第3話 影の交差

 朝の目覚めは普通だった。もし、途中で目が覚めなければ普通の目覚めはなかったかも知れない。そう思うと、旅先での目覚めをいまさらながらに思い出していた。

 普通に目覚めることはあまりなかったような気がする。疲れているのか、夢はいつも見ていたような気がする。それも記憶にある夢だったという意識があるので、怖い夢だったのは間違いないようだ。

 目が覚めてから表に出ると、その日は昨日までよりもさらに涼しさが増しているようで、朝の風が少し冷たかったような気がする。

 靄が掛かっていたような気がするくらいで、急に寒くなってきたのも理解できる気がした。まだ、開店前の商店街を歩いていると、通勤時間帯を思い出したが、圧倒的な人の少なさに、まるで正月を思わせるくらいだった。

 駅まで行くと、伯備線に電車が止まっていた。新見行きと書かれた電車に乗り込むと、ローカル線特有の列車の匂いが感じられた。

 井倉駅までにも、倉敷、総社、備中高梁など、

「どこかで聞いたことがある」

 と思う駅が点在している。

 学生時代に読んだ探偵小説の中に、このあたりを舞台にした話も少なくなく、特に映像化作品などは、実際に撮影が行われた場所で、観光スポットとして公開されているところもあるという。

 だが、今回はその途中を通り越しての井倉洞であった。駅を降りると、数人の観光客が降りていた。もちろん、目的は井倉洞であろう。その日は平日だったので、そこまで観光客もおらず、人がまばらだったのも、気持ちを大きくする原因だったのかも知れない。

 井倉洞の中は、想像以上に大きく、いろいろなシチュエーションを描き出していた。山口の秋芳洞のように、その場所場所で異名もついていて、いつしかここが山口県であるかのような錯覚に陥るくらいであった。

 秋芳洞には何度か行ったことがある、仕事でも同行取材であったのだが、学生時代にも行ったことがあった。近くには山口市内を始め、津和野や少し足を延ばせば萩なども行くことができるのだが、井倉洞も孤立しているように見えるが、倉敷まで行けば、そこからは観光地に不自由することはなかった。

 井倉洞というのは、ゆっくりと昇るように作られていて、いろいろな創造物に気を取られているせいか、そんなに上昇しているという意識はない。しかし、通り過ぎてしまうと、出てきたところは、壁面のようになったところで、下を見ると、そこがかなり高いところにあるのに気付いたのだ。

 高所恐怖症の気があるつかさには、その高さは身体が委縮するくらいのものだった。思わず目がくらんでしまったという意識が強く、高さを意識しないようにしようと思っても、無理であった。

 ただ、ゆっくりと降りてくると、下に広がっている河原の石が一つ一つ確認できるほどに感じられた。川は蛇行していて。本当にヘビがにょろにょろと蠢いているかのようにも感じられた。

 下に降りてくると、先ほどの河原に浮かんだ石が、さまざまな大きさに彩られているのを感じた。

――石を見るなんて、今までにあっただろうか?

 と思った。

 石というのは、

「誰からも気にされることもなく、ただその場にあるもの」

 という意識があった。

 確かに自分も今まで道に落ちている石を意識したことなどなかった。石を見ていると、それほど白さを感じないにも関わらず、白く光って見えるのに、意識をしないのであった。理由は分からないが、

「石というものが、そんな存在なのだ」

 と考えるからであった。

 上から石を見ていると、本当に小さく見える。人がいても、その人たちすら小さく見える。

 下の光景を見ながら降りるのは実に怖いことだ。特に高所恐怖症の人間であれば、ある程度まで降りてこなければ、下を見るとはしないだろう。

 しかし、その時のつかさは、ある程度まで降りてきたところで、ふいに気になったように下を見た。あくまでも無意識の意識というべきで、見えた場所に、何やら見覚えのある既視感があった。

―ーごく最近見たような――

 と思って見ていると。どうやらそこにいるのは、昨日の後楽園で見かけた人のように感じられた。

 昨日は後ろからだったし、チラッとしか見ていなかった。しかも、影がないという印象が深すぎて、どんな人だったのかが分からなかったのだ。

 今日、その人が昨日の人だと、どうして感じたのかというと、今日も見ていると、その人に影がないのが分かった気がしたからだ。

 少し上の方から見ているので、余計に影がないのが目立つというもので、実際に他の人を見ると、くっきりと石に影が映っているのが分かったからだ。

 その影は白い石に黒い影がへばりついているようで、黒さと白さの区別がハッキリしていた。

 しかし、その人の足元からは影が見えていなかった。

「まさか、あの人のそばにある石だけが光を吸収でもするかのような働きをしているわけでもないでしょうに」

 と感じた。

 ゆっくりと下に向かって下りていると、そこばかりを気にしているわけにもいかない。だんだんと下界が近づいてくるにしたがって、意識は自分の目の前に置かれるようになっていった。

