第7話 正体
今までに取材でのインタビューは何度かこなしてきたので、いまさらという感はあるが、正直にいうと、相手が作家というのは初めてだった。確かにプロの先生というわけではないが、自分が最初に目をつけていた素人作家を自分でインタビューできるというのも、どこか感無量な気もする。
しかし、逆の心境もあった。
自分が目指しているものが小説家ということである。夢に見ている相手に対して果たして自分が何をどのように聞けばいいのかということは、かなり考えなければいけないことではないかと思うのだ。何を聞いたとしても、相手が返してくる返事に、自分の気持ちがブレないとは限らない。羨ましいという嫉妬心が生まれないとも限らないし、自分にとって目指していたものの印象が変わってしまわないとも限らない。それを思うと、若干怖い気もしてくるのだった。
小説家を目指すようになったのが、いつからだったのかということはハッキリと覚えていない。ただ、高校の時に先輩から、一人の作家の本を貸してもらって、それを読んだのがきっかけの一つだったと思っている。
いつもお世話になっている先輩だったので、その頃まではあまり読書もしたことはなかった。中学の頃までは文章が苦手で、国語のテストでも、文章よりも先に設問を読んで、例題文を中途半端にしか見ずに答えていたではないか。それを思うと、本を貸してもらったとしても、それは、
「ありがた迷惑」
でしかなかったのだ。
しかし、貸してもらった小説は、つかさに衝撃を与えた。
「こんな面白い小説があるなんて」
と、ベタな感想をもらしたほどであるのだが、それが内容そのものというよりも、作家の文章力が大いに影響していた。
「まさか、文章で心を動かされるなんて」
と感じさせられた。
それは、マンガなどのビジュアルでは言い表せない部分を十二分に秘めているということを読んでいて分からせてくれた。
小説における文章は、想像力の賜物であり、映像や画僧、そして絵などから感じるものはしょせん二次元であり、小説による想像力は、時系列迄含んだ想像力の四次元ではないかと思わせたのだった。
小説を読み込んでいくと、
「奇妙な味」
という世界が広がっていく。
「次はどんな文章で、読み手の度肝を抜いてくれるのだろう?」
ということを感じながら読んでいると、一行一行、さらには一文字ごとに、迫ってくる何かを感じないわけにはいかないではないか。
しかも、つかさは、本というものの形が好きだった。掌にちょうどよく収まる文庫本、カバーのデザインも、小説の内容に則して作られていて。特にSFやオカルトなどは、イメージが浮かんでくるほどだった。
それまでは、怖い話はあまり好きではなかったが。実際にホラーも読んでみると、いないはずの妖怪や、ありえないと思える怪奇現象も、すぐそばに蠢いているように思えてきた。
それをいかに表現するか。それが小説の世界である。つかさの好きなジャンルである。
「奇妙な味」
と呼ばれるのは、
「ごく普通の一般的な人が、常識では考えられない世界に足を踏み入れたことで起こる数々の現象を書いた話」
ということになる。
あくまでも、普通の人が普通に暮らしていて、それがいつ何時、不思議な世界への扉を開くか分からないというのは、テーマになっている。
だから、恐怖の中にも、想像が容易なものでなければ、
「奇妙な味」
という小説は成立しない。
それを思うと、小説を読む側の姿勢も、読みながら、自分もそんな世界を垣間見ているということを意識しながらでなければいけないと思うようになっていたのだ。
何しろ自分の小説は、
「質より量だ」
と思っているので、小説を書いていても、
「人を感動させられるなんてこと、ありえない」
と思っていた。
自分がどうだからと言って、人もそうだとは言えないが、実際に面白いだとか、悲しいだとか、かわいそうだとかなどと、感じたことはなかった。それならまだ、
「事実は小説よりも奇なり」
と言われているように、ノンフィクションの歴史関係の話や、歴史上の人物の伝記などを読んでいる方が、よほど心を動かされるというものだ。
そういう意味で、人の書く小説にどこかわざとらしさを感じるというのも無理もないことではないだろうか。
これもやはり、自分のことを棚に上げてなのだが、人の小説にあざとさを感じてしまうと、自分もそこで執筆の勢いが止まってしまう。それが嫌だという理由が、
「質よりも量」
という方針に繋がっているのだ。
実際には、すぐに忘れてしまうというのもあった。特に小説を書くようになってから、自分でも物忘れが激しくなってきたような気がする。小説を、その時、二時間ほど集中して書いたとしても、そこから同じ二時間が開いたとしても、その間に前に書いた内容と、ほとんどと言っていいほど覚えていなかったりしたものだ。
