第5話 ネット記事
何かの記事を独自に発信しようという気持ちはあった。自分の会社から出せればいいのだろうが、あまりにも夢物語であるため、編集長が許可を出すはずがない。何しろ、
「自分が書きたい作品を書くことができない」
そんな出版社だからだ。
しかし、それも仕方のないことで、自分はプロの作家ではない。実際に人に伝えるべき現実を、ライターとして書く。そこには、本人の意識はほとんどない。あったとしても、読者をひきつけるものでなければならない。あくまでも主役は、雑誌に書かれた題材なのだ。
だが、発信したいという気持ちもあり、ただ、そのままの情景を書いても、読んだ人は面白いかも知れないが、つかさにとってはあくまでも仕事でしていることと同じでしかないので、そんなものを書く気持ちはなかった。当然いくらか修飾して書くくらい許されるだろう。
書きたいという気持ちがありながら、なぜか書けない気持ちにもさらに苛立ちを覚えていたのだ。
またしてもムラムラした日々が数日続いたかと思うと、ある日ネットを見ていて、奇妙な記事を見つけた。
偶然目に入ったといえばそれまでだが、本当に偶然だったのだろうか。普段はあまり見ないオカルト関係のページであったが、気になったのは、
「性格的なドッペルゲンガー」
という表題になっていて。その見出しに対しての説明文で、
「性格的なドッペルゲンガーというのが、存在するのか」
ということをテーマにして書かれているようだった。
ドッペルゲンガーというのは、いわゆる、
「もう一人の自分」
ということであり、
「似ている人間ではなく、あくまでも自分のことである」
というのが、ドッペルゲンガーの基本であった。
考えてみれば、ネットで何かを検索するなどということも、今の会社に入らなければすることもなかっただろう。仕事上やむなくネットで検索しないといけないという状況になったのは仕方のないことで、学生時代は気になることがあれば、本を買ったり、図書館で見ていたりした。
まわりの人からは、
「何という希少価値な人間なんだ」
と言われていたが。それでもよかった。
猫も杓子もネット、ネットと騒ぐことがどうにも自分の性格に合わないと思ったのだ。
「人と同じでは嫌だ」
と感じているつかさは、
「皆が皆ネットに嵌るのなら、私のようなアナログ人間がいたっていいじゃない」
と思っていた。
高校時代まで、たまに小説を書いたことがあったのだが、その時は手書きだった。パソコンを使える環境がなかったわけではなかったが、あくまでも手書きにこだわったのだ。
今ではさすがに、手が痺れてきたりして、書く量に限界が生じてしまうことで、パソコンを使っているが、いまさら手書きに戻すことはできないが。手書きで書いていた頃の自分の作品も大切に保管してあるというものだった。
そのうちの半分くらいは、パソコンに打ち込んで、パソコンでも保存してあるので、何も原紙を保管しておく必要もないのに、保管しておこうと思ったのは、手書き時代に書いた作品として、それ以外の作品との差別化を図りたいという思いと、やはり、直接的な手書きへの執着であろう。
「ネット万能の時代に、手書きを主として書いていた時期があった」
ということを、自分で意識できるように残していると言っても過言ではないだろう。
ただ、つかさはネットが嫌いだったというわけではない。ネットはネットでいい部分もあったのだ。実際に検索を始めると、書きながら調べることもできて重宝する。だからと言って、従来の気持ちを失いたくないという思いとが交差しているというのも事実であろう。
ちょうどその日も手書きの頃に書いた作品のノートを取り出して、懐かしくなって見ていたのだ。
時間的には十分ほどだったが。自分では三十分以上は見ていたような錯覚に陥っていたのだ。
仕事でいろいろな情報を検索する時くらいしかネットを利用しなかったが、最近は小説の無料投稿サイトにも目が行くようになっていた。