 やっとの思いで下まで降りてくると、そこにはさっきまでいたはずのその男性の姿はなかった。

 結構河原の手前から川に向かって入り込んでいたので、つかさの視線から消えたとするならば、どれほどのスピードでいなくなったことになるのか、想像もつかなかった。

 つかさは、とりあえず、さっきその男の人がいたところまで行ってみることにした。出口を抜けて、そのまま河原を少し歩き、大小の石が散乱している場所までやっていると、その場所というのが、相当歩きにくい場所で、まわりを気にせずに、足元だけを見なければいけないほどの歩くだけでも難所になっていた。

――どうやって、そんなに早く歩いたのかしら?

 とつかさは感じていたが、実際にその場所まで本当に時間が掛かった。上を見ることもせずに、足元だけを気にして歩いたこともあって、足の疲れは相当なものだった。

「ハァハァ」

 と息を切らせながら歩いてくると、実際にその場所は、普通に人が歩ける場所の最先端くらいになるであろうか。上から見た分には分からなかったが、相当大小の石の大きさに差があるようで、腕を使って死噛みつかなければ進めないほどの場所であった。

 さっきの男性は、そこから上を見ているようだった。帽子をかぶっていたので、顔までは確認できなかったが、明らかに上を見ていた。

 その場所につかさがやってくると、それまで見えていなかった光景が見えてくる気がして、何の変哲のない岩場というだけであるが、その男がどうしてそこにいたのかということが分かるような気がした。

――私にあの人が囁きかけているような気がする――

 という妄想に駆られていた。

 すると、もうそこにいないはずのその人がまだどこかに潜んでいるような気がして仕方がなかった。上から見ていると、その人は少しずつであったが、河原の手前の方に戻っているような気がしたのだ。だから、そこにいるというのはどうもおかしかった。

 だが、そのうちに、今度は上から誰かに見つめられているのを感じた。

 その視線に恐怖を感じ、

「見てはいけない」

 と思いながら、その男が顔をこちらに対して覗き込んでいるのを感じた。

「えっ、一体どういうことなの?」

 さっきまで下に、つまりこの場所にいたではないか?

 それなのに、すでに洞窟に入って抜けてきたというのか、つかさは幻でも見ているというのだろうか。

 それとも、最初に下にいた彼か、それとも上から降りてこようとしている彼のどちらかが幻ではないかとも考えられる。

「どうして、どっちも幻だったという考えが最初に浮かばなかったのか?」

 とすぐに感じて苦笑いをしたが、正直、苦笑いができるほどの落ち着いた気分ではなかった。

「幻を見たとすれば、自分が何か障害を抱えているということになるのかも知れない」

 と思うと次第に恐怖が襲ってきた。

 昨夜の疲れがまだ消えていないのかと思えてならなかった。

 あれだけ高いところから下を見たと思った場所であったが、考えてみれば、かなり途中まで降りてきていたはずだった。だが、今下から見た男の姿は下を見た時に見た男の姿よりも大きく見える。

 それも自分が下を見た、あの途中の場所ではない。洞窟の出口である、壁面の穴あたりにいるのにである。

 確かに上から見た方が下から見上げたよりも遠くに見えると錯覚してしまうという意識はあったが、ここまで違って感じるのは、この男性との教理が微妙に自分が思っている感覚と立場が違えば、変わってくるのではないかと思えた。錯覚が錯覚ではなくなり、それが真実ではないかという意識をもたらす。それこそが錯覚であり、それが目に見えているのであれば、錯視ということになる。

 上から見下ろしている彼は、つかさを見て笑っているような気がした。つかさも笑い返す。そこには上下関係は存在しない。つまりは従属関係はありえないということを示している。

 つかさは今までの自分と関わりになった人の中で、何人に従属関係を感じていたことだろう。むしろ従属関係のない相手が果たしていたのかどうか、それすら覚えていない。

 ということは、それだけ今までに友達と言える相手がいなかったとも言える。友達がいなければ、自分に関係のある人は、これまで育ててくれた親であり、学生時代であれば、担任を始めとする教師連中。就職してからは、上司と、つかさにとっては、「従」を感じる相手ばかりではないか。

 大学時代にはそれなりに友達がいたような気がした。彼ら、彼女たちと従属関係にあったとは思えないが、果たしてそうだったのだろうか? つかさは気にしなくても、相手に従属を感じさせたり、逆に相手は気もしていない人なのに、つかさの方で勝手に従属を求めてみたりと、つかさの中での人間関係という者には、必ず従属が付きまとっていたような気がする。

