第6話 性格的なドッペルゲンガー
つかさは、最近また無料投稿サイトを利用して作品をいくつかアップした。山陽道での取材旅行から帰ってきてから、結構いろいろなアイデアが生まれてきて、
「今なら、作品を量産できるかも知れない」
という思いが強かった。
つかさは、あまりいろいろ考えて執筆する方ではない。性格的には神経質ではあるが、あまり書き始める前から具体的にしてしまうと、書いていて雁字搦めになってしまう気がして、好きではなかった。
大雑把な性格も手伝ってか、ある程度までプロットができれば書き始める。書いているうちに思い浮かんだことを加筆していくうちに、形にもなってくるが、下手をすると、まったく違う作品になってしまうこともある。だが、出来上がってしまえばそれでいいのだ。つかさは、そのあたりにはあまりこだわりを持っていない。
そんな風に考えているからなのか、
「作品は、質よりも量だ」
と思っていた。
いろいろ考えすぎて堂々巡りを繰り返し、書き始めることができなかったなどというのは、愚の骨頂だと思っているからだ。
それよりも下手でもいいから書き続けていると、それなりの作品が書けるようにもなるし、それだけ作品が出来上がることになる。それが嬉しかった。嬉しさはやりがいとなり、大げさにいえば、生きがいでもあった。
まだまだ長編を書けるほどにはなっていないが、原稿用紙で百枚くらいの作品までは書けるようになってくると、自分なりに自信もついてくる。
最初は、五枚くらいがやっとだった時期が懐かしいくらいだ。
そんな程度の枚数であれば、自分で書いたという気もしなかったのではないかと今では思えるが、書けるようになるまでにいろいろ試行錯誤を繰り返したことを思えば、自分にとって、五枚であっても信じられないくらいのものだった。
そもそも、大学で文学部に進んだのも、
「できれば、小説家を目指したい」
という思いがあったからだ。
それも、ライターのようなノンフィクションではなく、すべてを自分で創作すると言ったフィクション系の小説家である。
つかさは、大学時代の頃まで、いや、自分で小説が書けるようになるまでは、
「ノンフィクションを書いている人を、小説家と呼びたくない」
と思っていた。
作家であったり、執筆家、ライターという表現であればまだしも、小説家というのを名乗ることを許せないとまで思っていた。
今も基本的には考え方は変わらないが、ライターとしての仕事をしている以上、自分がこれから小説家を目指したいと思うこと自体が間違っているのではないかとさえ思えるほどであった。
「性格的なドッペルゲンガー」
という小説を読んでからというもの、自分の小説もどんどんオカルト寄りになっていることに気が付いた。
オカルト寄りというのは、SFやホラー、ミステリー色を削っているという意味であった。
純粋なオカルトを目指しているわけではないが、
「本格オカルト小説」
というジャンルが存在するのであれば、それが純粋なという意味ではないかと思っている。
探偵小説というジャンルで、
「本格探偵小説」
と呼ばれるものがあるが、その定義としては、
「小説の書き方の一つで、その小説の雰囲気によるものではなく、謎解き、トリック、名探偵の活躍などと言った概念を持って書かれた小説」
と定義されている。
しかし、オカルト小説自体が、そもそもミステリーと言う広義の意味から独立したものであることから、
「本格ではない」
と、最初から烙印を押されているかのように思えた。
それを思うと、オカルトに大切なものは、やはり、怪奇小説であったり、幻想小説、SF系に近くなるのだろう。
つかさはその中でも幻想小説をオカルトの起源として考えている。それこそが自分の目指しているもので、ドッペルゲンガーなどの現象や、心理学でいわれている様々な症候群、さらに、同じく心理学用語としての「○○効果」などというのも、その一つではないかと思っている。
小説を書いていると、
「私って、こんなに集中力が高かったのかしら?」
と思えるほどになっていた。
元々、集中力には難がある方だと思っていた。中学、高校時代には勉強をしていても集中できなかった。一人では難しいと思って、友達を誘って勉強するのだが、却って火に油だった。お互いに集中などできる環境にあることを分かっていながら一緒にいると、今度は一人になるのが怖いのだ。
どこから来る心理なのか分からなかったが、つかさにはその思いがその後もずっと残るような気がしていた。
実際に大学に入っても試験前などは、勉強が手につかないなどということも結構あり、図書館でやっても、ファミレスでやっても、もちろん、自室で勉強しても集中できない。何が原因なのか分からないほどであった。