元々、出版業界は、新人作家への登竜門が少なかった、有名出版社の新人賞に応募するか、あるいは持ち込み原稿くらいしか手段がなかった時代があった。いわゆる昭和の時代がそれであったが、新人賞を儲けている出版社も数個しかなく、さらに持ち込み原稿など、誰が目を通すものかというのが現状である。毎日のように新人作家が売り込みにくる出版社も数が限られているのだから、当然一社に対して一日十人以上などということも結構だっただろう。
いちいち、そんなものを読んでもいられない。そうなると、封筒を開けることなく、ゴミ箱行きというのが、当たり前だっただろう。
しかし、世紀が変わる頃に、いわゆる「自費出版系」と呼ばれる会社が数社立ち上がった。
彼らの触れ込みは、
「原稿をお送りください。評価をしてお返しします。その際に数パターンの出版方法をご提案されていただきます」
なとというものであった。
持ち込み原稿がすぐにゴミ箱行きだということは、ほとんど誰もが周知のことだった。だから、原稿を見てくれて。しかも評価をして返してくれるのだから、それだけでもどれほど良心的かということを示している会社であった。
良心的な会社だと思うから、原稿を送る方も、先方の見積もりに気持ちを動かされる。しかも、有名書店に一定期間置くと言われれば、心が動くのも無理もないことだ。
協力出版などという、出版社と筆者の間で本の代金を折半するというものであるが、一般の人間にはさすがに簡単に手を出せる金額ではない。
だが、それでも不思議なもので、実際に出版する人や本の数はハンパではない。有名出版社をはるかに超えて、日本一の出版数を誇るところも出てきた。破竹の勢いとはまさにこのことであろう。
これはあくまでもブームである。ある意味、昭和の最後の汚点ともいえる「バブル経済」に似ていると言えよう。
実際の経営は自転車操業で、まず、宣伝を大々的に打って、原稿を募集する。そして、原稿を読んで、批評して作者に返す。そこで見積もりを出して、さらに出版を促す。これが大きな流れだが、要するに本を出す人が増えなければ、宣伝広告費と、本を読んで批評して返す人、そして同じ人かも知れないが、その人たちが本を出すと言わせて、本を作製するまでのサポート。かなりの人件費がかかることであろう。
そうやって部数を増やしていくのだが、この後大きな問題が孕んでいる。
出版社が会社を興した時は、ここまではある程度計算していたかも知れないが、それ以降の出資を考えていたかどうかである。
本の製作費は計算していたであろうが、本屋に本を置いてもらえるとは思っていないだろうが、ひょっとすれば、一日二日は置いてもらえるなどという甘い計画もあったかも知れない。
だが、一日二日では雀の涙にしかならないが、実はこの問題が二つの大きな意味を持ってくるのである。
一つは本屋では置いてもらえないとなると、千部くらいの部数w作成しないと、出版社もわりに合わないのだろうが、作成した本を果たしてどうするかという問題があった。
本を出したいと思う人が多ければ多いほど、その在庫は膨れ上がることになる。そうなると、巨大な倉庫をいくつも借りて、どんどんそこに置いておくか、下手をすれば、処分するしかないのだろうが、筆者におお金を出させた以上、勝手に処分もできない。
本をたくさん作らなければ儲けにならないという理屈と、本をたくさん作れば、在庫が膨れ上がるという理屈が相反しているため、大きな問題になってしまうのだ。
そもそも販売という理念からかけ離れ、作ることでお金を回そうという発想が、最初から間違っているのだ。だから、在庫を抱えるということに頭が回らないのかも知れない。
なるほど、着想自体は素晴らしいかも知れない。持ち込み原稿が読まれもしない時代なので、読んでもらって、さらにその先があると思うと、本を出したい人は飛びつくのも無理もないことだ。
もう一つの問題というのは、
「本を作れば、有名本屋に一定期間、置かれます」
という触れ込みだった。
作者としても、素人の書いた作品なので、そんなに長く本屋に陳列されるなどとは思っていないだろう。せめて長くても一週間、そのあたりを考えるだろう。しかし、実際には一日も本屋は置いてくれない。