それは、小説を書いていて自分で集中してしまうことで、自分の世界を作っているのである。だから二時間集中して書いていても、本人は二十分くらいしか書いていなかったような気がする。それほど集中力を高めているので、一旦自分の世界を抜けてしまうと、また元に戻すまでが大変なのだ。
それは現実世界が重たいという認識ではない。あくまでも、小説の世界に入り込んで書くという印象から、現実世界というのは、逆に虚空の世界のように感じ、うつつの世界としてしか感じないようになっているのだった。
うつつの世界は、現実世界とはまた少し違う。しいていれば、小説を書くために入り込んでしまう世界への入り口とでもいうべきか、その時小説を書き終えてから、戻る世界がうつつであればいいのだ。
そうすれば、前に書いた内容が記憶として格納されることもなく、意識のまま、小説の世界に戻ってこれるので、物忘れもそこまでひどくはないだろう。
だが、最初に小説の内容を覚えていない時は、自分でも焦った。
「まだ若いのに、健忘症にでもなってしまったのかしら?」
と感じ、顔が青ざめた気がするくらいだった。
小説を書き続ける書き続けない以前に、普通の生活にも影響が出てくれば怖いものだと感じたのだ。
だが、それは健忘症が原因ではなく、自分の集中力の高さの弊害として起こったことであるならば、それはそれで仕方がないと思う、
特に小説が書けるようになった代償だとするならば、少々物忘れが激しくなったくらいは、想定の範囲内だと思うようになっていた。
そんなつかさが、人の小説に感動したなどというのは、本当に久しぶりのことだった。文章作法などでは、見習うべきところある人はたくさんいるが、基本的につかさが読む小説は、人を感動させるものではない。
いや、恐怖を与えたり、考えさせたりするというのも、一種の感動を与えると見てもいいのかも知れない。
そう思うと、自分の書いている、
「質より量」
の小説も、中には人に感動を与えているものもあるかも知れない。
年齢もまだ二十代の半ばに差し掛かった頃、まだまだ若い部類になろうから、作品もそれほどたくさんではないが、数年後、三十歳になった時にどれほど増えているか、自分でも楽しみだった。
小説を書くということがどういうことなのか、つかさは分かっていないような気がしたが、今の気持ちを持ち続けることが、今は大切なのだと思っている。
自分のまわりにいる人のほとんどは、つかさが小説を書いているということを知らないだろう。実際に誰にも話をしたことがなかったからだ。
最初の頃が、おこがましいという気持ちが強かったことで、人に話すのを恥ずかしいという感情になるのだと思っていたが、同じ恥ずかしいという感情であっても、今はおこがましいという感覚とは少し違っている。
「なんだ、この愚作は」
と言われるのが怖いのだ。
おこがましいという謙虚な気持ちが消えると、人から認め荒れたいという思いが強くなり、それが転じて、人から中傷されるのが怖いのだ。
おこがましいという気持ちが消えたわけではない。中傷が怖いという意識の方が、おこがましさを上回っただけなのだ。
その怖さが得体の知れないものであるだけに、おこがましさが消えたと思うほど、気持ちが怖さに移行していた。その思いが、小説を書く上でのプロセスを歩んでいるということなのかも知れないが、本人としては、どこか気持ちが後退しているという意識を強くするのだった。
そんな感情の中、この日になって、初めて小説を書いている人に直接話が聞けるというのは、どこか感無量なところがあり、緊張とは違った震えが止まらなかったのだ。
インタビューは、彼が我が社に来てくれるということで、会社の近くにある喫茶店で行うことにした。
「事務所でもいいですよ」
と言ってくれたが、何しろ事務所は狭いし、資料が山積みになっている関係で、それなら近くの喫茶店でしゃれた店があるので、そこで行うことにした。
待ち合わせの時間かっちりに、その人は現れた。
少し緊張気味なのか、歩き方がぎこちなかった。しかしよく見てみると、
――あれ? どこかで見たことがあったような――
と思ったが、思い出せなかった。
相手もつかさを見つけて、軽く頭を下げたが、どうもつかさの顔から目が離せないようだった。
「あの、どこかでお会いしたことがあったような気がしたんですが」
と最初にいったのは、彼の方だった。
年齢的にはそれほど若いわけではなく、自分の方がまだまだ新米と思えた。
――確かにどこかで会ったことがあるような――
と思ったが、すぐには思い出せなかった。
「気のせいだったんでしょうかね」
と言って、最初に自分がどこかで会ったことがあると言い出したのに、それを否定し始めた。
相手に否定されると、今度はつかさの方が、この人に会ったことがあったはずだという思いを強くした。
すると、つかさは思い出した。
――そうだ。この人、数週間前の山陽道の取材旅行で、出会ったあの「影のない男」に似てはいないだろうか?