考えられることとすれば、
「好きでもないことをやらなければいけないという意識だけで続けようとすること自体に無理がある」
ということではないかと思った。
つかさにとって小説を書くことは好きなことをすることであり、そのための集中力はハンパないと思っている。
「書けなかった時期を、試行錯誤を繰り返して書けるようになった大好きなことなだけに、これで集中できなければ、本当に集中力がないということを見問えないわけにはいかないだろう」
と思うようになっていた。
オカルト小説を少しずつでも長く書けるようになりたいと思っている。それは長編を目指しているという意味であるが、
「性格的なドッペルゲンガー」
という小説は、長編と言ってもいいほどの長さがあった。
文庫本にすれば、二百五十ページ近くにはなるのではないだろうか。
だが、その小説は今まで自分が読んできた長編小説のどれよりも簡単に読めた気がした。文章が易しいというのおその一つだったが、そもそも主題が難しいので、なかなか一度くらい読んだだけでは理解できないことも多いだろうが、つかさは一度読んだだけで理解した気がしていた。
小説というものは、一度読めばそれでいいと思っていた。
だから自分の作品も、一度読み終えた読者がその時どう思うかというのが、すべてだと思っていた。
なかなか小説を書くというのは骨のいる作業ではあるが、書き始めると自分の世界に入り込んでしまう。
もっとも入り込まないと書けないものであり、それが集中力に繋がるという、いい意味でのスパイラルが形成されることで、小説を完成に導くことができるのであろう。
オカルト小説は書けるようになると、その幅の広さを感じさせられる。
普通であれば、
「こんな中途半端な終わり方、いいわけはない」
と思っていて自分で読み返してみると、案外と謎めいた小説になっていたりする。
ただこれも自分の思い込みから感じることなので、都合よく読んでしまうという弊害なのかも知れないが、それでも、
「これこそが自分の目指すオカルト小説だ」
とも思えてきて、どこまで自分に都合よく考えるのか、不思議なくらいだった。
「性格的なドッペルゲンガー」
の作者がどんな気持ちで作品を書いたのか、聞いてみたいものだった。
それは、案外近いうちに訪れることになった。しかも、自分で望んでできた舞台ではないのが面白い。
編集長が、他の編集者から頼まれた忖度だった。
「今度の人は素人なので、本当なら引き受けるつもりはなかったんだが、大手出版社にいた時の先輩からの頼みで断れなかったんだ」
と言っていたが、確かここの編集長は、大手出版社にいたのを、うちの社長が轢き悔いたという話だった。
――引き抜いたというわりには、パッとしないけど――
とつかさは感じたが、それでも大手にいることは、若手ホープという呼び声があったくらいだったので、引き抜きがあっても当然の人であった。
そんな編集長が、元上司から、
「押し付けられた」
のだろうが、断ることもできないのは、気の毒であった。
「しょうがないですね」
と、嫌味の一つも言って、とりあえず引き受けることにした。
「どんな話を書いている人なんですか?」
と聞くと、
「何でも難しいジャンルの小説を書いているらしい。出版はしていないんだけど、ネットで少し話題になりかかっているので、今のうちにインタビューしておくのも悪くはないだろう」
という話だったのだ。
「代表作はあるんですか?」
「あるみたいだよ。話題になっている作品は、『性格的なドッペルゲンガー』というらしいんだ。難しいタイトルだろう? ちなみに、ドッペルゲンガーっていうのは、自分と同じ人間ということだろう? それが性格的なという意味が分からないよな」
と編集長は自分でふって。自分でボケていた。
ただ、つかさとしては、自分も興味を持っている作家で、どんな人なのか興味津々だっただけに、心の底では、
「よし」
とガッツポーズを示したが、あくまでも表面上は、
「しょうがないですね」
と、編集長が引き受けたことで、こっちにとばっちりがかかったとばかりに表現したのだ。
インタビューの日は、三日後に設定し、作者と話ができるのを楽しみにしていた。
ペンネームは、
「服部省吾」
というどこにでもあるような名前だった。
ホラーやオカルト作家が好むような恐怖を与えるような語に、ダジャレを催したようなペンネームをつけているわけではなかった。
つかさは、インタビューの前のこの三日間の間に、一度は小説を読み直してみようと思っていた。
