参
幸い二人とも夜目が利いたので、一刻で村の付近まで戻ってくることができた。
沼のそばには幾本もの大樹が
「今宵は新月だ。もう少し開けた所に行かねえとさすがに厳しいぞ」
「音や気配を頼りにしてください。あなたならできるでしょう」
「お前はそれで困らねえのか」
「私には見えます」
「ほう……」
すると右手のほうからズズズという地滑りのような音が聞こえてきた。
それは徐々に近くなる。目を凝らすと先の闇が不気味に蠢いている。
鬼島が気配を絶って構えると、隣の少年の空気がぎくりと緊張した。
「どうした――」
言いさして、うなじの産毛がぞわっと逆立った。老いた声が鬼島の耳もとで線香の煙の如くたなびいた。
「おやまあ、二人して。お侍さまならこのきかん坊を止めてくれると思ったのにねえ」
鬼島は振り向くより速く抜刀して背後に突き立てたが、相手は信じられないほど身軽に木の上に飛んだ。
「まあ、危ない。こりゃすごいねえ」
顔は見えないが、声は少年の祖母に違いない。
「まあまあ、そこで見てらっしゃい。くれぐれも邪魔をするんじゃありませんよ」
老婆はそう言って姿をくらました。
直後、沼からざんぶと音がして、大蛇が姿を現した。こんもりとした小山が闇夜に白く浮かび上がっている。月明かりはない。蛇自身が蛍火のように発光している。
「ひとつか」
と、鬼島は舌なめずりした。大蛇は年を経ているほど頭の数が多い。神話に聞く
しかし次の光景に鬼島は背筋を凍らせた。
周囲の木々から、藪から、沼の中から、人がぞろぞろ集まってくる。足下がおぼつかない者もあれば、今にもでんぐり返ししそうなほど背中の丸い者もある。まるで死人が墓から散歩しに出たかのようだ。五、十、十五――これだけ隠れていたのに、鬼島は今の今まで気配に気づけなかった。
年寄りの群が最前線にぱらぱらと散り、その後方、木々の陰や枝の上に、比較的背すじのしゃんとした者たちが息を殺してじっとしている。殺気はなく、狙撃目的のようにも見えない。ただ戦闘の邪魔にならぬよう、いつでも動けるよう気を張っている――そんな感じを受けた。
「おい」
鬼島が低く唸ると、少年は歯ぎしりしながら「はい」と答えた。
「こいつはいったいどういうこった」
「どうも何も」
と、少年は口惜しそうに手のひらに爪を立てて、
「私たちは遅かったんです。あいつをもっと村に引きつけてからだと思ったのに……」
「どこが臆病な老人どもだ、嘘吐きやがって。ありゃ一人残らず手練れだぞ」
「嘘ではありません。若者を信じることができぬ臆病者です」
蛇が天を突かんばかりに首をもたげた。舌がちろちろ見え隠れして、まだ若い男の声が降る。
「待てど暮らせど一向に贄が送られて来ないとはどういうことじゃ。わしはひと月以内に娘を差し出せと申したであろう。腹は減っておるが、年寄りなどいらん。それもこんな大人数、骨をしゃぶれと申すのか」
「我が村には娘なぞ一人もおらんのです」
蛇の前に進み出て、少年の祖父が静かに言った。蛇は小首をかしげて、
「ひと月前はおったようじゃが……」
「気のせいです。あれは皆、男です」
蛇はちょっと考えてから、
「ではなぜあの時そう言わん」
「あなたさまが怖くて言葉が出てきませんで……。情けないことに、今もほれ、このとおり。どうしようもなく震えております」
老爺が震える両手を前にかざすと、蛇は「ふうむ」と、今度は反対側に首を傾けた。
「でも約束は約束じゃし……。わしはひと月待ったのじゃし……」
「おらんもんはおらんのです。他を当たっていただきたい」
ふうむ、ふうむ。と、蛇は大樹の向こうを覗き込もうとして首を伸ばした。
「ちょっと村を見させておくれ」
「あなたさまのような巨体が通れる道はございませんよ」
「なあに、精一杯首を伸ばせば木の上からでも見える」
ずるり、蛇が前進した。
すると鬼島の隣にいた少年がやにわに根から飛び出して、目にも留らぬ速さで沼の縁を一気に駆け抜け、ぴょーんと高く跳ね上がり、満天の星を背に負って蛇の頭上へ身を躍らせた。
「覚悟!」
懐剣が漆黒の鞘から抜き放たれて雫のように落ちていく。蛇は真上を向くと、楽しげにぱっくり大きく口を開いた。
少年がその赤黒い闇に懐剣ごと吸い込まれるのと鬼島が駆けつけるのとは同時であった。
鬼島は少年が飲み込まれる瞬間を見ずに一太刀、蛇の腹へさっと入れた――が、大して刃が通らなかった。鬼島はすぐに距離を取った。蛇はちょっと顔をしかめてごくんと喉を動かし、それから己の腹に視線を落として「痛い」とこぼした。
長い長い尾が横様に振られ、鬼島はすんでの所で身を躱したが、風圧でそばの藪に突っ込んだ。蛇は尾で腹をさすりさすり、
「腹の外も内もちくちくする」
「うちの若い者が失礼をしました。それは
目の前で孫が呑まれたにもかかわらず、老爺は狼狽の素振りも見せないどころか、蛇にうやうやしく頭を下げた。
「男子か。男子にしては不味くなかった。此度はこれで帰ってもよい」
「お出しくだされ、腹を下しますぞ」
「よい。今もちくちくしておるが、じきに消化されよう」
「どうしてもお返しいただけませぬか」
「どうしてもじゃ」
蛇がくつくつ笑うと、老爺はふうと息を吐いた。
「ではちょっと手荒なことを致しますが、ご容赦くだされ」
「む?」
老爺はすっと手の震えを止めて、蛇の尾の先へざぶざぶ歩いて行った。周囲に詰めていた他の年寄りたちが一斉にしわだらけの喉を鳴らし始める。
グェッグェッ、グェッグェッ。
興味深くその様子を眺めていた蛇は急に何かに気がついたと見えて、丸い目をさらに真円に広げた。見る間に血の気をなくし、すでに尾にたどり着いた老爺にくわっと牙を剥く。
「貴様、人ではないな!」
ぐんと力強く尾を持ち上げようとし――体を固くした。尾が上がらない。
尾の先を細腕に抱え、老爺は仲間同様グェッグェッと笑った。
「幼い大蛇さまじゃ。人と間違うて
蛇が大きく身を捩らせても老爺は大樹のようにびくともせず、ならばと蛇は大口を開けて老爺をひと呑みにしようとした。
「わしの孫を返してもらおう」
老爺は尾を掴んだまま跳躍し、蛇を空中でぐるぐる回した。その滞空時間の長いこと、長いこと。欠伸をする者さえあったほどである。
「はあ、腕が痺れてきたのう」
ようやく老爺が蛇を地面に叩きつけると、水しぶきが大波となって周囲の人々――蛙人を飲み込んだが、波紋が静まっても誰一人その場から動かず、彫像のように同じ場所に立っていた。
老爺は沼いっぱいに伸びている蛇に向かって、
「哀れじゃ。大蛇の大人はお前さんに教えなかったのかね。蛙の一族は年を取れば取るほど強くなる。ほれ、そこの大樹のようにな。しかしあれだけ振り回しても呑んだものを吐かぬとは、若年とは言え見事なり。さあて、どう調理してくれようかのう」
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