と思った。
「つかぬことをお伺いしますが、ここ一か月の間くらいのことなんですが、岡山県に旅行された覚えはありませんか?」
とつかさが聞くと、相手はキョトンとして、
「岡山県ですか?たとえば、どことかにですか?」
と聞かれたので、
「岡山の後楽園だったり、新見の井倉洞だったりなんですが」
というと、
「ああ、行きましたよ。最初は後楽園にいって、翌日に井倉洞に行きました」
というではないか。
話を聞いてみると、時間的にもつかさが見た相手と同じようだった。そこで思い切ってつかさは聞いてみた。
「あの時、あなたの影がなかったような気がしたんですが、私の気のせいだったんでしょうね」
というと、彼は一瞬ビックリしたような反応を見せたが、次の瞬間、溜息をついて、
「そうですか。実はよく言われるんですよ。たまに影を感じられないってですね。よほど僕の影ってそんなに薄いんですかね?」
と、苦笑いというより引きつった笑いをしていた。
冗談とも本気ともどちらともいえない、これこそ、寒いと言われるギャグに、どう返答すればいいのか困ってしまった。
――これから取材だというのに、こんな空気にしてしまって――
と、つかさは自分の言葉が口から出てしまったことを後悔させられた。
しかし、これはきっとお互いに感じていたことであろうから、最初に聞いておくべきことであることは間違いない。もし、それでインタビューがうまく行かなかったのなら、二人の関係はそんなものであり、これ以上の関係を築くことはできないであろう。
「実は、私のあの小説『性格的なドッペルゲンガー』なんですが、あれを考えたのが、岡山への旅行中だったんです」
「それはこの間のではないですよね?」
「もちろん、そうです。あの小説はそんなに最近のものではないので、その原案の時だったので、かれこれ一年以上前になりますね」
「そんなに前だったんです絵」
「ええ、でも、小説をずっと書いていて、私の一番の作品が自分でもあの作品だと思っているので、あの時から、時々岡山あたりに旅行するんです」
「その時に、いろいろイメージが浮かんできたりするんですか?」
「ええ、そうです。私の場合は他の人のような取材旅行という感覚ではないので、イメージを抱くために、自分を小説の中に入れ込むことができる岡山へ出かけるのが好きなんです。ひょっとすると小説の中に入った自分を思い浮かべる気持ちが強すぎて、人が見た時に、影が見えないなどという錯覚を引き起こすのではないかと思っていたんですが、あなたにも同じように見えたんですね」
「他の人は、あなたが小説を書いていて、時々、そのイメージを思い描いていることを知っているんですか?」
「ええ、私はまわりに小説を書いているということを隠しているわけではないですからね。だから小説をイメージしている時の私は分かりやすいそうです」
「じゃあ、その時に皆さん影が見えないと錯覚されているのかも知れませんね」
「そういう先入観があるかも知れまぜん。もしそうだとすれば、理屈は分かりますが、実際に会ったことのないあなたにもそう見えたというのは、本当に私自分が影を薄くできるオーラを醸し出していて、あなたが私のオーラに反応したのかも知れない。感覚に共鳴したというかですね」
「音というのも、その共鳴反応で、特定の音に対して共鳴する物質があるようで、その二つが本当に共鳴し合うと、かなりのエネルギーになるという話を聞いたことがあります。そんな感じだったのかも知れませんね」
つかさは、完全に理解したわけではなかったが。この話をすることで、岡山で見た光景の半分は、理解できたような気がした。彼女に影がなかったのは、やはり彼女の言う通りであろう。そして、その思いを強く抱いたまま翌日になってまた出会った。井倉洞での、上から見た時と、下から見上げた時に感じた違和感、さらには時間というものの違和感、さらに前の日の影は見えなかったという三つの出来事は、何かつかさの中で引っかかっている、
「三すくみ」
の関係に似ているように思えた。
影がないという理屈により翌日の上からと下から見上げた時の時間というものを支配した。その時間への錯覚が、上からと下からの視界としての錯覚を生んだ。そして、視界の錯覚が、結局また、彼女の影のないということを証明している結果になった。
これは厳密な、従属関係や支配関係による均等な三すくみとは違っているが、ある一定の空間、時間内において形成する三角形という形を形成しているものとしては、十分に見えていることである。この際のキーワードは、「証明」ではないだろうか。お互いがお互いの現象を証明するような関係、そんな三すくみではないかと思った。
さらに、これだけではハッキリとした三すくみとしては弱い感じもするので、もう一つキーワードがあるとすれば、「循環」なるのではないか。
「いや、待てよ?」
そこまで考えてくれば、もう一つ「錯覚」というキーワードも成り立つ。ここでまた三つ揃ったわけだ。
「証明」と「環境」と「錯覚」
そうやって考えていくと、どんどん三すくみが狭まっていく。
まるでロシアの民芸品の、
「マトリョーシカ人形」
のようではないか。
三すくみと呼ばれるものは、考えようによっては、結び付けようと思えばいくらでもできる。少し範囲を広げれば、今言われているだけの三すくみではなく、無限にできるものではないかとも思えてきた。