幸い編集長から話のあったその日は、プライベートでは何ら予定を入れていたわけではないので、その日のうちに、読み直してみた。
ワードにコピーして、縦書きにしてから印刷すると、読みやすい気がした。やはり横書きよりも縦書きの方が読みやすいのは、日本人だからであろうか。
前はネットの横書きでしか見ていなかったので、読み終わった時の衝撃を印象としてしか残せなかったが、今回は用紙に印刷して読むのであり、しかも再読ということなので、さぞや記憶にも残るに違いない。
ボリュームでいえば、一気に読むのは結構きついのだろうが、最初に読んだ時には、
――タイトルが難しいわりには、読みやすい気がする――
という印象を得た。
実際に読み始めてみると、最初に感じた読みやすさはそのままで、一度読んでいることもあってか、一気に読める気がした。少々は端折っても構わないくらいに思えて、読み直しの小説であるということを考慮すると、セリフだけを読み込んでもいいくらいにも思えた。
だが、それは最初だけで読み込んでいくうちに、文章の一つ一つをいつの間にか飛ばすこともなく読み込んでいた。中学生の頃までのつかさは、国語の文章題など、例文を読まずにいきなり設問から入っていたので、国語の成績は最悪だった。
そんな中学時代の自分が、今まさか、出版関係の仕事をしているなど。想像もできなかったに違いない。
読み直しになると、以前気にしていなかったところを気にするというが、まさにそうだった。
――こんなシーンがあったんだ――
と感じるところがあったりして、まるで最初に読んだ印象とは別の作品に感じられるほどになっていた。
今までに同じ小説を読み直すということはなかったので、こんな感覚になるなど思ってもみなかった。いつもは、小説は一度読んだら、短い期間での再読はなかった。何年も経ってから読み直すということはあったが、その時には結構内容は忘れていて、以前に読んだ時の記憶がないものだから、比較対象もないに等しかった。
その話を二度目に読んだ時に浮かんできた光景があった。ただ、小説の場面とは似ても似つかない光景であったが、これを思い出すというのは、何か曰くがあるのではないかと思わせた。
小説も舞台は都会であった。都会の大学生が友達はいるのだが、その付き合い方は少し変わっていて、お互いにどこかに誘いあうというわけではなく、
「気が付けばいつも一緒にいる」
という感じの友達が多いのが、主人公の特徴であった。
一生懸命に生きているわけでもなく、かといって、ものぐさに生きているわけではない。何も考えているように見えるが、何も考えていないわけではなく、むしろ、絶えず何かを考えているのだ。それがまわりに注意力が散漫だと思わせる行動になったりして、あまり友達も多いというわけではなかった。
そんな彼が、
「性格的なドッペルゲンガー」
と呼ぶ人がいた。
いつも影のように自分の足元から伸びているかような人物で、そのくせ、他の人からは、主人公とまったく違った性格に見えるのだった。
顔も似ているわけではなく、まったく違っているのだが、
「ふとしたことで、見分けがつかないほど似ている時がある」
とまわりの人に言わしめた。
実際には友達というわけではないのに、まわりからは親友のように思われているようだった。
最初に読んだ時と明らかに雰囲気が違っていた。一度目に読んだ時と再読の二度目とでは何が違うのかというと、
「主人公にとっての影の存在である、いわゆる準主役が最初に読んだ時とはまったく違って感じられた」
ということである。
しかし、考えてみれば、影が違っているのであれば、主人公から見る影というのも違って見えて不思議はないのに、感じ方は同じに描かれている。それを再読では、違和感なく読み込めるのだった。
普通であれば、影の存在の雰囲気が違っているのであれば、見え方も違ってしかるべきである。それにも関わらず、主人公はまったく変わったという意識もないのだから、まるで、
「三すくみの一角が崩れたのに、均衡が取れているという矛盾」
を感じているかのようだった。
そのインパクトとして表現できるとすれば、いわゆる、
「メビウスの輪」
ではないだろうか。
捻じれた輪であるにも関わらず、一方に引いた線が、輪を作ると、同じ方向に向かって重なるという。異次元を意識させる代名詞になっている、あの「メビウスの輪」であるのだ。
ただ、最後まで読み終わった時のイメージは、そんなに最初と違うわけではない。
むしろほぼ同じだったことへの違和感があるくらいで、登場人物のイメージが違っているのに、最後の印象が同じだというのは、どうにも納得のいくものではなかった。
