第15話 模造店長
店のドアをくぐると、今日も客は一人も居ない。
それ自体はいつものことだ。
アパートの家賃収入で暮らす、この有閑お嬢様の税負担を減らすために、ぼくは給料を受け取っているんだから。
でも、明らかにおかしい。
異様な雰囲気が漂っていた。
客用のテーブルに掛けたお嬢様――いや店長は、ごついフレームの眼鏡を掛けて、うつろな視線で何も無い空間を見つめている。
ぼくのことなんか目に入らない様子で、時折にやけては一人で笑っている。
「店長……?」
返事はない。
顔の前で手を振ってみても、何の反応も見せない。
元々変わった人だと思っていたけど、ついにおかしくなってしまったんだろうか。
「もしかして、ぼくの居ない間に頭でも打って……」
槍ヶ岳の血まみれの姿が脳裏に浮かぶ。あいつは運がよかっただけだ。
普通はどんな症状が出るかわからない。最悪の場合――。
ぼくは急に恐ろしくなった。
店長に万が一の事があれば、ぼくはこの楽な仕事を失ってしまう。
「店長、しっかりしてください!」
「きゃあっ!」
きゃあっ! じゃないだろ。
店長はその時、ようやくぼくに気付いたようだった。
眼鏡を上げ、ぼくの顔を見て目を丸くする。
「なんだキミか。脅かさないでくれ」
「それはこっちの台詞ですよ。大丈夫ですか?」
店長は口を尖らせ、まるで拗ねるような顔をした。
「見たのか? 今の私を」
「なんかこう、虚空を見つめてニヤニヤしていましたよね」
「私は気が変になった訳じゃない」
こういう患者はみんなそう言う。
ぼくは店長の手首を掴んだ。
以外に細くて華奢だ。ちょっと力を入れると折れちゃいそう。
きっと、疲れたんだ。
あんなに一生懸命働いて……いるようには見えなかったけど。
どっちにしろ、悪いのはこの人じゃない。
「わかってますよ。さ、病院に行きましょう。保険証はありますか?」
ぼくの行っている病院には、精神科もあるんだよね。
病気は発見が早ければ早いほど良い、って城先生も言ってたしな。
まあ、あの人は外科だけど。
でも、店長はぼくの手を振り払った。
「百聞は一見にしかずだ。この眼鏡を掛けてみろ」
「はあ」
「いいから着けろ。騙されたと思って。ほら」
変に刺激するのも良くないかもしれない。
ぼくは眼鏡を受け取ると、掛けてみた。
ぼくの視力なら、眼鏡は必要ないんだけど……。
「うおっ?」
目の前には西洋のお城のような部屋が広がっていて、ぼくは天蓋付きのベッドに腰を下ろしている。
そしてそれどころか、半裸のイケメンがぼくの肩に腕を回して、こう言っているんだ。
「どうした? 嫌がっている割には、丸っきり抵抗しないんだな。人を呼ぶんじゃなかったのか? ……ふふ、そうなると困るな。仕方ない、その可愛らしい唇を塞いでやろう」
イケメンの顔が近づいて、ぼくの唇と触れそうになり、大慌てで眼鏡を外す。
「な、何だこれ!」
すると世界は元通り、喫茶店の店内だ。
さっきまでと同じように店長がテーブルに掛けている。
「新しいVRゴーグルだよ。試作品でな、モニター……つまり試用を頼まれたんだ。普通の眼鏡みたいだろう?」
「は、はあ」
この人、基本暇だもんな。羨ましい。
でも、なんでモニターを営業中の店内でやるんだよ。
「内容はファンタジー世界のお姫様になって、イケメンとイチャイチャするものだ。王子、騎士団長、執事、神父と選り取り見取りだ。すごいだろう」
「す、すごいですけど……」
そういえば竜宮院も、時々VRゲームで遊ぶと言っていたっけ。
少し興味はあったけど、現実世界の部屋の机や椅子がCGに見える事がある、って言うから怖くなったんだ。
「だが、あんまり私好みのキャラがいなくてな。もっとこう、包容力がある大人の男じゃないと。あと痩せすぎ」
そういう問題じゃない。だからなんで店でやるんだよ。
「将来的には逆ハーレムプレイも可能とのことだが、さすがに処理能力が追いつかないようでな。残念だ。だが、こういうこともできる」
店長はカウンターの影に隠してある馬鹿でかいカスタムゲーミングパソコン――なぜか七色に光る――をいじると、ぼくに無理矢理掛けさせた。
今度は現実と同じ店内だ。
でも、目の前にさっきのイケメンがパンツ一丁でぼくに笑いかけていた。
これじゃただの変態だ。
通報して出入り禁止にするべきだ。
「AR……拡張現実ってやつさ。まあ、何が言いたいかと言うとだな。ついこの間までSFの題材でしかなかったものが、技術の進歩で次々と実現しているということさ。ほら、アニメであっただろう」
「はい、観てました」
「ああいうフルダイブってやつは、根本的に違う原理になる。でも、ジュール・ヴェルヌも言っていた。人間が想像できることは、人間が必ず実現できる、ってね。そうすればもう、仮想世界に行ったきり帰りたがらない人が続出することだろう」
仮想空間に閉じ込められてドンパチというのも、よくあるテーマだ。
しょせんアニメと思っていたけど、こうして体験すると少し怖くもある。
「未来はすぐそこに来ているのだよ、山田君。そのうちワープ航法とか、タイムマシンも実現するかもしれないね。もちろんセックス用アンドロイドも。夢が広がるじゃないか」
「そうっすね……」
ん? 今なんて言った? セックス用アンドロイド?
ぼくが言ったらセクハラになるのに、店長はずるいなあ。
「さて、私はもう少し試用を続ける。使用感を報告するレポートを書かなくてはならないからね。店のことは頼んだよ」
店長はカウンター内の椅子に異動すると、ゴーグルを掛けた。
時々ビクッと震えるし、赤らんだ頬と緩みきった口は妙に色っぽく、目のやり場に困った。
というか、仮想空間に入り込んだ人を外から見ると、すごく滑稽だな。
というか怖い。
「未来……ねえ」
未来の技術なら、斉藤さんの病気を治すこともできるだろうか。
きっと治せる日が来る。
でも、できれば今すぐにその方法が欲しいんだ。
「あはぁ、んっ……」
何だ。何なんだよこの色っぽすぎる声は!
振り返ると店長は、頬と耳を真っ赤にしながらゴーグルをむしり取るところだった。
一瞬視線が合ったけど、すぐに店長は目をそらす。
「ほら、外科手術の練習なんかにも使えるだろ。パイロットなら飛行機のシミュレーターにも使える。他にも崩落の危険がある地下空間とか、原子炉の内部とか、そういう危険な場所の作業を仮想空間で訓練できる訳だ」
「訳わかんねーよ!」
思わず口に出ていた。
でも、なんだかんだ言ってぼくはこの少し抜けた店長が好きだ。
恋とは違う。憧れとも違う。尊敬とは断じて違う。
友情。それもなんか違う。
愛。う~ん。違和感があるけど、それが近いっちゃ近いかな。
いや、待てよ。ぼくは本棚に手を伸ばす。
『萌えの文化史』という本があった。
今ではあまり使われない言葉だけど、これだな。
一〇歳以上年上の相手に使う言葉かどうかはわからないけれどね。
ちなみに内容は意外に硬派な専門書で、ぼくには敷居が高すぎた。
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