そもそも、そんな無名の出版社のコーナーなど最初から存在もしていないのに、毎日、本を出すと言って、何人もの人が同じ日を出版日にしているのだから、本屋の売り場面積が野球場か、遊園地くらいの広さでもなければ、スペースに余裕すらないだろう。
要するに、アドバルーンは挙げたが、実行していないのである。
それを知った素人作家たちは、個別に訴えて、裁判を起こしたりする。
そうなると、宣伝を命綱にして、信用を宣伝している出版社の評判が、グッと落ちることになる。もう、その会社を信用できずに、作品を送っても、誰も出版しようという人はいなくなるだろう。
在庫は減るかも知れないが、現在庫を抱えるだけの費用スラ、もう出すことができなくなる。
一番恐ろしい、本を出したいと思っている人の減少は、いきなりの資金不足をあらわにしてしまう。
そうなると、もうすべてが悪い方にしか働かず、結局、自己破産するか、倒産するかしかなくなるのだ。
倒産して清算に入ると、弁護士が入ってきて、本を出した人に対して、さらに不利になってしまう。
本を出したいとして出資迄して、まだ本もできていない人は、お金も戻ってこない。本もできないという悲惨なことになる。
出版した人であっても、出版社が抱えている在庫を、何と、二割掛けで、
「買い取るなら、買い取ってほしい」
と言い出す始末。
実際に裁判は泥沼かしてきた。
被害者の会を作ったりして、完全に法廷での泥仕合にしかならないのだ。
そんな状況が、世紀末から数年続いた。評判はまずまずだっただけに、数年でパッと咲いてパッと散ってしまったのは、あまりにも考え方が甘かったというのと、素人作家の心理をうまく掴めば、儲かるという、行き当たりばったりの考えだったのではないだろうか。
そもそも、本を出したい、小説を書きたいという人が爆発的に増えたのは、バブルが弾けてからのことであった。
それまでの時代は、会社では不眠不休の仕事で、業績の拡大を会社は狙っていたし、社員としても、やればやるほど会社から給料も出た。
今では、過労死問題であったり、ブラック企業の問題などもあるのだろうが、バブルの時代はあまり関係なかった。
しかし、バブルが弾けると、一気に業務縮小が加速し、会社は経費節減、仕事も提示までで、リストラなどという言葉もその時に流行ったのだが、不当解雇などの問題も頻発していた。
それにより、それまでの会社人間が、いまさら定時に帰ったとして、どうすればいいというのか、お金もそんなにあるわけでもない。それまでに貯蓄していた人は、いろいろ趣味を持つこともできるだろうが、お金のかからない趣味に走る人も増えてきた。
そういう意味で、小説執筆などはお金のかからない趣味としてはよかったのだろう。
何しろ、パソコン一台、パソコンのない時代は、原稿用紙と筆記具だけあれば、いくらでも書けたのだ。ゴルフや酒、ギャンブルなどに比べれば、これほど優良な趣味もないだろう。
そういう意味で、小説を書く人が爆発的に増えた。
実際には、サラリーマンだけではなく、家庭の主婦や、学生もお金がかからないという意味で誰でも書くようになると、自費出版系の出版社が流行るのも当然といえば当然である。
しかし、ここまで早く没落すると、誰が考えただろう。時代を駆け抜けたというには、あまりにもお粗末な結果に終わったが、
「世の中、そんなに甘くない」
というのを、完全に見せてくれた例でもあっただろう。
それにしても一つ気になるのは、出版社にいた社員である。小説を読んで批評迄して返送していたのだから、文章力は結構なものだったのだろう。元々、有名出版社にいて、リストラされた人だったり。新卒の文学部を卒業した学生だったりではなかったか、彼らはある意味素質があっただろうに、その後がどうなったのか、少し気になるところでもあった。
出版社があてにならなくなると、その頃からネットの方では、ブログなどが流行り出した。まだツイッターやインスタグラムのようなものはなかったが、初期のSNSとしては確立されていたと言ってもいい。
そんな中でその頃から注目されていたのが、いわゆる、
