第8話 園芸部の少年
「お弁当、食べない?」
「えっ」
どういう風の吹き回しだろうか。
今日は登校していた斉藤さんが、昼休みにぼくの机まで来たんだ。
「ぼくと?」
「うん」
「斉藤さんが?」
「うん」
おいおい、失恋したからってすぐ他の男にちょっかい出すのかよ、なんて事はこれっぽっちも――ほ、本当だぞ――思わない。
ぼくは大喜びしているのを隠しながら、弁当の包みを取り出した。
――とんでもねえ、待ってたんだ。
――弁当を一緒に食べる、オーケー? オーケー、ズドン!
――何が始まるんです? 第三次大戦だ!
その時ぼくは店のテレビでかかっていた映画『コマンドー』の台詞を唐突に思い出していた。
古い映画だけど、店長が大好きなんだ。
ブルーレイとDVDとレーザーディスクとVHSを持っているらしい。
それでもテレビ放映があれば必ず観るんだとか。
どれだけ好きなんだよ。
ぼくは竜宮院を親指で指した。
「頼みがあるんだが、連れを起こさないでくれ。死ぬほど疲れてる」
「竜宮院くんのこと? 別に彼は誘ってないけど」
その時になって初めて竜宮院が机に突っ伏しているのに気付いた。
いつものことなんだけど。
やれやれ、ぼくは自分でも呆れるくらいテンパっていたみたいだ。
「……ムニャムニャ……こんど余計なこと言うと、口を縫い合わすぞ……」
竜宮院の寝言だ。
こいつもテレビ放送を観たのかな。まあいいや。
「どこで食べる?」
「屋上でも行きましょうよ。わたし、屋上の景色、好きなの」
「うん、そうしよう」
屋上の景色はぼくも好きだ。階段を上る足取りが軽いけど、斉藤さんも一緒なんだから抑えないとね。
「大丈夫よ。今日は調子が良いの」
でも、ドラマや映画みたいにはいかない。
屋上に出る扉は施錠されているんだよな。
学校は高台にあって、屋上に通じるスチールドアの窓からは真っ青な海と、きれいな空が見える。
不思議なもので、周りで一番高い場所にあるのに、深い穴から天を仰ぐような気分になるんだよね。
ぼくも斉藤さんも、しばらく青の景色に見とれていた。
おっと、こんな事をしている場合じゃない。
扉の前に積まれている机や椅子を並べて、即席のランチテーブルを作る。
今はこれが精一杯。
「食べる?」
「えっ?」
思わず聞き返してしまう。
まさか、まさか斉藤さんの手作り弁当を食べられるんじゃないだろうな?
「わたしのお弁当」
「食べるっ!」
迷う事なんてない。
「そのかわり、あなたのお弁当をわたしにちょうだい」
「もちろんだとも。はい」
お弁当を交換すると、ぼくは超ハイテンションを隠しながら包みを開く。
「おおお……」
思わず声が漏れる。
ファンシーでちょっと小さめな、プラスチック製の楕円形をした二段重ね。
もちろん色はピンクだ。
この小ささ具合が女の子らしくていいよね。
中身は意外にも唐揚げとポテトサラダ、アスパラガスと、デザートにミックスフルーツが付く。
もう一つの段はフリカケご飯。
ただ、量は少なめ。素晴らしい栄養バランスだ。
「いただきまーす」
ワクワクしながら唐揚げをパクつく。
「どうかしら?」
「うん、美味しいよ。すごく」
口ではそう言ったけど、なんだろう、このどこかで知っている味は。
「冷凍食品よ。何もかも全部ね。ご飯以外」
「そ、そっか」
「いいのよ。本質的な問題はそこじゃないから」
「本質的?」
「ええ。とりあえず、ポイントプラス一ね」
「なんのポイント?」
「男子とお弁当。なんか青春っぽいでしょ」
「なんだそりゃ」
斉藤さんはぼくの弁当を少し食べると、返してきた。
「さすが男の子ね。わたしにはちょっと多いみたい」
「ううん。あとはぼくが食べるよ」
見てみると、全体の四分の一くらいしか食べていない。
おそろしいほど小食だ。
どこかに斉藤さんの唾液とか付いてないかな。
「ところでポイントって?」
「青春ポイント。それっぽいでしょ」
「訳がわからん。例えば?」
「難病の美少女が医者に恋をして敗れる。実っちゃだめなの。実ったら犯罪だもの。敗れるまでがワンセットね」
美少女って自分で言っちゃうのか。
まあ、否定はしないけどね。
「何ポイント?」
「これは高いわよ、五ポイントね」
「どういう基準? ポイントを集めたらどうなるのさ」
「内緒よ。乙女のトップ・シークレット」
わりとどうでも良いんだけどね。
大事なのは内容じゃない。
二人だけでぼくらは弁当を食べ、たわいのない話を――好きな映画とか、バイト先に来た変な客とか――そんな話をした。
「そのお客さん、一〇〇円で二時間もインベーダーゲームやってたんだ」
