればそうかもね」


 やっぱりぼくみたいに、あそこの毛をすっかり剃られちゃったのかな。

 落ち着かないんだよね、あれ。

 中途半端に伸びてくるとチクチクするし。

 なるほど確かに、そんなことは口が裂けても言えない。

 ぼくは斉藤さんがパイパンでもいい。


「山田くんって、園芸部よね」


「うん、そうだよ。体育会系じゃないけど、文系というには違和感があるかな。土や肥料は重いし、服は汚れるし」


「今は何を育ててるの?」


「ジャガイモと、あとは季節の花を色々。今ならチューリップとか、ガーベラとか」


「素敵じゃない。でも、わたしにはお花なんて似合わないわ」


「そんなことないよ。斉藤さんなら色んな花が似合うと思うよ。何か好きな花はある?」


 斉藤さんはしばらくストローでカラカラと氷をかき混ぜると、窓辺に置きっぱなしの文庫本を撫でた。


「わたしはそうねえ……ハネンボウやトビエイなんか好きね」


「そうなんだ。ぼくも好きだよ。ただの雑草だけどさ」


 本当は知らないけど、知らないと言うのは恥ずかしくて格好付けた。


「そうね。でも、雑草という名の植物は無いわ」


 斉藤さんはコップの側面に付いた水滴を軽く撫でた。


「確かにそうだ。どんな植物にも名はある」


 斉藤さんは頬に手を当てて、微かにため息をついた。


「いいわよね、ブライアン・オールディスの『地球の長い午後』。黄昏を迎えた時代、植物が支配する世界にあっては、人類はただの虫けら同然だけど、それでもみんな必死に生きているんだわ」


「なんでそんな壮大な話に?」


「えっ?」


「えっ?」


「ねえ山田くん。もしかしてあなた……読んでないの?」


「よ、読んでない……」


「そう……」


 斉藤さんは少しだけ悲しそうな顔をした。

 何か変なことでも言ってしまっただろうか。


「でもまあ、そういうものかもね」


 何だろう。視線が冷たい気がする。

 暑くはないのに、僕の手のひらは汗でぐっしょりだ。

 これはまずい。明らかに選択肢を間違えたらしい。

 園芸部なのに、お花がきれいだな~くらいしか考えず、適当に種や苗を畑にポンポン植えていただけというのが悔やまれる。

 斉藤さんは腕時計を見ると、鞄を肩に担いだ。


「わたし、もう行くね。また学校で」


 本当はもっとお話したかったけど、ここで引き留めるのは良くないかもしれない。

 さっき間違えたばかりだ。


「うん、また」


「これじゃ、ポイント増減は差し引きゼロね」


「だからなんのポイントだよ」


「たまには読書でもしたら? じゃ、またね」


 ひらひらと手を振って、斉藤さんは何も答えず店を出ていった。

 カウンターで顔を隠すように本を読んでいた店長が、ぼくを見て言う。


「ハネンボウもトビエイも、オールディスの小説に登場する架空の植物だ。キミは試されたんだよ」


「試された?」


「自信の無い女は男を試してみたくなるものさ」


「へえ……? 斉藤さんが? あんなにきれいなのに」


「外見の善し悪しなんて、本人にしてみれば関係ないよ。ところで、まだ何か飲むかい?」


「いや、もう行きます」


 ぼくは冷めたコーヒーを飲みきると、席を立った。


 ぼくは大事なことを知らなかったんだ。この店のメニューは総額表示ではなく、外税になっている。

 つまり、一〇パーセント余計に払わなければならない。

 ぼくは舞い上がっていて、財布の中身という現実を見ていなかったんだ。

 店長は話のわかる人だった。

 けっこう美人だけど、お金を払わない相手を人間扱いしないタイプ……ではないと思いたい。


「ふ~ん。ま、私はそれほど鬼ではないからね。待ってやってもいい」


「あ、アザッス!」


 菩薩だ。観音様だ。美の化身だ。無愛想だけど。


「ところで今、皿洗いのバイトを探している」


「ぼくが……ですか?」


「ああ。女の子とお茶するくらいの給料は出そう」


 願ってもないことだ。ぼくは膝に付くほど下げていた頭をようやく上げる。


「お、オナシャス!」


「よしよし、いい子だ。おっと、勘違いしないでくれたまえ、私は年上にしか興味が無いからね。身の丈をわきまえないと、大事なところでポカやるよ。見栄ばかり張るからさっきみたいになるのさ」


「反省してます!」


 とにかくぼくは、翌日の夕方からこの花園はなぞのみく店長のもとで働くことになった。


「うふふ。しかし……なんともまあ、見事なDOGEZAっぷりだったよ。キミの将来が楽しみだ。よろしく頼むよ、山田太郎クン」

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