「小説の無料投稿サイト」
と言われるものだった。
そこでは、会員登録しておけば、好きな時に自作の小説をアップすることができる。それはもちろん無料であり、そのサイトが運営しているいくつかのサービスが受けられるというもので、無料であることから、さすがに有料サイトほどのサービスはないが、無料でできるだけのサービスを試みてくれているようだ。
素人の書いた小説であっても読みたいと思えば、無料で拝読することもできる。読者の方は会員登録がいらないというのも魅力かも知れない。
ただ、会員登録しておけば、そのサイト内でSNSのような利用方法として、作者の作品のレビューや感想を書いたり、会員同士でメールのようなやり取りができたりもする。
もちろん、たくさんサイトがある中でいろいろまちまちなところがあり、それぞれのサイトで特徴もバラバラだ。例えば、
「異世界ファンタジーなどに作品が多い」
であったり、
「ライトノベルが多い」
などと言ったサイトに則し、ジャンルやそれの伴った年齢層が、決まってくるようだった。
運営会社も単独でこのサイトを主に運営しているような小さなところもあれば、マンガの投稿サイトを他で運営していて、今度は小説版として開設という大手SNS関係の企業もあったりする。
どこに登録して利用するかはその人の自由であるが、無料であるということから、自分の作品を販売するということはできない。あくまでも書いた作品をネット上にアップし、公開という形で、人に見てもらうという趣旨である。
「作家になりたい」
あるいは、
「本を出したい」
と思っている人には物足りないのだろうが、自費出版社の残した、
「黒歴史」
を目の当たりにしてきた人は、これくらいの活動が一番無難でいいかも知れない。
何しろ無料で公開して、作品を自分だけで埋もらせることができるのだから、販売できないにしても、実害はない。
今から十年前くらいが全盛期だったこともあり、今では随分登録者も減っていることだろう。中には幽霊会員というのも多いはずだが、それでもまだまだ新規登録者も少なくはない。
登録者にも読者として登録している人もいて、作品をアップしていない人もいるというのも特徴かも知れない。
そんな無料投稿サイトに、実はつかさも登録していた。まわりの人には言っていないので、きっと誰も知らないだろう。しかもペンネームを使っているので、つかさが小説を書いていることを知っている人でも、どんなジャンルのどんな作風なのかを知る由もないだろうから、分かるはずなどないと思うのだった。
つかさが書きたいと思っているの、SFやミステリーだったが、そのどちらも加味したようなジャンルとして、オカルトがあるのではないかと思っていた。奇妙なお話や、都市伝説のような発想は、SFにもミステリー、あるいは、ホラーにも通じるものがあると思っている。
つかさが、偶然見つけたという、
「性格的なドッペルゲンガー」
というのがテーマの小説は、自分が数年前から登録している無料投稿サイトで見つけたものである。
このサイトには、数十作品ほどの短編を投稿しているが、ジャンルとしては、やはりオカルト系になったいる。人から聞いた奇妙な話であったり、仕事上、他の雑誌も研究する必要があるので、雑誌の中にあるコラムや、紀行文の中でのちょっとしたコラムであったりする部分には、オカルト小説のネタになる話も載っていたりするのだ。
ドッペルゲンガーというのは前述のように、自分本人でなければいけないのだろうが、ここでいう、
「性格的なドッペルゲンガー」
というのは、自分のことを何でも理解できる人間であり、下手をすると自分でなければ知らないことや、自分でなければそんな発想が生まれるはずはないと言ったものをすべて持っていて、行動パターンまで分かっているという、まるで、
「影のような存在」
と思える人のことであった。
その表現も小説の中に使われていて、
その影という文字を見た時、
――そういえば、取材旅行に行った時、後楽園や井倉洞で似た人には影がなかったんじゃなかったかしら?