「そんなの無理よ。チートでもしない限り。あれは絶対やられるようになってるの」
「ぼくも信じられないよ。って、斎藤さんも知ってるの?」
「もちろん」
斎藤さんは携帯端末を取り出してぼくに画面を見せてきた。
画面の中では宇宙人の軍勢が踊っている。
「意外だね。ゲーム、好きなの?」
「たまにやりたくなるわ。あんまり暴力的なのは好きじゃないけど……」
斉藤さんはぼくのくだらない話を、いちいち目を丸くしたり、口を尖らせたりしてよく聞いてくれた。
そうだ。ぼくはこの笑顔が見たかったんだ。
この一瞬が永遠に続けばいい。
ただ隣にいて、同じ空気を吸っているだけで、ぼくは最高に幸せだ。
斎藤さんもそう思ってくれないかな。
「美人の店長さんとはどうなの?」
「どう、って?」
「好きなんでしょ」
「嫌いって訳じゃないけど、やっぱりぼくとはものの考え方が根本的に違うと思うよ。ぼくのことなんて、便利な税金節約装置くらいにしか思ってない。まあ、おかげで楽して稼がせてもらってるけどね。悪い人じゃないよ。優しいし、心が広いし、思慮深い大人の女性だ」
「あはは、やっぱり好きなんじゃない!」
明かり取りから差し込む光が斉藤さんの笑顔を照らしていた。
楽しんでくれているみたいだ。
もっと早く、この笑顔を見たかったな。
食べ終わった弁当箱を包みながら、斉藤さんは頬杖をついた。
「いいな、そういうの。わたしには無理」
「そんなことないよ。身体が治れば、きっと――」
「無理よ。わたしの病気は――」
そこで斉藤さんは言葉を切った。
そして、ぼくの目を見てこう言ったんだ。
「わたしの病気は……治らないもの」
「治らない……? どういうこと?」
頭の中が真っ白になって、一瞬何を言っているのか理解できなかった。
「言葉通りの意味よ。治療法が無い病気で、わたしはいずれ死ぬの」
ぼくはよっぽど酷い顔をしていたんだろう。
逆に斉藤さんのほうが慌ててしまって、まるで泣き止まない子供をあやすような口調で続けた。
「だ、大丈夫よ。今日明日どうこう、って病気じゃないから! ね、だからしっかりしてよ」
斉藤さんは何でもないことのようにぼくの背中をバンバン叩くけど、指先やつま先からは血が引いて、全身の震えが止まらなくなった。
「じゃあわたし、もう行くわ。また教室でね」
「――――」
カラカラに渇いた喉が張り付いて、返事もろくにできやしない。
青春ポイントは、斉藤さんが悔いなく生きるためのものだった。
*
グルースチ病。
主な症状は発作的な動悸、息切れ、不整脈など。虚弱体質を伴う。
心筋の細胞がアポトーシスを起こし、三年から七年ほどで死に至る。
血液中の酵素から心臓の残り活動時間をある程度予測できるが、移植以外の治療法は無い。
ロシア系アメリカ人医師、ヨジフ・グルースチ(一九七〇~ )が二〇〇三年に最初の症例を学会に報告。
現在までに一〇人の症例が報告されており、九割は死亡している。
当初原因は不明だったが、二〇一〇年にグルースチの弟子、イワン・ジャーロスチ博士(一九七八~ )が同定に成功。
患者が死亡すると原因となっていた病原体が即座に分解を始めるため、発見は困難を極めた。
病原体はジャーロスチウィルスと命名されるが、感染経路は不明。
母子感染が有力とされるが、症例が少なく仮説の域を出ない。
二〇一五年、カザフスタンのエカテリーナ・ニエージノスチ医師(一九七五~ )が一〇代の女性患者に対し心臓移植手術を行い、手術は成功。
唯一の快復例となる。
全世界的に症例は希少であり、研究はほとんど進んでいない。
これが、ぼくがインターネットの百科事典サイトで調べた全てだ。
もちろん自作デスクトップパソコンで。
ぼくにわからない専門用語なんかは、悪いけど省略したり言い換えたりさせてもらった。
便利な時代だ。ずっと昔、父さんや母さんがぼくくらいの年齢の頃には、図書館で分厚い専門書を開かなければこんな事はわからなかった。
今ではこうしてワンクリックで気軽に絶望ができる。
斉藤さんはこのグルースチ病にかかっている。
三年から七年ほどで死に至る。
治療法は無い。
この二つの文字列が、ぼくのさほど高級とは言えない脳を埋め尽くしていた。
斉藤さんはいつからこの病気と闘っているんだろう。
中学の頃には一年間休学していたと聞いているから、短く見積もっても三年だ。
下手をすればもっと長い間。
今日明日にどうこうということはない。
斉藤さんはそう言っていた。
それが唯一の希望だ。
医学は日々進歩しているから、そのうち治療法が見つかるかもしれない。