そのままインタビューを試みる自信がなかったので、もう一度あす再読してみることにした。
もう一度、今の流れで再読しても、二度目に読んだイメージが強く残ってしまっているので、一日は開ける必要があるんだろう。一度睡眠をまたいで読み直すと、どんな気分で読みことができるのか、それも興味の元でもあった。
「今日、何も余計な夢を見なければいいけどな」
と思いながら睡眠に就くと、気が付けば目が覚めていた。
その間に夢を見たという意識は別になかった。
夢を見たという記憶がなくても見ている場合はある。しかし、この日は、
「本当に夢を見ていない気がする」
という程度の自分のようなものがあった。
この日、夢を見ていないということは、余計な先入観が頭の中に宿っているわけではないと思うので、つかさは次の日、もう一度、
「性格的なドッペルゲンガー」
を読んでみることにした。
今度はあくまでも昨日とは違っている。
「今日は昨日と違って、最初から二回目が印象が違った」
という意味での先入観があった。
昨日夢を見なかった時に、
「余計な先入観がなくてよかった」
と思ったのは、先入観を先入観で上塗りしてしまうのが怖かったのだ。
つまりは、
「余計な」
という修飾氏がついているかいないかが問題なのだ。
朝から読み始めた読書は、久しぶりに緊張した。基本的に読書は気持ちに余裕があって、楽しむものだというのを理想だと思っているが、今回は仕事で読まなければいけないという意識と、さらには昨日が最初に読んだ時とまるっきり違った登場人物の印象だったということがあったからだ。
しかし考えてみれば、影のような存在であるドッペルゲンガーが、最初に読んだ時とまったく違って感じられたというのに、ストーリー展開が同じにも関わらず、話全体に受けた印象は、最初に読んだ時とそんなに変わっているという印象はなかったのだ。
――本来なら変わっていて当然なのにどうしたことだろう?
これも最初に感じた違和感という名の先入観であった。
今度は三度目になるが、話を読み進んでいくうちに、今度も、
「あれ?」
と感じることがあった。
それは、一度目とも二度目とも、結構早い段階、序章のあたりから、雰囲気が違って感じられた。まだ登場人物が出てきているわけではないのに、どこがどう違っているのか説明を付けられるはずのない場所であるにも関わらず、そういう印象を最初に与えられた。
そう思って読んでいくと、やはり明らかに違っていた。
それは、最初と二回目とも違うものだった。しかも、それは何が違うのか、すぐに分かったのだった。
「主人公の雰囲気がまったく違っている」
それは、二回目に影に感じた思いに似ていたが、まったく同じものではない。それが何を証明しているのかというと、どうも、
「影なる男は、本当はドッペルゲンガーなどではない」
ということを示しているかのようだった。
そのことを証明することで、この本の再読が本当は必要であることを教えられた気がした。
――こんな小説、初めて読んだわ――
と衝撃的な感覚だった。
今までに、時間を離してはいるが、再読は初めてではない。すべての再読が同じ気持ちにさせるわけではなく、この作品の持つイメージがそうさせるのかも知れない。
考えてみれば、性格的なものをドッペルゲンガーと結びつけるという発想自体に無理がある。
ドッペルゲンガーというものが、その人本人であるということを大前提として考えれば、ドッペルゲンガーなる言葉を使用すること自体、ルール違反なのかも知れない。だが、つかさはそれも小説としてはありなのではないかと思っている。ドッペルゲンガーというものが都市伝説で、都市伝説ならではの言い伝えにもなっていると思えば、諸説あってもいいであろう発想をオリジナリティに沿って、新たな小説を創造するとすれば、それはありではないだろうか。
三度目に読んだ感覚もやはり、最初、二度目とはまったく違っていた。
つかさは、もうこれ以上の再読は考えていない。最初から三度読んでみる計画だったので、その通りにしただけだった。この状態で、明後日には取材、どのようにしようかと考えてみたが、なるようにしかならない。自分の考えは一度収めておいて、相手に話をさせるように持っていくことを中心に考えよう。相手が喋りたいことを引き出すという考えも取材では十分にありである。
「あまり深く考えないようにしよう」
それだけのことであった。
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