第12話 陽菜の翼

 放課後になっても雨は降り続けた。

 涙雨、ってやつだ。竜宮院の。

 うーん、あんまり詩的なタイプじゃないと思うんだよな、あいつ。


「山田くん」


 教室の後ろから斉藤さんが早足で近づいてくる。

 この人が走ることは絶対にないから、本人にしてみれば急いでるんだろう。

 斉藤さんはぼくに顔を近づけ、そっと耳打ちをしてきた。


「会いに行かない?」


「誰に?」


「竜宮院くんの、元カノ」


 振り返ると、竜宮院はのんきに居眠りをしていた。

 こいつにしてみれば、高校の授業内容なんて幼稚もいいところだろう。

 ほとんど毎時間居眠りをしているのに、試験の成績だけはやたら良いからな。

 くそっ、神様は不公平だ。

 まあどっちにしろ、こいつは連れて行かないほうがいいかもしれない。

 いやまあ、いずれ話す機会はあるかもしれないが、それは今じゃないだろう。


「……よし、行こう」


「決まりね。付いてきて」


 ぼくたちは竜宮院を起こさないように、そっと教室を出た。


「あっ」


 廊下でぼくを待っていたのは、雲雀ヶ崎だった。


「よう、雲雀ヶ崎。どうした?」


「あのっ、そのっ、今日は部活、やるのかなー、って思いまして」


「今日は雨だからね。休みだよ」


「そ、そうですか……。じゃあ、明日ですね」


「うん。天気しだいだけど」


「わ、わかりました。し、失礼しまひゅ」


 雲雀ヶ崎はぼくと斉藤さんを交互に見ると、足早に立ち去った。

 何だろう、少し涙目になっていたような気もするが。

 あれ。斉藤さんの手がぼくの腕を掴んだままだ。

 見方によっては腕を組んでるように見えなくもない。


「雲雀ヶ崎さんが何か誤解しているようなら、わたしの方から説明するけど」


「まさか。早く行こう」


「そう……。こっちよ」


 行き先は二つ隣の教室だ。

 斉藤さんは手近な人に声を掛け、その元カノとやらを呼び出してもらう。

 出てきたのは、なんともまあ、ぶっ飛んだお方だった。

 無駄にたくし上げたスカートに、歴史の教科書に出てくるルーズソックス。

 手首に連なる安っぽいブレスレットに、金髪に染めたくるくるパーマの長髪。

 ケバケバしい化粧にずらりと並んだピアス、ピアス、ピアス! 痛そうだなおい。


「アタシに何か用?」


「うわあ」


 思わず声が出てしまった。

 彼女はナイフのような視線をぼくに向けてくる。こ、怖い。


睦月むつき陽菜ひなさんね。少し、お話したいのだけど……時間はあるかしら?」


 さすが斉藤さん。

 こんな怖そうな人と普通に話してる。

 というかこの人が竜宮院と付き合ってたってマジかよ。

 好みは人それぞれだけどさあ。


「手短に頼むわ。アタシ忙しいし。ジュースくらい出るんだろ、山田」


 なんでぼくのこと知ってるんだよ! 一回も話したことないのに!

 斉藤さんが肘でぼくを小突いた。


「か……缶ジュースくらいなら、ご馳走するよ。トマトジュース好き?」


「大っ嫌い」

 

 *


 食堂で話すことにしよう、そう言うと睦月さんは素直に同意した。

 廊下は生徒たちでごった返しているけど、睦月さんは斉藤さんに普通にについて歩く。

 ぼくはその横に並んだ。


「……?」


 睦月さんの鞄の持ち手には、一風変わったキーホルダーが付いている。

 Hと書かれた赤い玉があって、細い針金がそれを円形に囲み、途中には小さな青い玉が付いている。

 形は単純だけど、輪が浮いているように見せるため色々工夫しているようだ。


「変わったキーホルダーだね。どこかで見たような……」


「あ? 関係ねーだろ」


 睦月さんに睨まれると、背中に氷を入れられたみたいだ。こ、怖い。


「水素原子の模型よ」


 こっそり教えてくれたのは斉藤さんだ。

 そうか、どこかで見たと思ったら物理の教科書だ。

 ん? 見た目――と態度――とは裏腹に、物理が好きなのかな?

 ものすごい違和感だ。

 食堂に着くと、ぼくは自販機に小銭を入れ、睦月さんを促した。


「じゃ、コーラ」


 ゴトン、と缶が取り出し口に落ちる。


「斉藤さんも」


「さすが飲み物のプロね、バイトとはいえ。いただくわ」


 斉藤さんが押したのはレモネードだ。ぼくは少し迷った末に、コーヒーにした。

 テーブルで睦月さんはプルトップに指を掛けた。


「山田、アンタ有名だよ」


「なんで?」


「全身から血を吹き出して暴れ回ったろ。一年の子から輸血されて、ようやく一命を取り留めた、ってもっぱらの噂だよ」


「……もういいよ、それで」


 訂正するのも面倒だ。訂正なんかしてキレられたら困るし。

 噂ってのはこんなもんだよなあ。

 睦月さんは鞄の中から小さなケースを取りだした。


「悪いんだけどさ、コンタクト取ってからでいい?」


 睦月さんはコンタクトをケースにしまうと、赤いフレームの眼鏡を取り出した。

 レンズがやけに厚い。


「アタシ、これ無いとな~んにも見えないんだ。マジで歩けねーの」


「そうなんだ」


「前はずっと眼鏡だったんだけどさ、変なヤツに踏まれちゃってさあ。酷いもんよ。たまたま知ってるやつに手を引いてもらったはいいんだけど、そいつ何を勘違いしたのかアタシにチューしやがった! ぶん殴ってやったけどね! 今でも腹立つわ、クソ」