 その人たちと、どのあたりから従属関係を感じていたというのだろう? 友達になるには、相手の性格や自分との相性で、その時間はまちまちだっただろう。つまりは、タイミングの問題で、友達になれるための呼吸というものがあり、それを逃すとなかなかそこからの復活は難しい。それを思うと、友達になるためには、

「時間よりもタイミング」

 を図る必要はあるのだろう。

 だが逆にその相手との従属関係になる場合は、時間が問題ではないかと思う。相手との関係を距離という形で図るのが従属関係だと考えると、そこにタイミングという考え方はなく、すべて時間によって支配される時間がすべてに優先するのではないかという考え方だ。

「時間を最優先にした距離で相手との従属が決まる」

 と言えるのではないだろうか。

 つかさは、この時に、お互いに何かを意識させられたこの相手とを、

「従属関係に関係に身を置きたい」

 と考えていたわけではないはずなのだが、微妙な距離感を感じてしまうと、上から見た感覚と下から見上げた感覚の違いが、二人の本当の距離ではないかと思い、

――どうやら私は彼に対して、従ってしまうという考えを持ってしまったのではないか――

 と考えるようになった。

 しかし、先ほどの錯覚は、よく考えれば本当の錯覚であった。上から見た時には、高さの恐怖も繋がることで、遠くに見え、下から見ると、その前の上から見た光景が残像として残っているので、余計に近くに感じてしまう。それは普通本能で分かるはずだと思うのに、その時分からなかったということは、最初からその人に対して興味を持った段階から、従属の関係しか感じていなかったということであろう。

 興味を持ったのは、言わずと知れば、前の日の後楽園で見かけた時に、見えなかった影である。

 その印象が強烈なインスピレーションを与え、恐怖を煽ったのだ。その世に見た夢で、すでに忘れられなくなってしまっているのを感じると、何の根拠もないのに、井倉洞でその人を見るという妄想に駆られるようになった。

 その妄想が功を奏したとでもいうのか、本当にその人を見てしまった。その時点から、もうつかさの中で、疑いようのない従属関係が生まれてしまったに違いないのだ。

「だけど、待てよ?」

 とつかさは、ふと我に返った。

 今まで従属関係を感じてきた相手には、もう一人、対になる人がいて、その人とのたちとの間に繰り広げられた従属関係は、

「三すくみ」

 という関係を形成していたのではないだろうか。

 それを思い出すと、つかさは今回出会った相手に従属関係を抱いて、本当にいいのか、考えてしまうのだった。

 つかさは、子供の頃から気になる人を見かければ、偶然なのだろうが、何度か出会うということがあった。今回もどこかで出会いそうな予感があったのだが、まさかこんな翌日に、まったく違う場所で出会うなど、思ってもみなかった。

 今まで気になる人と出会った時は、時間は違っていたが、同じ場所だった。これにしても別の時間だということで、タイミングとしての偶然なのだろうが、今度の場合は、場所も違えば時間も違う。ただの偶然として解釈できることではない気がする。

 しかも、幻影として考えたとしても、同じ人間がまったくあんなに素早く別の場所で診れるなど、不思議なことだった。

 だが、逆に彼の立場から考えればどうだろう? 彼がもしつかさを意識しているのだとすれば、自分の行動スピードからは考えられないタイミングで姿を現すのだ。相手も気持ち悪いと思っているかも知れない。

 それを考えた時、つかさは慣性の法則を思い出した。

 例えば電車などの「動いている密室」に乗っている時、飛び上がればその着地点は、電車という密室の中での出来事になる。つまりは、表に対していくら物体が移動しているとしても、垂直に飛び上がれば、着地点は飛び上がった場所なのである。

 この理屈は、普通であれば、列車が動いているので、表の世界とを一緒に考えれば、着地点はかなり後ろにずれるはずなのに、そうはならない。

「密室の中で繰り広げられるスピードというのは、基本的に一定のスピードに列車が達すれば、列車自体には、前にも後ろにも圧力を感じない。だから、無風無圧力状態なので、飛び降りる場所は同じ場所なのだ」

 という考え方である。

 だから、密室では、その密室における力が優先すると考えればいいのだろう。ある意味、これが当たり前だと思っていることでも、よく考えると不思議であることというのは得てして多いもので、この場合のように科学で解明されているものもあれば、諸説存在し、それが正しいのか分かっていないものもある。

