弐
先日の雨でぬかるむ山道をものともせずに、鬼島と少年は淡々と行く。冬を前にした木々は細々とでも生きるために葉を落とす準備に入った。時折枝を飛び交うのは
着物の裾をからげ、泥にまみれた白い足がふいに止まった。
「ここから半刻まっすぐ下りれば人里に出ます。
「見届けると言っただろうが。お前が喰われた後のことなら心配するな。逃げ足は速ぇんだ」
「見ればわかります。あなた、ただ者ではありませんね」
少年はちらと笑みを見せて、
「まず見てくれが怪しい。……特にその腰の物」
鬼島はにいと笑って、漆黒の着物に鮮烈に浮かび上がる朱塗りの鞘に左手を添えた。
「こいつか。たしかによく血を吸っているな」
「人の……?」
「
「なぜ此度はお引き受けくださらないのです」
「引き受けたさ。おめえを逃がす」
嗚呼、と少年はうつむいた。
「……お気づきでしたか」
「生を見せつけると言っていたからな。刺し違える気なんざ、さらさらねえんだろ。爺さんと婆さんが泣くぞ」
「あんなもの」
少年は軽蔑も露わに鼻を鳴らした。
「臆病な老いぼれどもの言いつけをなぜ私が守らねばならぬのか。いったいこれまでどれだけの女が……いや、何人が彼らの犠牲になったとお思いですか」
「さあ、知らねえな」
「このひと月で六十を超えます。たったひと月で、ですよ。若い娘が消え、幼子が消え、年増が消え、それらを送り届けた者たちが消え――果ては女を装った男が行く始末」
少年は自身を見下ろして自嘲気味に笑った。
「男だと知りゃあ、蛇はさぞかし怒り狂うだろうな。屋根裏、床下、備蓄の倉……村中の至る所で息を潜めていたようだが、俺ですら気づいたのだから、奴にはまったく意味を成さないだろうよ。一人残らず殺られるぞ」
「そこは大丈夫ですよ。私が蛇を足止めしているあいだに三々五々散る手はずになっております。村はすでにもぬけの殻やもしれません。ならば私とて、好きに生きてもよいとは思いませんか」
「そう思う。お前の祖父母もそうしてくれと言っていた」
少年はきょとんと鬼島を見返した。化粧で大人びた顔が年相応になる。
「それは、いつ……?」
「直接言われたわけではないが、そう受け取った」
「……」
秋らしく急速に日が暮れて、お互いの顔が見えづらくなった。
さて、と鬼島は顎をしゃくった。
「お前、どうする」
「私には構わず行ってください。ご用事がおありだとおっしゃっていたではありませんか」
「しかしなあ……」
鬼島は懐に手を突っ込んで、銅貨が連なった紐を一本取り出した。
「金は受け取っちまったからな」
鬼島の手の内でチキチキと鳴るそれに少年は目を見開いた。
「いつそんな……」
「帯にすがりつかれた時にな」
「まさか、私を無事に逃がせと?」
「ああ。本来なら先の依頼を片してからだが、まあ、そっちは後でもいいだろう」
少年は先ほどからちっとも臆する様子のない鬼島に興味を抱いた。
「失礼ながら、鬼島さまはどういったお役目を……? まだお若いように見えますが」
「役目なんてたいそうなもんは背負ってねえ。この身ひとつで諸国を巡り、道中の糧を得るために日雇い用心棒をしたり、賊狩りをしたり、厄介な頼み事を引き受けたり……。面倒事に巻き込まれることも多々あるが、気楽でいい」
「ご自分に自信がおありだから、そのようなことができるのですね」
「他に生きる術を知らないだけだ」
鬼島は金を懐に戻し、ぐんぐん色を濃くする空を見上げた。吐く息が白く上って、二人とも少し肌寒さを覚えた。
「もっとお話を伺いたいのですが、そんな余裕はなさそうですね。先の依頼は本当に後回しにしてもよろしいのですか」
