第20話 お店の長い午後

 帰りの列車は、往路と比べものにならないほど混んでいたけど、どうにか区間快速に乗り込むことができた。

 噂で聞く都会の通勤ラッシュほどではないと思うけど、それでもぼくたちはギュウギュウの社内で圧縮されながら浦戸へ向かっていた。

 くそ、なんでどいつもこいつもバカでかいトランクを引きずってるんだよ、網棚にも乗せられないようなやつ。

 ドアを背に立つ雲雀ヶ崎の向こうには、夕日を浴びて金色に輝く海が見えた。

 晩春とはいえ、太陽はもうじゅうぶんに眩しくて。

 まるで、夏の日差しのようだった。

 立ったまま雲雀ヶ崎は、文庫本を読んでいた。

 猫の表紙の海外小説だ。店長も同じ本を持っている。


「ねえ、先輩」


「うん?」


「三年前のこと、覚えてますか?」


 三年前。ぼくも雲雀ヶ崎も、当時はまだ中学生だ。

 その頃のぼくは……といえば、やっぱり園芸部で土をいじっていたっけ。

 背は伸びたけど、今と何も変わらない。


「なんか、あったっけ」


 雲雀ヶ崎は寂しそうに笑った。


「猫を飼ってたんです。ううん。飼ってた、って訳じゃなくて。野良猫にあたしが勝手に餌をやってただけで」


「うん」


「ピートって名前だったんですよ。この本……ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』って小説が好きで、それに出てくる猫と同じ名前を付けたんです。でも、車に轢かれて死んじゃいました。雨の降る寒い日で、前の日まで普通に遊んでたのに」


「……うん」


「あたしは校庭の片隅にピートを埋めようと思いました。どこもアスファルトで固められてて、穴を掘れる場所がほかに思いつかなかったんです。他の男子は気持ち悪がってたのに、先輩はスコップを貸してくれて。穴掘りだって手伝ってくれたし、お花まで用意してくれました」