 つかさもいろいろと不可思議な現象を気にしていたりするが、以前調べた時、

「科学的には完全に証明されていない」

 というものがあった。

 それは、鏡によって写された姿であるが、

「鏡に写った自分の姿というのは、左右反転しているものであるが、なぜ上下で反転していないのだろう?」

 皆鏡に写った姿を当たり前のように見ているが、この疑問を感じることはあまりないだろう。

「一生に一度くらいは、どこかで感じることもあるのではないか」

 と思えることであるが、もし感じたとしても、その感じ方は人それぞれ。

 時間をかけて考えてしまう人もいるだろう。いろいろと本を読んで調べる人もいるだろう。しかし、普通の人は、別に自分の生活に直接影響を及ぼすことではないので、ほとんど意識することもなく、やり過ごすのではないかと思う。

 そういう意味では、電車の中での密室の感覚もやり過ごしているのではないだろうか。この感覚は、上下動でも感じることができる。

「密室の中で上下動するもの」

 と考えた時に、すぐに思い浮かぶのはエレベーターであろう。上に向かう時、最初に感じるのは、下に引っ張られる力、そして到着する時には、宙に浮く感覚を感じる。それは密室がから違和感として抱くもので、表が見えていれば、そんな感覚はないだろう。人というのは、まわりの規則的な法則としての運動を無意識に理解しているので、表が見えていれば、エレベータが動き始める時は、下に掛かる圧力を、そして到着する時には身体が宙に浮くであろうということを意識しているので、何事もなかったように動くことができる。それが本能であって、潜在意識というものであろう。

 だから、電車の中で垂直に飛び上がった時に真下に落ちる感覚は、当然のこととして身体が覚えていることなので、いちいち意識しないのである。きっとそれも鏡の上下感覚にしても同じことではないだろうか?

 そう思うと、井倉洞で見た相手に対して上から見たのと下から見上げた時とで距離の違いを感じる理屈も何となくであるが分かるような気がした。

 つかさは、そんなことを考えていると、ついつい頭痛がしてくるのを感じる。これは小学生の頃からであるが、考えてしまうことで興奮してしまい、自分の世界を形成してしまうからではないのかと思っているが、その日は、熱っぽさもさることながら、汗が背中に滲み出ているのを感じた。

 もちろん、風邪によるものでも、熱中症などによるものではない。特に体調の悪さなどで、本当に熱がある場合には、汗は出ないような気がする。身体にどんどん熱が籠り、ある程度まで熱が出きらないと下がってこない。それは身体の中にある免疫が身体に入ってきた細菌と攻防戦を繰り返しているからで、そんな時に熱が出るのである。本当はそんな時、熱を冷ますようなことをせずに、ある程度まで熱が出尽くすと汗が噴き出すようになり、その汗が毒気を出してくれるので、完全に汗が出尽くすことで、最後には熱が下がってくるというメカニズムを人間の身体は持っている。

 つかさはそこまで高い熱が出るという感覚はなく、ただ、指先に痺れを感じた。

 これは子供の頃から旅に出るなどのような普段と違った環境に置かれた時、時々起こっていた状況である。指先が痺れるというのも同じで、きっと、精神的な興奮が身体にもたらした影響であり、大したことはないと思っていた。

 その日も同じだと思い、時間を見ると、そろそろ昼食を摂ってもいいくらいの時間になっていた。十二時には少し早いが、空腹ならそれも致し方ない。食事を済ませると、すぐにそのまま伯備線に乗り込み、微衷高梁に移動した。

 この街は、たまにドラマの撮影などが行われたり、最近では、

「天空の城」

 として有名になっている、備中松山城が近いということで、観光スポットになっていた。さすがに、この時間からの天空の城は行くのは無理があったので、市街地を散策するにとどめた。丘の中腹にある昔からの日本家屋としての豪邸が見えたが、そこも映画やドラマなどの撮影に使われた場所としての観光スポットになっていた。

 備中高梁では主に、観光という視点よりも、情感を伝えたいと思った。ただここも撮影スポットはどこも同じような場所からのショットで、真新しさは感じられなかった。

「なかなか難しいものね」

 記事さえしっかり書けていれば、写真など、そんなに気にすることもないとは思うのだが、どうしてもオリジナリティを求めるつかさは、何かのこだわりを感じてしまうのだった。

 すでにその時にはつかさの微熱はなくなっていた。

 後から思うと、

「あの時の幻も、微熱の中で自分が抱いた妄想だったのかしら?」

 と感じていた。

 すでに時間が経ってしまったことで、つかさには、影のない状況と、同じ次元で動く時間が違っているという状況を同じ人に感じたということで、幻だと思うようになっていた。

 ただ、この感覚はつかさだけにあるものではないだろう。

 誰にでも、そう思えるのであれば、それは幻以外の何者でもないはずだ。

 それ以降の取材旅行には、これと言って特記する事項があったわけではない。つかさは予定の取材を終えて、社に帰ってきた。締め切りまでに原稿を仕上げて、何事もなかったかのように、またいつもの毎日を過ごしていたのだった。

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