「ああ。……出奔した若造を見つけて連れ戻してほしいと言われてな。なんでも目上の言うことをてんで聞かない暴れん坊で、己を過信して一族を抜けたから何をしでかすかわからんそうだ。まあ、居所はもう掴めているから、あとはどう灸を据えてやるかだな」
「うらやましい」
「は?」
鬼島の引きつった顔を見て、少年は慌てて両手を振った。
「ちがう、ちがう。灸のことではありません。あなたもその若造とやらも、自分の思うように生きていらっしゃるようなので……。身内にすらあてにされず、こうして村を出された私とは大違いです」
「それが不服なのか。贄にされることよりも、戦えないことが」
少年はこくりとうなずき、声を震わせた。
「私は幼くして父母共に病で亡くし、祖父母はじめ村中の者に可愛がってもらいました。今こそ受けた恩を返す好機と思い、私が行って大蛇を成敗すると申し出ると、有無を言わさず奥の間に幽閉され――命を賭ける機会を奪われたのみならず、女の格好をさせられるとは。こんな屈辱はありません」
「なるほどな」
軽く相槌を打つと鬼島は目を鋭くして、来た道を猛然と戻り始めた。もとからほとんど道などなかったが、月がなく墨に浸したような藪の中である。鬼島は行きで手折った枝や払った藪を用心深く見いだし、健脚にものを言わせ、さながら獣のように登っていく。その後ろを少年は難なくついてきた。
「俺は二日前、とある集落で仮住まいをしているという若い男や女をたくさん見た。……まったく、お前の村の老人たちはうまくやったものだ」
「……と、申しますと?」
「ここはずいぶん険しい山だな。獣道、暴れ狂う渓流、山腹絶壁。これでは登山を断念する者も多いだろう。普段から人が来ないとは逆も然りで、足腰の弱い者は外に出て行くことができない――違うか?」
「そのとおりです。商人すらやって来ません。私たちは完全に自給自足の生活をしておりました」
鬼島は考えるように言う。
「年寄りどもは若い衆をこっそり村の外に逃がしていたんだろう。おそらく誰一人として生け贄になどされてはいまい。何かの拍子に大蛇に気づかれてはまずいから、身内すら騙して送り出していたんだな。血気盛んな男衆も、蛇退治には向かわず逃げるよう、よくよく言い含められたんだろう。二日前の若い奴ら、あれはもとはお前の村の者と見て間違いなさそうだ。村に残った年寄りや弱い者たちは、いざ大蛇が襲ってきた時に足手まといにならねえよう、自ら村に留まった」
「それは違う」
背後の声は急に気色ばんで語気を強めたが、鬼島は続けた。
「なぜ違うと言い切れる。爺さん婆さんはこう考えた。お前はどうやらずいぶん頑固者のようだから、皆と一緒に逃げろと言ったって聞かねえだろう。男ながら見目もいいし、生け贄の身代わりとは危険な役目だが、お前なら言いつけを守って大人しく贄になりはしないだろう。それにその足の強さなら、たとえ大蛇と出会っても逃げ切れる可能性がある。むやみやたらに突っ込んでいく危険はあったが、足止めになるよそ者が――俺がついていればそれも止められる」
反論はなかったが、かわりに小さく唸り声がした。鬼島は足を止めて少年と向き合った。少年は腹の上に――その下に隠した懐剣の上にこぶしを当てて、じっと地面を睨みつけている。
鬼島はにやり、口角を上げた。
「逃げる気はもちろん、刺し違える気もねえんだな」
辺りは真の闇に近かったが、毅然と面を上げた少年の瞳は内から輝きを発しているようだった。
「私は戦いたいのです。蛇を倒し、生き残るのはこの私だ」
鬼島は笑みを深め、鞘をなでた。
「渡りに船と思っただろうが、爺と婆は人選を誤ったな」
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