人によっては、それを錯覚として、自覚までには至っていないが、自分が自分で創造した三すくみに嵌りこんでいるのかも知れない。
その三すくみがどのようなものをもたらすのかは、分かっているとすれば、渦中にいる人の中にある、潜在意識ではないだろうか。なかなか意識してしまうと感じるのは難しいことで、きっと、
「錯覚だ」
として片づけてしまうことだろう。
特に人間は、超常現象や気持ち悪いと感じる現象に遭遇すれば、どうしても怖いという思いが先行し、それを打ち消そうとして、錯覚だと思い込もうとするのかも知れない。
それを思うと、つかさには、
――錯覚であっても、軽率に考えて、スルーしてはいけないんだ――
と思うようになってきたのだ。
「ところで性格的なドッペルゲンガーという発想には、何かモデルのような人がいたりするんですか?」
と質問してみた。
すると彼女は笑って、
「そうですね、別にこれと言っているわけではないんですが、もしいるとすれば、自分の中でしょうかね。そもそもドッペルゲンガーというのは、同じ時間、同じ次元で、別の場所に存在している『もう一人の自分』ということですからね。少なくとも自分でなければ成立はしないんですよ」
「でも、この性格的というニュアンスで考えて小説を読むと、同じ人物ではないかのように思えてくるんですよ。そう思って読み込んでいくと、最後には何か、本当に違う人間なのではないかというボヤけた感覚に陥ったまま、読み終えてしまうんですよ」
というと、
「なるほど、そうでしょうね、そんな話は公開しているサイトで、言われたことがあります。それは公開部分の感想で書かれたものではなく、一読者から、SNS内のメールとしてもらったものだったんですが、その人が面白いことを書いてましたよ」
「面白いというと?」
「再読して似たらしいんです。そうすると、最初に読んだ時と、もう一人の自分、つまりドッペルゲンガーの方が、雰囲気がまったく別人のように思えたというのです。それでまた再再読をしてみると、今度は主人公のイメージが別人だったというのですよ。それを見て私は、自分の小説が他の人にそんな風に読まれているのかって、少しビックリしましたね」
「書いた後、読み直しや推敲はしないんですか?」
「私はほとんどしません。したとしても、それは誤字脱字を直すだけです。下手に推敲などをしようものなら、自分の作品に嫌悪を感じてしまって、書きなおししなければいけないくらいの気持ちになるかも知れないと思いました。たぶん、そんな風に思うと、きっとショックでしばらく小説が書けなくなるかも知れません。別にプロというわけでもなく、自分が感じたことを好き勝手に書いているのが楽しくて書いているのに、悩んでしまって書けなくなるというのは、本末転倒なことですよね」
その考えを聞いて、つかさは何度も頭を上下に振った。
「まさにその通りだと思います。私も趣味で小説を書いているんですが。小説を書きながら同じようなことを思っています。本当にラフな寒河江なんですけどね」
「それでいいんじゃないですか? 私はプロにまではなりたいと思っているわけではないんです。下手にプロになれば、第一優先は読者になり、その読者を満足させて、本を売るという目的がその次になる。私個人への優先順位は下の方になってしまいますよね。そんな青写真は私の中では想定外になるんです。自分で満足できなくても、まわりにウケるような小説を書かなければいけないなんてこと、想像もできませんよ」
「小説をいうのは、そういうものだと思います。やっぱり、どこまでが自分の世界なのか、まわりに左右されるようでは、いい作品が書けなくなるかも知れないですよね。私はプロを目指したいとは思っていたんですが、最近では同じような考えからアマチュアでもいいような気がしていたんです。ただ、自分でそれを納得させるだけの勇気もなかったんですが、こうやってお話を伺っていると、その気持ちもわかる気がします」
「私は、まだ公開している作品は例のサイトに数作品を掲載しているだけなんですが、実際にはもっとたくさん書いています」
「公開はなさらないんですか?」
「いいえ、順次していこうと思っています。少なくともこれからは、一週間に一作品ほどはアップできるのではないかと思っています。最近までは一日に小説を書く時間が一時間から二時間の間くらいだったんですけど、今では四時間近く使っています。最初は二時間も集中力が続かなかったので、一時間刻みを二回に分けて書いていましたけど、今では二時間がそれほど苦痛ではなくなってきたんですよ。だから、二時間を二回だったり、二時間を一回に、一時間ずつを二回などという感じで書いていくと、結構書けるようになった気がします」
「やっぱり、小説の執筆というのは、集中力なんでしょうね」
「ええ、私もそう思います」
そんな会話をしばらく続けていたが、すでに二人ともだいぶ精神的に消耗しているようだった。
だが、っこで一つの何かの正体が判明しそうな気がしたのだが、会話を進めることで、それすら本当の正体なのか、分かってくることを望んでいたのだ。
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