 睦月さんが乱暴にテーブルを叩くと、三本の缶が跳ねた。怖い。

 でも斉藤さんは動じていない。さすがだ。

 テーブルに肘をつき、手を組んで口許を隠す例のポーズで睦月さんを見据えている。


「ふうん……もしかして、それ以来彼氏が冷たいとか?」


「ああん? なんでそんなことオメーに言わなきゃならねーのよ」


「答えて」


 睦月さんは怖いけど、斉藤さんは全く別の意味で怖い。

 なんだこの表情。女同士だとこうなのか?

 ぼくの前では猫を被っていたのか?


「……そ、そうだよ。アタシあんま頭よくねーから、やっぱ愛想尽かされちまったかな、って……」


 あれ、なんかしおらしくなった。

 ちょっと可愛いかもしれない。何だこの人?

 いやいや、問題はそこじゃない。

 何だろう、この違和感は。

 頭が悪いことと二人が別れたことに、何の関係があるんだ?

 少なくとも竜宮院は、そんなことは一言も言っていなかった。

 どんな人でもだいたいは竜宮院よりも頭が悪いからね。ぼく含め。

 あいつの場合、自分より頭が良い彼女が欲しいなんて、無い物ねだりってもんだ。

 おかしいぞ。


「彼氏さん、頭いいのね」


「ああ。天才だよ」


「その水素原子のキーホルダー。彼氏がくれたものでしょ?」


「そうだけど……って、これ水素なのか?」


「そうよ。赤いのが原子核、青い玉が電子を表しているの。元素記号はH」


「アタシのイニシャルかと思ってた」


「もちろん、そうでもあるでしょうね。だからきっとそれを選んだのよ」


 睦月さんの名前は陽菜、つまりイニシャルはHだ。


「ねえ、睦月さん。今でもそれを大事に持っているってことは、まだ彼のこと好きなのね」


 睦月さんは唇を噛んで俯いた。


「そりゃ、今でも好きだよ。でも……でもアタシじゃやっぱり……もっと頭良い子じゃないと釣り合わないよ……」


「こうは考えられないかしら? あなたは眼鏡を壊されて途方に暮れているところを、ある人に助けられた。その人はひどい女たらしで、あなたの隙を突いてキスをした。その時たまたま、彼氏がその様子を見ていた……なんてことは?」


「……わかんないよ。アタシはあの時、何も見えなかったんだから。でも、それを見られてたとしたら……どうしよう。絶対誤解されちゃった……」


 睦月さんは頭を抱えて泣き始めた。

 すごいなあ、第一印象と大違いだ。

 まるで女の子みたい。いや、女の子だけど。

 さすがにこの言い様は申し訳ない。


「つまり、あなたはまだ竜宮院くんを好きなのね? 睦月さん」


「そうだよっ! 悪いかよっ!」


「それを確認したかったのよね」


 斉藤さんはポケットから携帯端末を取り出した。

 画面が点灯し、通話状態になっている。

 表示されている名前は、なんと竜宮院。

 関係ないけど、ぼくですら番号を知らない。

 便利だな、ケータイ。


「……だそうよ。もう出てきていいわ」


 食堂の扉が開き、イヤホンを着けた竜宮院が顔を出した。

 あのイヤホンはハンズフリー用だ。


「ケンジ!」


 竜宮院の下の名前って、ケンジだっけ。忘れてた。


「陽菜……ごめんよ。俺が悪かった」


「ケンジ! ケンジ! ケンジぃ……!」


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、睦月さんは竜宮院に抱きついた。

 竜宮院の方も、泣いてるんだか笑ってるんだかよくわからない顔で、睦月さんの髪を優しく撫でている。


「斉藤さん、ありがとうな。この借りはいつか必ず返す。期待してくれ」


「楽しみにしておくわ。さ、山田くん。あとは二人に任せましょう」


「そうだね」


 二人を残し、斉藤さんと一緒に食堂を出た。


「斉藤さんは何もかも知ってたんだろう?」


「いいえ。でも、竜宮院くんの話から何となーく予想は付いていたの。睦月さんは、槍ヶ岳の好みと丸っきり合わないものね」


「……なるほど」


 ちなみにぼくの好みとも丸っきり合わない。

 むしろ槍ヶ岳の好みって、ぼくとモロにかぶってるんだよな。忌々しい。


「さらに言うなら、眼鏡を壊したのもわざとでしょうね。本人か、手下かはわからないけど。たぶん手下ね。本人なら別の子を狙うわ」


 元カノの言うことだし、説得力はある。忌々しいな。


「今回のポイントは?」


「そうねえ……」


 斉藤さんは顎に人差し指を当て、渡り廊下の窓から空を見上げた。


「五ポイント、ってところかしら」


 相変わらず基準は謎だ。

 雨は上がり、空には虹が出ていた。


「ところで斉藤さんのペンダントって、流行ってるの?」


「これはアイザック・アシモフの『ファウンデーション』に出てくる銀河帝国の紋章なのよ」


「ふうん。よくわからないけど、店長も同じマークのやつ持ってたから、何となく」


「そう。でも店長さん、なんだか私を避けてるような気がするわ」


「まさか」


 まさかそんなこと、あるわけがないだろう。

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