「そんなことも……あったっけ」


 正直、よく覚えていなかった。

 確かに下級生と一緒に猫を埋めた事はある。

 ボロボロと涙を流して、まるで世界が終わってしまったかのような顔をしていたっけ。

 ただ、その時の女の子が雲雀ヶ崎だとは思わなかった。

 一度会っただけだから、顔もよく覚えていない。

 中学は同じ学校だと言っていたけど、それ以降一度も話したことがないはずだ。


「忘れてました?」


「うん……悪い」


 雲雀ヶ崎はかぶりを振る。


「忘れちゃうくらいに、先輩にとっては普通のことだったんですね。るなは……その時から先輩に憧れていたんです。今もです」


「……そっか」


 浦戸の駅が近づいてきた。

 太陽はすでに傾いていたけど、雲一つ無い澄み切った空には細い月が白く浮かんでいる。

 雲雀ヶ崎はぼくに読んでいた本を差し出した。


「これ、貸してあげます」


「いいのかい?」


 ぼくが活字の本が苦手だと言うことは、雲雀ヶ崎だっていい加減わかっている。

 それでもあえて読ませようとするからには、きっと何か意味があるんだ。

 ぼくは本をポケットにしまった。


「一つだけ、謝っておくことがあります」


「怖いな。何をやったんだ?」


 雲雀ヶ崎はいたずらっぽい笑みを浮かべると、人差し指を伸ばしてぼくの唇に触れた。


「るなのファーストキスの相手は、太郎さんです。病院に花束を持って行った時、眠っていたあなたと」


 知らんがな、ちくしょう。

 抱きしめたくなるようなこと言いやがって。

 ぼくはそこまで切り替えが早くないんだ。

 借りた本を読むには、何日も、いや何週間もかかるだろう。

 映画なら二時間なのに。

 ぼくは活字が苦手だからな。

 でも、ちょっとずつ進めないと。


「ぐう……ぐう……」


 おっと、寝てたぜ。


 *


「えーらっしぇー」


 ぼくは店で、夫婦らしい中年の二人連れに水を出した。


「何にしやしょ。今日はね、サバ。あとハマチが安いよ」


「えっとその、コーヒーを」


「わ、私はその、こ、紅茶を。えっと、喫茶店……ですよね?」


 ガンと後頭部に衝撃が走った。

 店長がメニューの角でぼくを叩いたんだ。


「なんて顔をしている。顔を洗ってきたまえ、お客様がお困りだぞ」


「あっ、サーセン。間違えました」


 ぼくはバックヤードに戻ろうとしたんだけど。


「待ってくれ。山田くん……だよね?」


 なぜか男の人に呼び止められてしまった。


「あっはい。どこかでお会いしましたっけ」


「いや。直接会うのは初めてだ。君のエプロンにハインラインが入っていたものだから、もしかして……と思ってね」


「ああ、これすか。借り物ですよ」


「私もその本が好きでね。もっとも、『月は無慈悲な夜の女王』のほうが面白いと思うが」


「はあ。店長は『夏への扉』なんてニワカだ、『異星の客』や『愛に時間を』を読めって言ってますけど。ぼくはこれをまだ読み始めたばかりで」


 ちなみにその本はもっともっとぶ厚いから、とても読める気がしない。

 店長がわざわざ引っ張り出してきて、カウンターに置いてある。


「そうか。いや失礼。ここに来れば、君に会えると思ったんだ」


 男の人は名刺を出した。


「斉藤さんの……ご両親でしたか。失礼しました」


「うん。君なら、私たちの知らない娘の顔を色々と知っていると思ってね。娘はあまり友達がいなかったから。よかったら、話してくれないか。それというのも、花子が眠るのは……少し長くなりそうだから」


「はい。何でもお話しします」


 ぼくは求められるままに斉藤さんのことを話した。

 ご両親はとても嬉しそうな顔をしながら、ぼくのつたない話を聞いてくれた。

 気がつけばいつの間にか陽は落ちていて、閉店時間が来ていた。


「失礼。長居してしまったね。おいとまするとしよう」


 ご両親は立ち上がった。

 口数少なげに聞いていたお母さんが、絞り出すようにして言った。


「娘がどうして最後の立ち会いにあなたを選んだのか、なんとなくわかった気がします」


「それは……なぜでしょうか」


「花子は……今は自分の身体が治らないことを知っていたんです。だからでしょうか、未来の世界を舞台にした物語が好きでした。でも、若い人はあまりそういうのを読まないので」


「ええまあ、はい」


「だから『趣味の合う友達』という幻想を、あなたに求めたのかもしれませんね。幻想を抱いて、旅立ちたかったんです」


 *


 ご両親にそこまで言われちゃ読まない訳にもいかない。

 で、頭が沸騰しそうになりながらも読んでみた。

 実際頭が沸騰し、知恵熱が出て寝込んだ。恥ずかしい。

 そういえばアシモだかアシモフだかを手に取ったのが、最初に話すきっかけだっけ。

 あれも読んでないけど。

 あと、オールディス? オールデイズだったかな?

 見栄張って読んだフリしたっけ。

 あれで幻滅されちゃったんだ。

 なんだ、ぼくが斉藤さんの夢を壊したのか。

 悪いことしたなあ。

 でも、どうにか『夏への扉』を読んだぞ。

 時間を越えた愛の物語で、コールドスリープとタイムマシンが登場する。

 どこまでも純粋でまっすぐな、SFロマンスだ。

 この本が書かれたのはずいぶん昔で、当時は架空の技術だったものが今では現実になっている。

 それを大真面目に研究していた人たちが居たからだ。

 お掃除ロボットは竜宮院が持っていて、コンピューターのプログラムを改造をして楽しんでいるらしい。

 捕まるぞ。

 まあヤツのことはどうでもいいけど。

 コールドスリープ。人工冬眠。

 代謝の抑制によって病状の進行とナノロボットの活動を抑制し、それによって時間を稼いで治療法を確立する。

 かつての宇宙開発競争の時代、深宇宙を目指す宇宙飛行士のために開発されたこの技術は、実用化に予想以上の困難があった。

 ソビエト連邦が健在の頃は死刑囚なんかで実験したらしいけど、今はそうも行かない。

 それでも少しずつ研究は進み、こうして日本最初のコールドスリープが実際に行われると、マスコミが一気に押し寄せた。

 烏丸医師と城医師は一挙に時の人となり、人々は失いかけていた科学への希望を思い出した。

 ……と、思うだろう。

 中にはそんな人もいただろうけど、一ヶ月ほどで世間の興味はよそに移った。

 みんな、意外と新しい技術に興味が無いんだよね。

 以前のぼくもそうだったから、それについてどうこう言うつもりはない。

 サイエンスに興味を持ったのは、あんがい竜宮院と親しくなってからかもしれない。

 でも、おかげでぼくは気軽にお見舞いに行ける。

 代謝の抑制された斉藤さんは老化が極端に遅い。

 何年経ってもずっと斉藤さんは十八歳のままだ。

 少しは髪が伸びたりしているけどね。

 まさしく茨の塔で眠る眠り姫。

 治療法という王子様は、そう簡単には現れなかった。

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