というのを、いまさらながらに思い出した。
その小説の話は、無料での閲覧なのだから、自分のような素人が書いたもので、他の読者がどこまで感銘を受けるかは未知数だった。感想やレビューなどはなく、それを見る限りでは、さほど注目されているわけではなさそうだった。
つかさのようにオカルトが好きで、似たような経験を味わった人間でもなければ、なかなか感銘を受けるというのは、難しい話であろう。
ただ、つかさの投稿しているサイトは、ライトノベルなどよりも、本格的な作品が多いところなので、他のサイトに比べて年齢層の幅の広さが注目でもあった。
実際の、
「性格的なドッペルゲンガー」
の内容であるが、途中は端折ったとして、ラストの方で、その人を何か変だと思っていた主人公が見て、影がないことにやっと気づいた。その時に、初めてその人の性格であったり、生きてきた人生の記憶であったり、今何を考えているかという意識がすべて自分に入り込んでいくのを感じたのだ。
「まさか、この私があの人のドッペルゲンガー?」
と感じた。
なぜ、ドッペルゲンガーという言葉が出てきたのかというと、オカルト好きの主人公が、学校で他のオカルト好きの友達と話をしている時に出てきたワードがドッペルゲンガーだったのだ。
主人公は中学生の女の子で、彼女はオカルト好きではあったが、ドッペルゲンガーという言葉は初耳だった。
言葉のニュアンスにも興味を引いたし、話を聞けば聞くほど、興味をそそられたのだ。
「もう一人の自分」
この感覚に参ってしまったと言ってもいい。
自分が今までに見た夢で、
「一番怖かった」
と認識しているのが、夢の中にもう一人の自分が出てきたことだった。
夢の中でのもう一人の自分は、夢を見ている自分に気付かない。きっと夢というものを、スクリーンに映った映画のようなものだと思っているから、相手に見えるはずはないという思うがあるのだろう。
しかし、もう一人の自分には、スクリーン越しに、見ている自分を認識されているのではないかと思うのだった。
「認識できるわけなんかない」
と思って見ているのだが、どうも夢の中の自分を見ていると、何かを探しているように思えた。
それは手元であったり、足元と言った面前のものではなく、虚空のどこかに何かを探している。その様子がまるでスクリーンの先を見通そうとしているように感じるのだ。
「性格的なドッペルゲンガー」
という小説でも、見えるはずのない相手を探しているような描写になっていた。
「ドッペルゲンガーというのは、見てしまうと近いうちに死んでしまうと言われているのよ」
と友達は言っていたが、それこそ都市伝説の類であるのだが、過去にいろいろな有名人や著名人の逸話が残っていた李して、かなりの信憑性が感じられる言っていたが、本当であろうか。
しょせん都市伝説の類は、聞いた人がどこまで信じるかということであるが、信じるには共感だけではいけない。自分の経験に基づいて、経験や記憶が自分の感情を動かすだけの信憑性を持つことが前提であろう。
つかさは、奇妙な因縁をその人に感じた。
もちろん、ドッペルゲンガーというものに造詣が深いのも一つであるが、性格的という言葉にも何か惹かれるものがあった。
――性格的って、どういうことなのかしら? ドッペルゲンガーというのは、本人でないと成立しないはず――
と思いながら、そう思えば思うほど、影というキーワードが付きまとっていて、それが自分とこの作品を結び付けるものだという認識もあった。
本当は認めたくはないが、影のない人間を見たり、読みながら相手の過去や、考え方が見えてくるような感覚は、まるで自分がドッペルゲンガーになったような気がしてくる。
だが、それは自分がドッペルゲンガーなのか、相手がそうなのか分からない。しかし、
「見ると近いうちに死んでしまう」
という都市伝説を考えると、なんとかドッペルゲンガーではないということを証明しなければいけないような気もしていた。
だが、あくまでも同じ無料投稿サイトに登録しているというだけの関係で、個人情報のうるさい今の世の中で、相手を特定することは不可能に近い。やはり、なるべく意識しないようにするしかないということなのだろうか。
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