かつては不治の病といわれた病気だって、科学者たちはいくつも克服してきたんだもの。
でも、それはぼくを気遣って言ったことかもしれない。
それは斉藤さん本人にしかわからないことだ。
……最悪の場合、残された時間はほとんど残っていない、ということも考えられる。
全世界でたったの十人っていう珍しい病気なのに、どうしてそれが斉藤さんなんだろう。
どうしてぼくじゃないんだろう。
どうせ助からないのだとしても、ぼくのほうがよっぽど悲しむ人が少なくて済むはずなんだ。
そんなことを考えていると――。
「先輩! お水、お水!」
「えっ? ああ」
じょうろで撒いた水が溜まり、うねに水たまりができてしまった。
雲雀ヶ崎に言われなければ、ぼくは全ての水をまき散らした後もこの場に立ち尽くしていたかもしれない。
いや、それどころかズボンの股間にちょうど水がかかっている。
端から見れば、まるでおもらしだ。
格好悪いなあ。
「だいじょうぶですか? やっぱりまだ、調子が戻ってないんじゃ……」
雲雀ヶ崎は心配そうな顔でぼくの額に手を当てた。
顔が近くて、ぼくは思わずその手を押しのける。
「だ、だいじょうぶ。少し疲れただけだよ。熱なんか、ない」
「真っ青じゃないですか! いいから休んでください、さあ!」
ぼくは雲雀ヶ崎の予想以上に強い力でグイグイ引っ張られ、校庭の片隅にある色あせたベンチに引っ張られる。
ここは木陰になっていて、日差しをいい具合に遮ってくれる。
「これ、飲んでください。水分補給は大切なんですからね」
雲雀ヶ崎は缶入りのスポーツドリンクのプルタブを起こすと、ぼくの顔の前に突き出した。
ペットボトルと違って、缶入りは一度封を切ったら飲みきらなければならない。
でも、自販機で買えるのは缶入りだけなんだ。
ぼくは素直に缶を受け取ると、口を付ける。
甘く、そしてぬるい。
冷えたものよりも胃腸への負担が少なそうだ。
もしかすると、それがわかっていてわざとぬるくしたのかもしれない。
「美味しいよ、ありがとう」
「この間のレモネードのお礼です。気にしないでください」
雲雀ヶ崎も隣に腰を下ろした。
風に乗って、何かわからないけどいい匂いが漂ってくる。
香水……とは違う。何だろうか?
「病院に居た頃、コーラやコーヒーは禁止されてた。でも、こういうのはいいよ、って言われてたな」
「病院のこと、思い出します?」
「そうだね……少しは」
「たとえば?」
「とにかく切腹が痛かったというのが一つ。トイレがやたら遠かったというのが一つ。あとは難しい本を読もうとして、途中で投げちゃったり、かな」
雲雀ヶ崎は、なぜかとても嬉しそうにクスクスと声を上げて笑った。
「るなも、あんまり得意じゃないです。難しい本。……お仲間ですね」
「そうだね。でも、雲雀ヶ崎にとっての難しいと、ぼくにとっての難しいじゃあ……けっこう差がある気がするよ」
「もう……先輩なんですから、しっかりしてください」
「ははは、ごめんよ」
それっきり、雲雀ヶ崎は黙り込んだ。
風のざわめきと、運動部のかけ声、金属バットがボールを叩く音だけが、雲一つ無い空に響いていた。
「ところで、先輩の一番好きな花は何ですか?」
「タンポポ」
思い返せば投げやりな答えだった。
「タンポポ……ですか?」
「嫌かい?」
まあ、その辺の草だしね。
ほんのちょっとした軽口のつもりだったんだけど、怒らせちゃったかな。
うん。わかってる。
ぼくはやっぱり、少し荒れてるみたいだ。
怒り出すかと思ったけど、雲雀ヶ崎は逆に見たこと無いような微笑みを返してきた。
「ううん。るなもタンポポが一番好きです」
「えっ」
「どこにでもある、普通の草。特別でもなんでもない、ただの雑草。誰も見向きもしないけど、心の優しい人だけが見つけてくれる……そんな花だと……るなは思います」
何だろう。
すごくいいことを言ってるような気がするけど、そんなつもりじゃなかったんだけどな。
「でも、今はちょっと時期が遅いかも知れませんね」
「そうだね。あれは春先に咲く花だ。でも、品種によっては秋頃にまた咲く。今はとりあえず他の花を考えよう。好きな花と育てる花は、また別だ」
「はい。ねえ、先輩。今日って、これからバイトなんですか?」
「うん、まあ。顔を出せる日は出しておこうと思ってる」
実際のところ、家で一人だと色々と考え事をしちゃうから、暇な店とはいえ身体を動かすほうがいい。
そうだ、今日はエアコンのフィルターを掃除しろって言われてたんだっけ。
「頑張ってくださいね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます