肆・終



「ご老人」


 と、闇の中から姿を現したのは鬼島きじまである。


「まったく、蛙人かわずびととは恐れ入った。どうも妙だとは思っていたが……。まあいい、ひとまず俺がこいつを吐かせよう。人の姿もとれぬ青二才だ、指一本触れずにやってみせる」

「そりゃあいいが、のろのろしてると孫が消化されるんじゃが……。わしがやったほうがよくはないかのう。ああでも、わしは今のでちょっと疲れてしまったしのう」


 ちょいと待っておれ、皆と相談してくるからの――老爺はくるりと踵を返し、沼の水に足を取られながら亀のような歩調で仲間のもとへ歩いていった。


 蛇が待ってましたとばかりに体を起こした。



「誰が人の姿をとれぬと言った!」



 蛇は裂けんばかりに口を開けると頭を左右に振って水をかき分け、雷光の如く体を光らせた――かと思いきや、途端にのたうちまわって苦しみ始めた。


「ぐうう、痛い、体が引き裂かれる!」


 鬼島は悶え苦しむ蛇から距離を取りつつ言った。


「そうだろう。腹のものを消化しないまま人の姿になろうとすりゃあ、どうなるかは容易く想像がつくってもんだ。人になれば素早さではそこの爺さんに勝てる可能性もあっただろうが、残念だったな」


 蛇は涙目になってうっうっと嘔吐き、白い塊を吐き出した。あまりにもあっけなく吐き出したので、皆あっと驚いて塊に意識がいった。蛇はその隙に気力を振り絞って人の姿をとったが、鬼島がすでに目前まで迫っていた。


 鬼島は勢いのまま蛇人じゃびとの鳩尾を柄頭でどんと殴った。蛇人は白目を剥いて水に倒れた。



 腹の内から沼に生還した少年は、幾度も嘔吐しながら浅瀬まで這い上がってきて、憔悴した様子で老爺を見上げた。手にはまだ固く懐剣を握っていた。


「爺さま……爺さま。ご迷惑をおかけしまして……」

「浅はかな孫じゃ。ほんとうに腹の内を裂こうとするとは」

「はい。ですがまったく歯が立たなくて……。内蔵ならやわらかいと思ったのですが」

「だからお前にはまだ早いと言ったのじゃ。大人しく他の者と一緒に避難しておればよかったものを、自ら人質になってどうする」

「面目ございません……。でも私は、私だって、役に立って見せたかったのです。のけ者にされることが悔しく、悲しく、腹立たしかったのです」


 少年が思わずぽろりと涙をこぼすと、老婆が寄ってきて背中をさすった。爺は慈愛に満ちたまなざしを孫へと向けて、


「蛙人は年を重ねれば強くなる。そういう血なのじゃ。お前は同じ年頃の子どもの中では成長が早く足も強いが、力はまだまだ年寄りに及ばん。若者には若者の、年寄りには年寄りの得手不得手がある。それを補い合ってこその村というものじゃ。しかしお前はよくやったとわしは思う。此度のことは大いに学びとなったことじゃろう。それにな、わしらもちょっと意固地になりすぎた。若い者たちを邪魔にせず、木々の裏にでも隠して見物させてやればよかったのう」


「そうじゃのう、そうじゃのう」

「ちょっと過保護じゃったのう」

「なにせ目に入れても痛くないほど可愛くて」


 と、周囲の老人たちが口々に同意する。木の上から息を殺して見守っていた者たち――こちらは初老であったが、彼らも一様にそうだそうだと言って下りてきた。


 周囲が和やかな空気に包まれている。これにて一件落着――かと思いきや、気を失っていたはずの蛇人が突然体を起こし、今が好機とばかりに逃げ出した。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか、一瞬大蛇の姿に戻り、大しぶきを起こして水の盾を作り、また人になって水面を駆ける。信じられないほどの俊足であった。


 蛙たちは村の絆にほっこり笑い、すっかり気を抜いていたので、頭からかぶった水しぶきが目くらましになって、敵の姿を見失った。時間にすればそれほど長くはなかったが、ようやく豪雨のようなしぶきが収まり周囲をきょろきょろ見回すと、もう少しで山に入るという所に二つの奇妙な人影があった。


 一人は全身が黒く左手に提げた鞘は赤く、離れていても伝わるほどの殺気を身に纏う。もう一人はその足下に伏し、なにやら必死に詫びている。


 蛇が逃走を謀った時、鬼島は無論それを読んでいた。水の盾をスパッと斬って岸に駆け上がり、同時に小石を三つ拾って左右中央の三方に飛ばした。そのうちの中央に放った小石が蛇人のそばを掠め、気を張っていた蛇人は反射的に殺気を見せた。それが鬼島に位置を教え、鬼島は腰から鞘を引き抜くや、槍でも投げるようにそれを放った。鞘は寸分違わずまっすぐ獲物に向かい、後頭部に直撃して蛇人を再び水に沈めた。


 頭に立派なたんこぶをこしらえた青年の首すじに冷気を放つ切っ先を突きつけ、鬼島は言った。


「俺はお前の一族に頼まれて、お前を連行することになっている。途中で俺から逃げ出せるか試してもいいが、どうする」

「逃げません。わたくしはあなたさまには勝てません」

「いいのか。こういうのはやってみないとわからねえもんだぞ」


 いいえ、と蛇人は首を横に振る。


「その黒い出で立ち、赤い鞘……。一族の年寄りの話の一切合切を無視してきたわたくしですが、これだけはしかと頭に入れよと強く言われましたので憶えております。鬼島さまと言えば天下一二を争う剣客。人の身でありながら妖にも敵う者なしと、その名を馳せておられるお方。事実わたくしの足を止めるとは、恐れ入りました。お恥ずかしい話、わたくしは逃げて逃げ切れなかったことがないのです。鬼島さまには手を出すなと重々言い聞かせられていたにもかかわらず、短慮を起こしました。この上は大人しく一族のもとへ帰ろうかと存じます」


 そうか、と鬼島が言ったので蛇人はほっとしたが、次の言葉に青ざめた。


「お前、からかいついでに人を喰おうとしていたようだが、すでに誰か喰ったのか」

「滅相もない! 誰も喰ろうておりません!」

「だが、あいつのことは本気で喰おうとしていたな」

「いえ、あの、そんなことは決して……ねぐらに戻った後に吐き出そうかと……」

「俺はお前の里の奴らから、躾も頼まれているんだが」

「ひぃっ……」


 そこで「おおい、おおい」と蛙たちが手を振ったので、鬼島は青年を立たせ、鞘でひたひたと頬を叩いた。


「道中が楽しみだ」




 翌朝、蛙の少年が目を覚ますと、鬼島と蛇はもう村を発っていた。枕元には一枚の書き置きと、紐に連なった銅貨が一本。


「生を見届けると言ったが、長生きしそうな奴をのんびり見ているほどひまじゃねえ――だそうです」


 読んで聞かせると、老爺と老婆は銅貨に向かってありがたく手を合わせた。


 鬼島が有名な人物だということを知った今、あっさりと去ってしまったことがひどく惜しまれる。少年はため息して手紙の最後の一文に目を落とす。


「強さとはひとつところを指すのではない――か」


 鬼島はたしかに強かった。己を磨き、自分の強さを見つけられたなら、また彼の人に会えるだろうか。


 少年は「よし」と両手で頬を打ち、ぴょーんぴょんと軽快に跳ねて村の入り口の大樹の根に立つと、後ろを振り返った。



 山越え谷越え、これぞ秘境と呼べる山間の沼地のそばに、太古の昔からそこにありそうな大樹の森に隠れるようにして、人気の少ない村がある。年寄りが力を持ち、今は活気に乏しい村である。だが大樹に守られ多くの命が輝くように、その命がいずれ新しい命を守る大樹となるように、自分も少しずつ成長していくのだろう。



 もうすぐ若い衆が帰ってくる。皆とじっくり大人になるのも悪くない。







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生まれながらの長老なし 月島金魚 @tukisimakingyo

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